*木下順二作 丹野郁弓演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA 17日まで
シェイクスピアの『マクベス』初日を迎える劇場の楽屋で、主演の俳優(神敏将)と演出家(齊藤尊史)は、ある場面の演技を巡って議論になる。俳優は20年前、戦争中の体験したある出来事を語り始めた。
1944年、ワルシャワ蜂起に対するナチス・ドイツの弾圧から女教師(細川ひさよ)、前町長(小杉勇二)、ピアニスト(花城大恵)、医師(天津民生)、老人(西川明)らが郊外の小学校に身を隠している。逃げ込んできた若い俳優(神敏将)に、老人は自分が舞台の俳優であること、これまで多くの作品に出演してきたことを熱く語る。そこへゲシュタポ(橋本潤)が兵士たちと通訳(山本哲也)を連れて現れた。レジスタンスによる鉄道爆破の報復として、4人の知識人を銃殺するという。老人の身分証明書には簿記係とあり、除外されるが彼は「自分は俳優である」と主張する。ゲシュタポが彼に命じたこととは?
本作は1997年に大滝秀治主演版を観劇した。大滝の舞台を観た最初で最後の体験かもしれない。教師役の南風洋子がドイツ人将校に身分証明書を差し出すときのきっぱりとした動作、議論する俳優と演出家が「マクベス」を発語するとき、「マ」ではなく「べ」にアクセントがあったことは覚えているものの、記憶はもはや曖昧である。
休憩無しの約75分間、劇場内の空気は異様なまでに張りつめた。作品の力であり、劇団の財産演目ということを越えて、演劇に関わる人生を選んだ人々に対して鋭く突きつけられた問題を受け止め、答を出そうと葛藤する様相、客席も決して安穏としてはいられず、重苦しい課題を与えられたためであろう。
ゲシュタポは興味深い人物である。いかにも冷酷無比の構えであるが、彼はおそらくシェイクスピアの『マクベス』だけでなく、さまざまな舞台を観て戯曲も読み、芸術に対して彼なりの見識を持っていると思われる。マクベスが幻の短剣に導かれ、王の暗殺へ向かう場面を演じるように命じ、本物の銃剣を老人に差し出す。老人がそれで自分に斬りかかってくるわけがないと高を括っているわけではなく、そうされたとしても全く動じない圧倒的な自信と優越感を持っているのだ。レジスタンスの鉄道爆破の報復として4名の知識人を銃殺するというやり方。知識人と労働者を区別し、人々を分断する。知識人と見なされた側の自尊心をある面で満たしながら、その代りに命を奪う。労働者とされた側は、命を救われた代りに自尊心を傷つけられ、どちらにも傷を残す。まことに残酷で卑劣なやり口である。
戦後の劇場の楽屋に始まり、老人が俳優と見なされるや否やの場面のあと、物語は再び『マクベス』初日直前の楽屋に戻る。戦争を生き延びて大劇場で主演するまでに成功した俳優を支え励まし、同時にある意味で呪縛となった無名の「巨匠」の演技について、演出家と議論する場面は、単なるプロローグ、エピローグを越えて、「演劇とは何か、なぜ人は演劇を作り、演劇を観るのか」という根本的で正解のない問いを投げかけるものだ。演出家の役名は「A」であり、木下順二その人であることを観客に明かしてから劇中の演出家となるという手の込んだ(というか非常に正直な)作りにいささか混乱しつつも、演劇に生涯を捧げようとしている人たちの尋常ならざる精神性にぐいぐいと引き込まれるのである。
しかしそれは「向こう側」の出来事ではなく、客席にいるわたしたちも「これから始まる本番の舞台で、果たして彼らはどんな『マクベス』を演じるのか」という課題を与えられたわけである。これまでさまざまな座組で上演された『マクベス』の記憶、戯曲を読んだ印象等々を以てしても想像することは難しく、これから『マクベス』を観劇するとき、劇団民藝の『巨匠』の舞台が心の確かに存在して、様々な影響を受けると思われる。
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