因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

日本のラジオ『カナリヤ』

2021-11-21 | 舞台
*屋代秀樹作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 23日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16

 昨年5月の公演が中止を余儀なくされたが、その舞台に出演予定だった7人+αの一人芝居『ロマンランタン』の無料配信を行うなど、屋代秀樹と日本のラジオは、困難のさなかも淡々と活動を続けてきた印象がある。あれから1年半、満を持して『カナリア』公演が実現した。

「母の食事に毒を盛り、観察し続けていた少女/医療少年院を出た彼女を迎えたのは/宗教団体「ひかりのて」の幹部となっていた兄/信じたいものを信じることについての短いお話」…公演チラシに詩のように記された物語の概要である。舞台には紺色の柱が数本立ち、手前に椅子とテーブル、少し離れてデスクがある程度のシンプルなものだ(袴田長武・舞台美術)。宗教団体「ひかりのて」東京第四支部と言われる事務所、道場、信者が暮らす寮を兼ねた施設の応接スペースらしく、入信したばかりの若い女性を取材に訪れた雑誌記者に、教団広報部の女性が応対している。

 折込チラシのなかに、「新作小説『カナリヤ(仮)』取材ノート/平田」と書かれた冊子があり、本作に登場する人々の過去や背景、後日譚などが写真付きでまとめられている。いわゆる公演パンフレットではなく、この冊子自体も創作物である。上演前に読むと楽しみが削がれるようでもあり、それでもつい読んでしまうものの内容の全ては把握できず、結局中途半端な事前学習のまま上演が始まった。これも日本のラジオのおもしろさだ。

 本作は地下鉄サリン事件はじめ、信者やその家族の拉致監禁、殺害事件を引き起こした、あの教団をモチーフにしている。しかし、およそ四半世紀前の当時、日々洪水のように報道された教団の様子、幹部と呼ばれていた人々がマスコミの取材に答える口調や態度のほうが余程芝居がかって不自然に思えるほど、『カナリア』の舞台は静かであり、日常会話のトーンで展開する。

 母に毒を盛り続けた少女(沈ゆうこ)、教団幹部であるその兄(横手慎太郎)、幼馴染で教団広報担当(田中渚)、新しい入信者(宝保里実)、父を殺した少女(永田佑衣)、元暴力団組員(木内コギト)、雑誌記者(安東信助)以上7名の登場人物の性質、背景の妙など、俳優陣の造形は的確で隙がない。また最後まで登場しない人物の存在の見せ方は作劇の腕の見せどころであるが、本作の場合、「ひかりのて」代表の「入口シュウメイ」の実体があくまで希薄であることが大きな特徴である。彼女はもしかすると、「存在しない存在」なのではないかとすら思わせる。

 終幕、横手慎太郎が何かを新聞紙に包んだものとビニール傘を持って部屋を出てゆく。彼はこれから電車に乗るのだろう。あの事件をリアルに想起させるものであるのに、彼のすがたからは恐怖や嫌悪よりも、どうしてもそうせざるを得ないところに来てしまった悲しみを感じる。彼はほんとうはどうしたかったのか、何を求めていたのか。

 問題提起的な性質を持たない作品であるが、人はなぜ、どのようなきっかけで特異な集団を形成し、常軌を逸した事件を引き起こすのかといった根本的な問いが、見る者の心に波紋のように広がってゆく。答を求められているのではないから、ある意味で楽である。だが同時に「答が無い」ということの軽い絶望もあって、日本のラジオ終演後の心持は単純ではなく、そこがまた魅力的なのである。
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