因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

小西耕一 ひとり芝居 第八回『地獄に咲く花』

2020-11-14 | 舞台
*小西耕一脚本・構成・出演 公式サイトはこちら 東中野・RAFT 15日終了 
 2013年の第二回公演『既成事実』がほんとうにおもしろく、前のめりに長い劇評も書き、その後続けて観劇していたが、「ひとり芝居」と銘打ってふたり、3人と出演者が増えたあたりからしばらく遠ざかっていた。コロナ禍による厳しい状況下のRAFTにおいて、4年ぶりに上演される「小西耕一ひとり芝居」である。

 リビングのテーブルにはカップ麺。その上に重しのように置かれた離婚届を和太留(以下ワタル)が呆然と見つめる場面に始まる。コロナ禍で夫婦ともに在宅勤務になり、妻のストレスが募ってのことらしいが、ワタルには寝耳に水である。懸命に話し合おうとするワタルと、妻はツタヤの返却期限だからと「鬼滅の刃」を読み、ろくに応じようとしない。ワタルは、「わかった」と「わかる」の違いを事細かに解説するなど、彼が言葉に対して神経が細やかであることはわかるが、熱弁をふるえばふるうほど、夫婦の意識の違いが無残に晒されてゆく。

 「小西耕一ひとり芝居」は、小西が複数役を演じ継ぐのではなく、あくまでひとり一役であり、小西は目の前に相手がいると想定して演技をする。この形式のひとり芝居の場合、どうしても相手の台詞を復唱することになるのだが、小西の場合、それが非常に自然であり、あざとさが感じられない。劇作家としてひとり芝居の戯曲を構築し、俳優としてそれを演じる手並みは、もしかするとイッセー尾形の上を行くのではないか。それほど緻密な台詞構成であり、俳優としても高い技術を持ちながら「いかにも」感がなく、さらりと(ワタル自身の右往左往はまことに痛ましいが)見せる。これまでの観劇記事(1,,2,3,4)を読み返してみると、さまざまな試行錯誤を経てシンプルな「ひとり芝居」に立ち返った印象を持った。

 妻が離婚を切り出した理由から、ワタルの子ども時代のこと、心の傷が明かされる過程や、いささか複雑な家族関係は小西耕一自身の人生を濃厚に反映したものであり、これまでの作品と基調を同じくするものである。しかし既視感はなく、さまざまな人物を通して小西耕一自身が炙り出されてくる様相は、ぞくぞくするほど劇的だ。小西本人にしかできない舞台創造であり、この手法を得たことは、小西耕一にとっても、観客にとっても幸せなことだ。

 意外だったのは、最後に明るい展開が示されていたことだ。たぶんその先もワタルはあれこれと思い悩み、妻や周囲が辟易する予感はあるが、「自分探し」の過程がひとつ進み、今後の作品にも小西耕一自身の人生にも何らかの変化をもたらすのではないだろうか。
 
 幸せになっておくれワタルくん、小西耕一さん自身も。
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