*樋口一葉原作 久保田万太郎脚色 島田雅彦現代語訳 成瀬(ブログの新派観劇記録はこちら→1,2,3)芳一演出・補綴 公式サイトはこちら 麻布区民センター区民ホール 13,14日のみ
公式サイトにあるように、本公演は水谷八重子の自主公演で、今年で11回めを迎えるとのことだ。まさに年の瀬の『大つごもり』、年のしめくくりにずっと通っておられる方もあるだろう。今回たまたま「文学座通信」の外部出演欄に、新橋耐子の名前があり、すぐに予約を入れた。
はじめて行く麻布区民センターは、六本木駅周辺の喧騒が嘘のように静かな一画にあり、建物は多少古いものの、地下のホールへのほどよい照明や、ゆったりしたロビー、客席の椅子のぐあいも心地よく、朗読や語りものに適したホールではないだろうか。
因幡屋と『大つごもり』のこれまではこちらをどうぞ。
とても大切な作品です。
さて今夜の朗読新派だが、チラシには「今年の『大つごもり』は凄いことになった!」と水谷八重子のメッセージが大きく記されている。ちょうど新派公演の新橋演舞場『三婆』とぶつかってしまい、出演できない新派人に替わって、俳優座の岩崎加根子、文学座の新橋耐子という新劇界の超ベテラン女優と新派による『大つごもり』となることを指す。
たしかに商業演劇でもこれほどの顔合わせは珍しい。
気になったのは「島田雅彦の現代語訳」である。台詞が現代調になるのか。岩崎加根子の役名が「明治の詠み人」、俳優座の若手女優森根三和が「現代の詠み人」となっている。
さらにステージには『大つごもり』の舞台装置がどっしりとつくられており、「朗読新派」とはいったいどういう舞台なのだろうか。
心配することはなかった。というより「朗読」のひとことに、つい朗読劇やリーディング公演を想像tした自分の勇み足である。和服を着た岩崎の明治の詠み人は手に台本を持ち、『大つごもり』の地の文を、明治の文体そのままで読むのである。しばらく読んだのち、「明治のことばはむずかしゅうございますね」と客席に呼びかけ、森根による現代の詠み人が登場、ワンピースを着た森根が、島田雅彦が現代訳した地の文を読む。
明治と現代の文体による地の文がかわるがわる読みつがれながら、かつらも衣装もつけた本式の舞台『大つごもり』が展開するという趣向なのだった。新橋は山村家のおかみ役だ。
そうか、こういう方法もあったのか!
ふたつの文体の構成は、岩崎が明治版がまず読み、つづいて同じ箇所を現代版の森根が読んだり、おみねの心象の部分を現代っ子(このことば古いですね)の口調で読んだりする。
舞台で物語が進行しているとき詠み人たりは袖にはけており、場面が暗転したとき再び登場し、上手と下手に置かれた椅子に座って読む。舞台中央に進みでるときもあって、いろいろと工夫が凝らされており、不自然な感じはしなかった。
自分にとって嬉しかったのは、『大つごもり』の地の文が岩崎によってじゅうぶんに語られ、とくに最後の「後の事(のちのこと)知りたや」をきちんと聞けたことである。
何と深い余韻のあることばであろうか。山村家の放蕩息子石之助の機転と、もしかしたら優しさによって、おみねに盗みの疑いがかかることはなくなった。しかしおみねや伯父一家の貧しい暮らしにとってはほんの一時しのぎにすぎない。ひたすら耐えて働く日々はずっとつづくのである。
けれどそれだけではない、一筋の希望があることを「後の事知りたや」が控えめに示している。悲しみに満ちた人々の物語だが、ぬくもりもまた与えてくれるのだ。
ところがカーテンコールにまさかの演出がつけられていて唖然とした。なぜこのようなことをするのだろうか。はっきり言ってぶちこわしである。
カーテンコールというのは大事なのだぞ。舞台の一部でもあると同時に、「もうひとつの舞台」の役割を果たすこともある。舞台じたいもよかった、それをカーテンコールがさらに素敵な締めくくり方で、いっそう印象が強く残る・・・ということもあるのだ。思いだすのも腹立たしいので詳細は書かない。もうこの部分のことは忘れよう。自分がみたのは『大つごもり』なのだ。
友人ともに深く満足し、喜ばしい気持ちで劇場をあとにした。「文学座通信」を読まなければ出会えなかった。幸運に感謝である。
検索をして貴ブログへたどり着きました。
今年の、この「大つごもり」は、観にいかれましたでしょうか。
年の瀬にみると、ほんとうに複雑な思いになる作品ですね。