因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

shelf volume17[deprived(仮)]

2014-04-30 | 舞台

*矢野靖人構成・演出 公式サイトはこちら 明大前 キッド・アイラック・ホール5Fギャラリー(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10) 7日で終了
 古典戯曲や小説などを、独自の視点で構成して斬新な劇世界をみせるshelfが、今回また新たな試みに挑戦した。「今回は『政治』の話をしたい。 政府や政治家の話ではなく、人が二人以上いる<場所>に必ず発生する「政治的」な「ふるまい」や「言葉」の力について考えたい」とのことだ。明大前キッ ド・アイラック・ホールはとても好きな劇場だが、5Fギャラリーは今回がはじめてだ。

 実は観劇から1ヶ月も経過しており、本稿に速報性としての機能はほぼない。時間をおいただけの論考ができたかというとまったくそうではなく、ひたすら怠けていたに過ぎない。

 5Fギャラリーは、ほんとうに何もない空間である。トイレなどの水回りもなく、そのたびに階下まで降りなければならない。非常に使い勝手の悪いところなのだ。しかも今回の公演はその何もない空間に開演前から俳優たちが板つきになっている。客席はスペースの二面の壁に並んだ椅子である。照明の加減もできないのだろうか、観客は演技スペースと同じ高さ、明るさのなかに身を置くことになり、あまりゆったりはできない。

 観劇環境があまりよくないことが、マイナスの印象に直結するわけではない。舞台をより深く味わうために、むしろ効果的なこともある。キッド・アイラック・ホールはもともと好きな劇場であるし、5Fの階段踊り場からみる明大前の夜の風景もいい雰囲気である。借景とは少しちがうけれども、劇の作り手が町の風景も含めてこの場所を活かすことはじゅうぶんに可能であると思われる。

 今回の舞台には、太宰治の小説、武者小路実篤のエッセイ、日本国憲法前文や、第一次世界大戦で戦死したイギリス人詩人の作品などが用いられている。

 これを舞台をみていない人にちゃんと説明できるだろうか。作り手のなかではそれぞれが意味をもち、有機的な関連をもってひとつの舞台に構成されているのだろうが、観客がそれに共鳴し、政治について考えるという地点に到達できたかというと、非常に心もとないというのが正直な印象である。

 冒頭、川渕優子が日本国憲法の前文を語る。川渕の声は硬質だが艶があり、思わず聞き入ってしまう。立ち姿も美しい。しかし舞台でのこの行為は何なのか?文面を持って読むわけではないから朗読ではない。しかしお芝居の台詞ではないので何かを演じる方向性は感じられない。昨今議論かまびすしい憲法、それもぜんたいの指針たる前文である。それをいまここで読みあげることの意味は?

 声はだんだん高まってゆき、そこにべつの女優が「君が代」を必死で歌い、最後には泣き崩れる。

 舞台上で起こることのすべてに意味を求めようとするわけではなく、起承転結の整った物語を期待はしない。けれども作り手がしようとしていること、何を訴えたいのかが、非常にわかりにくかったことは否めない。イプセンや三島由紀夫の作品を柔らかな思考でとらえ、一変鋭い視点で切り裂いて舞台に叩きつけるようなshelfの舞台に何度も刺激を受けている自分にとって、違和感と困惑が多くを占める観劇となった。

 とはいったものの、今回のタイトルには(仮)が添えられている。(仮)が取れるときがきたら、そのときはまた元気を出して劇場に足を運びたい。逃げ場のない空間、あれこれと不便な劇場でもだいじょうぶだ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« かもめマシーン『ニューオー... | トップ | 因幡屋5月の観劇と句会 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事