~日だまりの漱石~*漱石プロジェクト第二弾 夏目漱石原作 犬井邦益作 福井泰司演出 江古田ストアハウス
高校の教科書に掲載されていた、あの漱石の『こころ』である。いわゆる小説の舞台化だが、ベタな作りではない。姿勢をただし、きちんと正座してみたいような舞台であった。
自分は龍昇企画の何とはなしに緩い雰囲気、とくに『甘い傷』のような舞台が好きであった。
それが今回は実に端正な作りで驚いた。中でも「先生」役の直井おさむのたたずまいは、あれが『甘い傷』でちゃらちゃらした嫁の桃子(女役だったのだ!)と同じ人とは。
ほとんど裸舞台に近い。上手に背もたれのある椅子がひとつ。あとは木枠を逆さまにしたような椅子が数脚ある。 「私」(龍昇)と友人(吉田重幸)がひとつの場を持ち、「私」の若い頃(栗原茂)、先生(直井おさむ)、先生の細君(黒木美奈子)がひとつ、そして先生の学生時代(小椋毅)、奥さん(大崎由利子)、お嬢さん(高村志穂)、K(稲田恵司)と3つのパートによって進められる。
単に過去の回想場面を表現するのではなく、人物が過去の自分の心に向き合い、現在の自分に問いかけているかのような奥行きを感じさせる。舞台正面に両開きの襖があって、紗幕のような素材らしく、照明の当て方によって向こう側が透けて見える。この幕が現在と過去を行き来する話を効果的に見せる役割を果たしている。
前半は圧倒的に台詞を「聴きとる」ことにエネルギーが費やされ、しかも観念的な内容の静かな会話中心のためか、眠気に襲われることもあった。それが奥さん役の大崎由利子の登場で、ぱっちりと目が覚めた。端然とした雰囲気、はきはきとした口跡。舞台にさーっと気持ちのよい風が吹いたようである。
知らず知らず舞台の世界に引き込まれ、台詞を「聴く」だけではなく、何かを「感じ取る」ように心が動く。
原作のどこを取り、どう表現するかは劇作家、演出家の腕のみせどころである。しかし今回の『こころ』からは、作り手側の「さぁわたしの手腕をご覧ください」的な主張は感じられなかった。自分の個性や視点をどう活かすかよりも、この小説のもつ世界観を謙虚に舞台にのせたという印象がある。端正で清々しく、潔い。
終演後、帰りの電車を待つホームのベンチで「さくらもち入りトラ焼き」を食べた。
足元には春の日差しが柔らかな影を作っている。
うちに帰ったら、文庫本の『こころ』を読み直してみよう。
高校の教科書に掲載されていた、あの漱石の『こころ』である。いわゆる小説の舞台化だが、ベタな作りではない。姿勢をただし、きちんと正座してみたいような舞台であった。
自分は龍昇企画の何とはなしに緩い雰囲気、とくに『甘い傷』のような舞台が好きであった。
それが今回は実に端正な作りで驚いた。中でも「先生」役の直井おさむのたたずまいは、あれが『甘い傷』でちゃらちゃらした嫁の桃子(女役だったのだ!)と同じ人とは。
ほとんど裸舞台に近い。上手に背もたれのある椅子がひとつ。あとは木枠を逆さまにしたような椅子が数脚ある。 「私」(龍昇)と友人(吉田重幸)がひとつの場を持ち、「私」の若い頃(栗原茂)、先生(直井おさむ)、先生の細君(黒木美奈子)がひとつ、そして先生の学生時代(小椋毅)、奥さん(大崎由利子)、お嬢さん(高村志穂)、K(稲田恵司)と3つのパートによって進められる。
単に過去の回想場面を表現するのではなく、人物が過去の自分の心に向き合い、現在の自分に問いかけているかのような奥行きを感じさせる。舞台正面に両開きの襖があって、紗幕のような素材らしく、照明の当て方によって向こう側が透けて見える。この幕が現在と過去を行き来する話を効果的に見せる役割を果たしている。
前半は圧倒的に台詞を「聴きとる」ことにエネルギーが費やされ、しかも観念的な内容の静かな会話中心のためか、眠気に襲われることもあった。それが奥さん役の大崎由利子の登場で、ぱっちりと目が覚めた。端然とした雰囲気、はきはきとした口跡。舞台にさーっと気持ちのよい風が吹いたようである。
知らず知らず舞台の世界に引き込まれ、台詞を「聴く」だけではなく、何かを「感じ取る」ように心が動く。
原作のどこを取り、どう表現するかは劇作家、演出家の腕のみせどころである。しかし今回の『こころ』からは、作り手側の「さぁわたしの手腕をご覧ください」的な主張は感じられなかった。自分の個性や視点をどう活かすかよりも、この小説のもつ世界観を謙虚に舞台にのせたという印象がある。端正で清々しく、潔い。
終演後、帰りの電車を待つホームのベンチで「さくらもち入りトラ焼き」を食べた。
足元には春の日差しが柔らかな影を作っている。
うちに帰ったら、文庫本の『こころ』を読み直してみよう。
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