因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

パルコ・プロデュース『SISTERS』

2008-07-27 | 舞台
*長塚圭史作・演出 公式サイトはこちら パルコ劇場 8月3日まで
 何年前になるだろう。宮尾登美子原作の『櫂』がテレビドラマ化され、松たか子が主演した。放映前のインタビューで、初めて母親役を演じることについて不安はなかったかと問われて、「子役さんと接しているうちに母親らしい気持ちがどんどん沸いてきたので大丈夫だった」と答えていたことを思い出す。松たか子にとって、女優としてさまざまな役柄を演じるのは当たり前のことで、実体験があるかどうかは関係がないのだなと思わせるひと言であった。考えてみれば、父親も兄も歌舞伎役者、親戚も俳優だらけである。男が女になったり、人殺しをやったり人間でないものになったり、それを仕事として続けているのだ。役柄とプライベートにギャップがあったとしても女優として演じるだけのこと。自分は松たか子の女優としての非凡さと静かな決意を感じ取ったのだった。

 ☆まだ頭がまとまっておりません。これからどう書いていくのかも不明ですが、このあたりからご注意を☆

 休憩なしの2時間15分のあいだも終わってからも、すっきりしない気持ちが続いた。上演中少々妙な様子で中座する男性が少なくとも2人いて、どちらも客席に戻ってこなかった。終演後、同道の友人はしきりに「寒い寒い」と言って腕をさすっている。自分の精神状態も少し変で、お茶を飲むあいだもそのあとの食事のときも、不意に友人に八つ当たりしてしまいそうな衝動にかられる。

 舞台を覆っているのはズバリ父と娘の近親相姦である。自身だけでなく妹までも父によって犯された。妹を守れず、しかし父は妹を道連れに死を選び(ということだと思う)、取り残された姉は、なぜ自分ではなく妹を選んだのかと嫉妬心にも苛まれるのだった。

 心に深い傷を負い、過去を呼び覚まされる体験によって錯乱する女性を演じて、松たか子は申し分ない。しかしながら、この言葉にしがたい印象は何だろうか。

 観劇からわずか2日後に子どもへの性的虐待についての新聞記事を読んだことは、単なる偶然だろうか。もちろん今回の舞台は社会問題劇や告発劇ではないのだが、実際に性的虐待を受けた人に対して、救済や慰めを持ちうるものであろうか。松たか子という当代きっての実力派の女優を主役に据えた舞台と、影響が深刻で早期対応が求められるものの、社会的理解が進んでいないという性的虐待の現状を、切り離して考えてよいのだろうか。パンフレット記載の布施英利の評論は、この疑問に対してある方向を示すものである。また西堂行人の長塚作品論も、今回自分が味わった妙な心持ちの理由を考察する一助になりそうだ。しかしあれから一週間、心はまだ落ち着かない。

 自分はこの舞台についてもっと考えたいのか、それとも逃げたいのか。姿かたちの見えないものに対して苛立つ自分の心を持て余す。ぶつかっていく強さ、逃げ出して忘れる図太さ。今の段階ではそのどちらも持ち合わせていないことのみ記して、ひとまず筆を置くことにする。

 

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