因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

演劇企画イロトリドリノハナvol.3 『明日―1945年8月8日・長崎―』

2020-09-03 | 舞台
*井上光晴原作 森下知香脚本演出 公式サイトはこちら シアターχ提携公演 6日終了
 演劇企画イロトリドリノハナは、劇団光希の俳優・森下知香が「一つの色にこだわらず、自由に多彩な花を咲かせる」をコンセプトに2018年に旗揚げしたユニットである。第2回公演『人生のおまけ~Collateral Beauty』(2019年9月)はネット視聴にて、生の舞台はこのたびが初めてとなる。一部ダブルキャストのA、Bふたつの座組があり、Aチームの初日を観劇した。

 井上光晴の原作は、長崎に原子爆弾が投下される8月9日の前日、8月8日に行われた一組の結婚式と、それに関わる人々を描いた小説だ。淡々とした筆致からは声高な反戦のメッセージとは異なる深い悲しみが伝わる。黒木和雄監督による映画『TOMORROW 明日』(1988年)は、原作の静けさそのままに演出も音楽も抑制され、絶妙な配役も相まって、いまだに忘れられない。昨年の夏、劇団青年座が舞台化しているが(未見)、森下知香はその1年前、イロトリドリノハナの旗揚げ公演で本作を自らの脚本・演出で上演しており、それだけ思い入れのある作品と想像する。

 小説の舞台化について、あるいは小説と戯曲の違いについて考えるとき、決まって思い出すのが、2007年晩秋のメジャーリーグ公演『野鴨』(ヘンリック・イプセン作 笹部博司+タニノクロウ上演台本 タニノクロウ演出 blog記事→12)のパンフレットに掲載されたギーナ役石田えりの言葉である。「戯曲って、自分の書いた人物を、自分と違った考えを持った人に委ねている。そうすることによって、自分の中にある問題を、沢山の人に考えて欲しいと思っている。演劇という手法を選んだということは、そういうことなんじゃないだろうかって」。

 井上光晴の原作は、登場人物一人ひとりの心の奥底まで分け入り、その人が言葉に出さない(出せない)胸の内を、たった一人の理解者のごとく細やかに記したもので、読み進むんでいると、この人の心は、小説を読んでいる自分だけが知るのだから大事にしなければという気持ちになる。心の中に秘めたまま、口に出さないたくさんの思いが人々の日常生活、歴史を形成してゆく。それを原子爆弾という有無を言わせぬ巨大な暴力によって破壊されることがいかに理不尽で残酷であるかを静かに訴える作品だ。つまり言わないこと、言えないことによって紡がれた、非常に寡黙な物語なのである。

 文学作品の脚色は、台本の書き手が原作という深い森の中に素手で分け入り、作家の心の内に入り込んで、なぜその言葉を使ったのか、どうしてこの人はここでこう言うのか、てにをはの一つひとつ、句読点の打ち方に至るまでとことん探って理解し得たところから、舞台化するための方向性を打ち出すものだと思う。当然削るところもあれば、足すものもあるだろう。

 観客は舞台に示されたものを、文学作品に対する書き手の思想や哲学、矜持として受け取る。それは原作と舞台を比較することではなく、まして一字一句原作通りの舞台を「忠実」とみなすものでもない。

 今回の舞台は、物語の流れ、登場人物の相関関係、人物の造形まで相当な改変が行われている。冒頭、妊婦のツル子が6月の佐世保空襲に遭う場面がある。その日の恐怖がトラウマになり、ツル子は劇中何度も狂乱に陥る。これは農業を営むある一家とその娘にまつわる章を反映したものと思われるが、これがツル子という人物の造形をいささかヒステリックにしてしまっている。新郎の庄司は父親との縁が薄い。生みの父を早く亡くし、母親の再婚相手として短いあいだ暮らした男性、つまり義父がいた。母が亡くなってから義父との関わりは切れたのだが、その義父が再婚した妻を伴って結婚式に参列しているのである。堂々と新郎の父であるとは言えず、義父とその連れ合いの存在が、得も言われぬぎくしゃくした雰囲気を生む。庄司はこの義父へも、亡くなった母へも複雑な思いを抱いており、それだけに見合いで結ばれた新妻のヤエに母の形見を贈る場面の真実の言葉は、読む者の胸を打つ。

 舞台で義父夫婦は新婦の父の妹夫婦になっており、皆の世話を焼き、座を取り持つ無類の好人物に描かれている。これはこれで微笑ましく安定感があるのだが、複雑な生い立ちや病の日々を経て妻を得た庄司の心が打ち震えるような喜びと、これから始まる結婚生活への希望への連なりを、今一つ確かな手応えとして受け止められなかった。また庄司の幼なじみの継夫がかつてヤエと交際していたという設定はいささか安易であり、継夫が一夜を過ごす娼婦がスパイであったという展開はあまりに唐突で、理解に苦しむ。

 ある一か所を変えると、別の箇所に無理や不自然、矛盾やほころびが生じて劇ぜんたいの構成が歪む。書き手の意図を座組全員が理解して共有し、ひとつの舞台として成立する物語の展開、人物の造形になるよう、理にかなった演出が行わなければ、脚色の歪みは演じる俳優が背負うことになるのではないだろうか。書き手がこのように脚色したのは、「これがこの物語の芯だ」と認識したものは何なのか。最後までわからなかったことが残念である。
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