*長田育恵作 上村聡史演出 公式サイトはこちら (1,2,3,4,5,6,7,8)
文化庁芸術祭演劇部門新人賞、鶴屋南北戯曲賞受賞と、勢いに乗る長田育恵の新作。風姿花伝プロジェクト【プロミシング・カンパニー】特別企画でもあり、ひと月近いロングラン公演を打つ。
香り高い果実が次々に実る樹木のごとく、長田育恵は劇作家としてとてもよい時期を迎えている。またその果実がどのような味わいであるかをよく知り、かつ客席に大切に届けようとする演出家、俳優、スタッフの存在によって、すばらしい舞台成果に結実している。劇場にエネルギーが満ちており、観客と舞台がいっしょに呼吸しているかのような感覚があって、とても密度の濃い2時間であった。
今回取り上げたのは、詩人のヨシフ・ブロツキー(Wikipedia)である。レニングラードのユダヤ人家庭に生まれ、長じて詩作や翻訳をするようになる。国内流刑や強制労働の末、1972年ソ連を追放され渡米。かの地で市民権を得、いくつかの大学で教鞭をとり、ノーベル文学賞を受賞し、世界的に認められる存在となった。しかしついに祖国に戻ることはなかった。
『対岸の永遠』は、ブロツキーをモデルにしたアンドレイ・ミンツ(半海一晃)と、祖国に置いていった娘のエレナ(石村みか)を軸に、アンドレイが追放された70年代とアメリカにたどり着くまでの旅路、旧ソ連崩壊後のサンクトペテルブルクが交錯しながら進行する物語である。
父アンドレイを演じた半海一晃がとても魅力的である。半海の代表作になるのではないか。小柄ながら(娘役の石村さんより小さい)、身のこなしは軽やかで、つねにきりきりと自らを痛めつけているようなエレナをそっと包み込む柔らかさがある。
映画『ワールド・アパート』(クリス・メンゲス監督 1988年イギリス・ジンバブエ共同製作 Wikipedia)を思い出す。南アフリカ共和国で反アパルトヘイト運動を行う母との確執と和解を描いた作品で、脚本を書いたショーン・スロヴォの実体験に基づいたものだ。まだ十代の多感な少女モリーは、家族を顧みない母に反発する。がやがて母に歩み寄り、戸惑いながらもともに怒りの拳を挙げる。スロヴォの母は爆弾テロで殺害され、和解を迎えることはなかったとのこと。その痛みが本作の根底にある。
『対岸の永遠』は、この映画ほど強い政治性を持たないが、肉親同士の確執と愛情が複雑に絡み合うさま、愛ゆえに苦しむ人が長い年月をかけて和解へと歩みはじめるまでを、劇作家は精魂込めて書き記した。すでに父アンドレイはこの世の人ではないけれども、2016年春、この日本の劇場において、父と娘は互いに向き合い、手を伸ばし、霊的な交わりをもったのではないか。
演劇に限ったことではないが、何かを表現するとき、媒体それぞれに制約がある。演劇はその日その場で起こることを舞台上と客席が共有することにある。生の手触りという点では強いが、まったく同じものはどこにもない。経済性も高いとは言えず、どちらかと言えば効率の悪いメディアであろう。しかし『対岸の永遠』には、演劇だからこそできる自由自在な描写があり、重苦しい題材であるにも関わらず、不思議な解放感を得て劇場をあとにすることができた。嬉しい体験である。
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