*公式サイトはこちら 東銀座・歌舞伎座 25日まで
劇場入り口では、『新薄雪物語』のこれまでのあらすじと人物相関図がまとめられたA4の資料を配布している。演劇評論家の天野道映氏が朝日新聞劇評に、「(本作の)昼夜にわたる通しは、不思議な形」とし、昼の部のあたま、夜の部のおしまいにまったく別の演目を置いてそのあいだに『新薄雪~』っを上演するのは、「通しとはいえ、この形では昼の客に話の行方がわからない」と評している。この箇所を一読して意味がわからなかった。本作をはじめて見る昼の部のお客さんは、夜の部を見ないかぎり、話の行方がわからないのは当然である。知りたければ夜の部も見るか、解説書などを読むか。どうしても都合がつかず見られないお客さんのために、「夜の部はこうなります」的な資料の配布などをするべきということだろうか。
むしろ昼の回の物語をある程度は知ったうえでないと、夜の回を楽しむのはむずかしく、自分は確かに昼の部もみたけれども、人物関係などをわかりやすく図式化した資料は大変ありがかたった。なので資料の配布は的確な対応と思われる。
「合腹」は「あいばら」と読む。「寺子屋」や「熊谷陣屋」など、主君への忠義のためにわが子を身代りに差し出す物語は少なくない。現代のメンタリティではなかなか理解しづらいことであるが、今回の「合腹」はわが子のために親が自分の命を差し出す。しかしその差し出し方、舞台での表現が尋常ではないのである。「合腹」には「蔭腹」という作法?が前提になっている。人知れず腹を切り、その苦痛に堪えながら心中を明かすことで、歌舞伎や人形浄瑠璃の演出、演技のひとつである。最後にこのひと言を告げて死にたい。人物の命がけの決意、覚悟が描かれるのだ。
もしこの場を小林正樹監督の映画『切腹』や三池崇史監督によるリメイク版『一命』ばりに映像で描くとしたら。たとえば役所広司と平泉成、梅の方に風吹ジュンあたりならば、とことんリアルに演じ抜き、血糊の粘着性、脂汗の光り方、やがて蒼白になる様子など、それはもう壮絶であろう。しかし見るほうとしては非常につらく、物語の本質よりもスプラッター的要素が濃厚になりそうである。
歌舞伎の愁嘆場はリアルの持っていき方、落としどころが違う。蔭腹というものが実際に行われたとして、腹部のどのあたりをどの程度切るか、大事なことは必ず相手に伝えないうちは死ぬわけにはいかない。かといってかすり傷ではならない。意識レベルもあって話ができる状態で、しかしそう長くないところでこと切れるように・・・というのだから、これはそうとうな覚悟と技術が必要なのではないか。
歌舞伎の陰腹はそういった細かいところはみせず、陰腹を切ったという時点で、その人物の心象の大部分を伝えることができる。そして彼らは「切りすぎてすぐ死ぬ」ことはありえない。苦しい息の下から、伝えたいことを長々と伝え、役目を果たして旅立つ。
井上ひさしの『化粧』の前半で、主人公である女座長が、女形の「中丸のおじさん」を相手に楽屋内で口立て稽古をつける場面がある。親分が敵方に斬られた。駆けつけたせがれに、親分は苦しい息の下から「おめえはほんとうはおれのせがれじゃねえ」と出自にまつわる真実をながながと話し、「やくざは嫌な渡世だ」と見得を切って事切れる。女座長は台詞をみごと言い切って、「今わの際に不自然すぎる長台詞」と不満を漏らす。同じような場面はたくさんあるだろうに、演じる方としても不自然すぎるものなのかと、演者の本音が聞けるおもしろい場面である。
今回の「合腹」はまさに今わの際が、そしてさらに母親の梅の方との「三人笑い」がみどころの段である。歌舞伎ならではの表現、演出あってこそであるが、いわゆるリアリズムとはべつの演技で観客の心を動かす演技が必要とされる。仁左衛門、幸四郎、魁春の大顔あわせあって、「不自然」などと言う近代的リアリズムの感覚はどこかへ飛んでしまうのである。
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