*水上勉作 高橋正徳演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋ホール 11月3日まで
文学座創立80周年記念公演第一弾が本作。小説家である水上に、戯曲の書き下ろしを委嘱したのが文学座であり、1966年に『山襞』を上演して以来、『海鳴』、『飢餓海峡』、『五番町夕霧楼』、『雁の寺』と、数々の舞台を上演している。今回の『越前竹人形』は36年ぶりの水上作品にして、はじめての上演となった。
紀伊國屋ホールでの観劇は久しぶりである。背もたれの傾斜の具合なのか、座りにくい座席にはいささか閉口したが、この劇場には、長年に渡ってさまざまな舞台を作り、支えて来た方々の息づかい、温もりというものがたしかにあって、通い慣れたサザンシアターとは明らかにちがう空気を持つ。そんななかで、「縁」(えにし)を感じさせる作品を体験するのは、非常に幸せなことである。
今さらながら、文学座の俳優の層は厚い。娼妓の玉枝(山本郁子)の美しさを馬方の安蔵(常住富大)が、「美しい人はたくさんいるが、あの人は自分たちを見下すようなことをしない。優しい人だ」と讃える。山本郁子はひな人形のようにすっきりとした顔立ちで、日本髪や和服が似合う。声はしっとりと低く、味わいがあり、玉枝のイメージにぴったりだ。夫となる人形師の喜助(助川嘉隆)は、愚直を絵に描いたような男性で、仕事のことしか考えない。助川は事情があって休座し、宅配便のドライバーをしていたとのこと。今回7年ぶりに舞台に復帰した。懸命な仕事ぶり、小柄であるという設定か、終始腰を曲げた姿勢で喜助を演じるすがたは誠実そのもので、「お帰りなさい、良かったね」と声をかけたくなるほどであった。
村の人々、京の商人、色街の女たち等々、玉枝と喜助をめぐる人々については、いささか類型的な印象を否めない。そもそも戯曲の設定によるのだろうか。遊廓の強欲な女将、表面は明るいが、不幸を背負った娼妓たち、喜助の竹人形に群がるような商売人たち、村の男たちの慰みものにされる知恵遅れの少女。いずれもいかにもいそうな人物であり、設定である。演じる俳優が戯曲の人物に血肉を通わせるごとく、堅実で熱のこもった演技をすることで、類型的な面がいっそう強く押し出されているかのような印象をもった。
そのなかで驚いたのは若手の増岡裕子である。増岡は前半で娼妓を演じるが、後半は玉枝がかつてのなじみ客(今で言うところのゲス野郎である。原康義好演!)と密会する旅館の女中役で登場する。玉枝を相手にお茶を出したり、風呂をすすめたりする場面で、それが増岡とはすぐに認識できなかった。もっと年齢の高い俳優が扮している思われたのである。あまり上等な旅館ではなく、曖昧宿らしき雰囲気もあるところである。そこで働く女中も京言葉ではあるが、ぽんぽんしたもの言いをする。玉枝が身ごもった子を始末するために医者を探してほしいと懇願するところを立ち聞きしてしまい、一度去って再び部屋にやってきたときの女中の様子かから、「お客さん、いい医者を知ってますえ」などと言いそうに思ったが、彼女はあの口調のまま、自分の身の上を語りながら「女はそれでも生きていかなければなりませんしね」と玉枝を労わる。べたべたせず、自分には玉枝を助ける力はないと重々わかった上で、最低限の優しさをさりげなく見せるのである。この複雑でむずかしい役どころを、増岡は実にさらりと、端正に演じており、みごとであった。
地道に培った伝統が感じられる舞台であることはたしかである。しかし残念ながら、この美しくも悲しい物語を、なぜ今上演するのかという根本的な問いに対する明確な答を舞台から得ることはできなかった。斬新な演出を期待したり、今日性、現代性を示してほしいわけでもない。しかし文学座ホームページにある「ずっと新しい、いつも刺激的」を、自分はどうしても求めてしまうのである。
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