因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

tpt『おそるべき親たち』

2010-10-27 | 舞台

*ジャン・コクトー作 木内宏昌台本 熊林弘高演出 公式サイトはこちら 東京芸術劇場小ホール 11月3日まで
 tpt公演に行くのはいったい何年ぶりだろう?90年代はイギリス人演出家デヴィッド・ルヴォ―の舞台に夢中になり、ベニサン・ピットへ嬉々として通ったものだ。ルヴォ―が遠ざかるとともに自分の足も遠のき、昨年1月にベニサン・ピットの閉館には驚きもし、残念で寂しく思ったが、既に自分の観劇の方向が大きく変わっていたこともあって、ことさら感傷的にはならなかった。2008年秋にシス・カンパニー公演『人形の家』で久々にルヴォ―演出に再会した。劇場はシアターコクーンであったが、1階は対面式、2,3階は四方の観客が見つめるなかで夫婦の関係が崩壊していくさまは、十数年前にベニサン・ピットでみた数々の舞台の空気をまざまざと思い起こさせるものであった。

 今回は1938年に初演されたジャン・コクトーの作品を木内宏昌による台本(翻訳について公演チラシには記載されていない。パンフレットは売り切れで後日発送待ち)、33歳の熊林弘高が演出する。佐藤オリエに麻実れいの大顔合わせに、中嶋しゅう、中嶋朋子、新人の満島真之介が加わっての上演だ。

 張り出し舞台を客席が3方向からみる形になっており、自分は下手側から観劇した。佐藤オリエは円熟を超越してどこへ行くのかを空恐ろしくなるほど一分の隙もなく、暴れ馬のような麻実れいを冷徹に支配する。中嶋しゅうは右往左往しながらエゴをむき出しにしたり、打ちしおれたりするさまから目が離せないし、この家族を崩壊させる要因となる中嶋朋子は、実年齢と役の年齢とはそうとう開きがあるようだが(笑)、不自然にはまったく思わせなかった。うぶな青年が夢中になると同時に、その父親が執着するだけの魅力を備えている。
 出演者が若い演出家を信頼し、時間をかけて台本を読み込んで、じっくりと作り上げたことが伝わってくる。いま日本でみることのできる舞台のなかで、本作はおそらくトップレベルにあると考えてよいだろう。

 しかし終演後の何とも言えない疲労感、嫌悪感はどこからくるのだろう。この物語はまず母子相姦がベースにあるのだが、前半においてその描写はどちらかというと無邪気で、背徳や罪の意識、隠微な印象は感じなかった。そのうち夫の元恋人が妻の姉であったとか、息子の恋人が父親の愛人であるとか、たった5人の登場人物のなかにこれだけの話を詰め込まなくても・・・と食傷するような展開になり、何よりも終幕、皆の面前で母親と息子が交わろうとする場面があり、この母子相姦を示すことがこの物語においてもはやそれほど重要かと思ったのである。描写にも納得がいかなかった。自分は戯曲を読んでいないので、どのような書き方がしてあるかはわからないのだが、このような見せ方が必要なのだろうか。

 疲労困憊し、嫌悪感を覚えることが受け取り方として適切な作品は確かにある。しかし本作もそうなのであろうか。どうしても93年tpt第1回公演、デビッド・ルヴォ―演出の『テレ―ズ・ラカン』を思い出す。これも実に後味の悪い話であった。しかし終演後に言葉にしがたい爽快感、幸福感が与えられたのである。それは何か、なぜか。自分はいまだに答が出せないでおり、今回の『おそるべき親たち』が長年の宿題を解き明かすための手立てとして重要な位置付けになるのではないかと思う。

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