公式サイトはこちら 新橋演舞場 25日まで
名優初代中村吉衛門をしのぶ9月恒例の「秀山祭」で、二代目中村吉衛門が中心になって初代ゆかりの演目を心をこめて演じている。自分は初代の舞台をみることはできなかったが、二代目を通してそのすがたを感じとりたい。
昼の部一本めは「菅原伝授手習鑑」より「寺子屋」。市川染五郎がけがで休演したため、松王丸を吉衛門が演じることになった。二本めは「天衣紛上野初花」より「河内山」。吉衛門得意の演目だ。
「寺子屋」
千代が息子の小太郎を寺子屋に連れてくる「寺入り」の場をみるのははじめてで、これが今生の別れとなることを親子が互いにわかっていて、これから自分が果たさなければならない辛いつとめを理解していながら、となり村に行くという母親に「自分もいっしょに」と取りすがる小太郎の哀れ、それをふりはらう母千代の悲しみが際立つ。しかしこの「寺入り」の場が加わったこともあろうか、後半の千代(中村福助)が泣き過ぎるかなという印象をもった。「別れ際に小太郎がいつになく甘えたのを叱ったことが悲しい」と涙にくれるのだが、これは実際の演技をみるより、想像したほうがいっそう悲しみが募る。
何度もみているが、この「寺子屋」はやはり客席にも特別の感覚をもたらすもので、微動だにせず舞台に見入る観客が、舞台の緊張感をいよいよ高めてゆく。
考えてみればとんでもない話ではある。主君への忠義のためにわが子の命を差し出す松王丸と千代夫妻の心情は百歩ゆずってどうにか理解できるものの、同じ忠義の心であっても、菅秀才の首をあげよと命令されたことに苦悩し、何のゆかりも義理もない(という設定で登場する)ひとさまの子どもを身代わりにしようと決心し、場合によってはその母親ももろともに・・・という武部源蔵と、それに協力する妻の戸浪のふるまいは理解に苦しむ。
近代的精神から言えば、自分たちの都合で罪もない人の命を奪う殺人者ではないか。そこを松王丸夫妻ともども、力を合わせ、からだを引き裂かれるような悲しみに耐えて、主君の子どもを守り抜くことの美学を示すことができるかが、この作品の肝であろう。
ハンカチを手にするお客さまが多い。忠義の精神の理解はむずかしくても、終幕で奥に菅秀才と母の園生の前、下手に源蔵、戸浪夫婦、下手に白装束の松王丸、千代夫婦が並ぶすがたの美しさよ。これは役者のすがただけでなく、演じる人物の心映えの美しさである。平気でわが子の命を差し出したわけではない。悲しんで苦しんで、まさに断腸の思いで決意したのである。悲しみが消えることはない。しかし涙を拭き、背筋を伸ばして旅立つ子どもの亡き骸を見送る。「寺子屋」が人々の心を捉え続けるのは、現代ではありえない物語の人々の心が、たとえほんのひとかけらでも今の自分たちに息づいているかもしれないという甘やかな幻想であろうか。
「河内山」
東叡山の使僧になりすまし、首尾よくことを運ぶが見破られ、玄関先で開き直るところは弁天小僧のお坊さん版のようだ。最後に盛り返して花道で「ばかが」と啖呵を切るところもスカッとして、いい気分で終演を迎えられた。
二代目中村吉衛門には風格、品格だけでなく、愛嬌とユーモアがある。そこに何とも言えない滋味、あたたかみが加わって、みるたびにいっそう好きになるのである。
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