「まろん」とは波乃久里子が甥御たち(中村勘九郎、七之助)から付けられた愛らしい綽名だ。そのまた息子たち(中村勘太郎、長三郎)は「まろん婆」(まろんば)と呼んでいると聞いたのは「徹子の部屋」であったか。演劇ユニット劇団新派の子は、同劇団文芸部の劇作家・演出家の齋藤雅文を代表に、2020年10月3日結成された。コロナ禍最中の危機的な状況にあって、新派の伝統を重んじながら、新たな演劇活動を追求する志を持つ。これまで2度の公演を行っており、自分はいずれも未見である(公式サイトより1,2)。このたびは齋藤の「久里子さんの声を聞きたい」との切なる願いで実現した一夜限りの公演だ。「抜粋再編集朗読劇」と銘打ってある通り、1本の戯曲の全てではなく、一部が読まれる形式だ。新派公演では大劇場の多幕物、つまりグランドオペラの贅沢なこしらえはなかなか上演の機会がなく、「それならマロンの美味しいところだけ切り取った『スペシャルな一皿』を作ることにしよう!」(公演チラシより)という意図によるものだ。
会場のMUSICASAは東京メトロ千代田線代々木上原駅ほど近くの音楽専用のホールである。大変急な勾配の坂の途中にあって、東京は坂の多い街であるが、恐怖を感じるほどの坂は初めてだ。うっかりすると転げ落ちそうである。1階フロアは平面で中二階席、2階バルコニー席もある。天井が高く、礼拝堂のような雰囲気だ。
ステージには椅子と台本を置く譜面台が置かれている。出演者は椅子に座って台本を読み、出番がないときは両袖の椅子に控える。まことにシンプルな朗読劇である。
『明治の雪』より第三幕、第四幕、第五幕・・・1966年新橋演舞場初演。初代水谷八重子に書き下ろされた樋口一葉の評伝劇だ。一葉の劇と言えば即座に井上ひさしの『頭痛肩こり樋口一葉』が思い浮かぶ。こまつ座だけでなく、2000年代はじめに波乃が一葉を演じた新派公演も観劇した(blog開設前)が北條秀司のそれは小説の師匠であり、特別な感情を以て接した半井桃水との細やかな交わりをしっとりと描いたものである。大晦日の夜、樋口家は暮しに窮し、炭屋の支払いもできない。一葉(波乃)の妹邦子(鴫原桂)が仕立物をしながら母のたき(小山典子)と姉を待つが、どこからも金を借りられなかった。次第に病みながら、どうしても書きたいと筆を走らせる一葉と、彼女を気遣いながら、作品を切望する桃水(田口守)の台詞のやりとりに聞き入った。中谷容子が語りを確と務め、五十嵐あさかのチェロ演奏が物語を支え、導く。
『太夫さん』より第二幕・・・1955年花柳章太郎を主演に、明治座で初演された。終戦からまだ4年しか経っていない12月、京都島原遊郭の宝栄楼を舞台に、女将のおえい(波乃)が新米の喜美太夫(きみ子/鴫原)に地唄の稽古をつける場に始まる。師匠のダメだしにぼんやりと半信半疑風で一向に上達しないきみ子に業を煮やし、おえいは「出ていけ」と申し渡す。このやりとりが抜群におもしろく、必死のおえい、きみ子には申し訳ないのだが大いに笑った。やがて善助(曽我廼家文童)がやってきて、先日おえいと外出した折にかかった金の精算を始める。かつて互いに思いを寄せながら結ばれなかった二人のやりとりは、ゆったりはんなりした京都ことばが心地よい。からりとテンポ良い中にも、過去への悔恨や諦観が滲み、ほろ苦い。夜鳴き饂飩を取り寄せる後半、(台所方であろうか)お初(小山)、かつて芸妓で饂飩屋の女房になったおよし(中谷)、その亭主弥吉(田口)も登場し、きみ子の饂飩の食べっぷりや(結局何杯食べたのか?)、近所で刃傷沙汰が起こる物々しさの中にも、抜粋でありながらここまで豊潤な劇世界が生まれていることに感銘を受けた。
カーテンコールでは、齊藤に促されて出演者がひとことずつ挨拶をした。客演の曽我廼家文童は、久里子との共演の誘いに二つ返事で引き受けてしまい、朗読劇に相当な苦労をしたと吐露していたが、前記の波乃のおえいとのやりとりはほんとうに楽しく、しみじみと情のこもったものであった。台本をほとんど読まずに話す場が多々あって、作品、台詞がすっかり手の内にあることを思わせた。これは他の出演者も同様である。改めて劇団新派の底力を知った。
ふと2000年放送のNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」において、波乃久里子が浅井長政とお市の三人娘のお初を演じたことを思い出した。あのときは茶々が小川真由美、お江が岩下志麻の配役であった。強烈な姉妹に挟まれた波乃のお初だったが、天下国家を案じても、たとえば夕飯のおかずや風呂の湯加減について話しても(実際にそんな場面はなかったが)違和感のない自然な雰囲気があったのである。今回の2作についても、たっぷりと情が濃いのにさらりとしている。台詞は自然で聴きやすい。演技も決して大仰なところがなく、嫌味がない。劇作家や演出家、先輩たちに鍛え抜かれ、稽古に稽古を重ねて到達した至芸であろう。
人はどうしても新しいものを求めてしまう。刺激が欲しいのである。しかし新派の舞台を観ると、古い時代に生きた人々の息づかいや温もりが懐かしく、同時に新鮮に感じられ、心身が安らぐのである。
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