*公式サイトはこちら 浅草橋ルーセントギャラリー 6日で終了
友人から「あそこは時空が飛ぶ」と教えられた浅草橋のルーセントギャラリーにはじめて足を運ぶ。当日リーフレット掲載の演出家・南慎介の挨拶文によれば、このユニットとしては3年ぶりの公演とのこと。改めて公演タイトルをよくよく見ると、「ドラマ>リーディング」となっている。「>」は不等号。リーディングよりも、ドラマの比重が大きいの意だろうか。
おそらく昼と夜とではまるで雰囲気が違うであろうギャラリーでの公演は、昼と夜とでプログラムが異なる。昼は、萩原伸次作『星にリボン』と、楽園王の長堀博士作『日射し-家族の歴史 第一部-』、夜の部の三島由紀夫の近代能楽集より『葵上』と『班女』である。濃い夕闇がたれこめる浅草橋を、三島由紀夫作品を聴きに出かけた。
ルーセントギャラリーは、古民家というほどではないが、石畳や木戸、ガラス戸など懐かしい日本家屋の作りである。急な階段を上った二階が舞台となる。板の間に座布団席が2列、後方に椅子席が1列作られ、目の前は大きなガラスの窓があり、隅田川や電車の走る陸橋を臨むことができる。まさに借景だ。俳優は窓際の狭い板張り部分で演技をするため、最前列の観客は見上げる形になる。浅草橋駅周辺の喧噪を思うと、友人の言ったとおり時空が飛んだような空間であるが、電車の走行音が容赦なく聞こえる。俳優はどうしてもそれに負けぬように声を出さねばならず、観客も台詞の聴き取りに集中を要する。そういった面では難点のある会場なのだが、今回の場合ほとんど妨げにならなかった。むしろ町はずれの一軒家のように物音ひとつないところでこのスペースの観劇はかえって辛いかもしれず、日常そのものである電車の音に包まれながら、どこか非現実的で夢幻のような『班女』と『葵上』を見るのは不思議な安心感があった。
さて、「ドラマ>リーディング」である。俳優は台本を手に持って登場し、それを読みながらどんどん動く。のみならず読みながら台本のページを次々に床に撒いていったり、しまいには台本なしで台詞を発しはじめ、本式の上演と変わらないところもあった。台本に縛られていた俳優が、次第に自立して台本を捨て、やがて暴走しはじめる…といったニュアンスがあれば、舞台はもっと違う空気になったかもしれない。
『葵上』では台本を小道具である大きな壺のなかに入れてしまい、他の人物の台本を手に取ったりなど、台本をひとつの小道具として扱う試みがみられた。また床に舞い落ちた台本の文字が妙に大きく、何か生々しい息づかいを感じさせて、これを見ることのできるのは、最前列のメリットであった。しかしながら台本を読む動作、捨てる動作のために、俳優が台詞を発することに対して注ぐ力が変容せざるを得なかったのではないか。とくに『葵上』の場合、光が吸いかけた煙草を康子が奪い、光はしかたなく新しい煙草に火をつける場面がある。過去の恋だととっくに清算した光に対し、康子は煙草を奪う動作によって、彼の領域に強引に踏み込もうとしているのだ。台本を手に持ったまま立ち動く演技のために、煙草のやりとりをしっかり受け止められなかった。むしろ俳優は座って台本を読み、ト書きによって動作が読まれるほうが戯曲の意味、劇作家の意図が伝わりやすい面は多々あり、いや、だからこそ演出家はこの方法を試みたのだとも言えよう。
タイトルの「ドラマ>リーディング」をいま一度考える。戯曲と俳優、舞台と客席の関係性はまだまだ変容する可能性があり、南慎介の次なる挑戦を楽しみにしたい。
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