因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

時間堂『廃墟』

2011-04-06 | 舞台

*三好十郎 作 黒澤世莉 演出 公式サイトはこちら シアターKASSAI 10日まで
 何かをするときアクシデントはつきものである。本公演について言えば、当初予定の谷賢一の書き下ろしの上演ができなくなって演目を変更、それに伴って出演俳優の一部は降板した。そして上演されるのは三好十郎の『廃墟』、2時間30分の大作である。アクシデントを考慮してハードルを下げるどころか、逆に上げたのではないか。それまで行っていたさまざまな備えを切り替えて(捨てて?)、これほどの作品に挑む演出家、俳優、スタッフの強靭な意志が感じられる。戯曲は青空文庫で、解説も読むことができる。三好十郎作品は、新国立劇場小劇場での『胎内』(ブログ記事なし)、シアタートラムのリーディング『彦六大いに笑ふ』、多田淳之介演出の『その人を知らず』のみで、今になって西村博子著『実存への旅立ち 三好十郎のドラマトゥルギー』をあわてて開くありさま。
 池袋駅東口からこの方向に歩くのはたぶんはじめてだ。明治通りを直進し、駅周辺の喧騒から遠ざかった場所にシアターKASSAIがある。入口は狭いが中は天井の高さ、奥行きも予想より広く、ゆとりの感じられる作り。

 敗戦直後の東京。空襲で焼け残った家の洋間。歴史学者の父親は、大学で講じてきた自分の学問に責任を感じて闇買いを頑として受け入れず、彼自身だけでなく家族やその周辺の人々も栄養不良と食糧不足に苦しんでいる。マルキストの長男、特攻隊くずれの次男、顔半分に火傷を負った妹、無頼な叔父に、父親を慕う傷痍軍人の学生や焼けてしまった家の建築費用を取り立てにやってくる大工のおかみ、父親の教え子の妹で、空襲と不幸な結婚から逃げ出してこの家の「かかりうど」(家政婦のようなもの)になっている女性などがからむ。

 劇場内は飲食禁止と掲げられているが、上演前に演出の黒澤世莉が「お飲み物や飴などご用意して気楽にご覧ください」とアナウンス。多少気持ちが楽になってありがたかったが、じっさいに始まるとたちまちその気持ちは消し飛んだ。
 『廃墟』の困窮は現在の想像を超える。今日の夕食にほんのわずかしか食べものがない。そして明日のあてもないのである。そのなかで長男と次男、父親が猛烈な論争を戦わせる。アフタートークがあった日、演出家が「通夜のときに、酔って激論する親戚のおじさんたちと、それを横目に片づけをするおばさんたち」と語ったとのこと、なるほどそれなら自分にも味わった経験があると苦笑いしたが、彼らの激論の内容は思想や哲学、戦争責任と随分高尚であり、論争することがいまの自分たちの困窮生活に何ら具体的な効果や解決策を持たらさない点で、酔ったおじさんたちの口げんかよりも違う意味でいっそう虚しい。

 彼らの論争は学問的知的レベルの高いもので容易に理解できない上、先日観劇の『トップ・ガールズ』以上に早口で激しく、相手の言葉を遮ったり同時に叫んだりしてなかなか聞き取れない。論争なかばで台詞を聞いてこの人の考えとあの人の考えがどう違うのかを判断することができなくなった。彼らはぜったいに自分の意見を曲げず、相手の言い分を聞き入れない。頑固極まりない上にみんな頭がいいので論理に隙がなく、延々と終わらない。その隙をついたのが、「兄さんがうちに入れる食費が少ない」という極めて瑣末なことで、ここで急に兄の旗色が悪くなることもほとんど滑稽に思える。結局誰がいちばん正しいともいえず、血のつながった父親と息子たちのあいだに越えがたい思想の違いがあり、歩み寄って理解しあうことは不可能と思われた。そこに「かかりうど」の女性との色恋がからむのでいよいよややこしい。
 家族の諍いに堪りかねた妹が非常に基本的でまともな発言をし(といっても泣きながら叫ぶのである)、論争が終わるかと思ったらまた蒸し返す。幕を下ろしたのは父親が食卓に振り下ろした手斧の一撃。これだけ必死で言い合いをして、暴力的に終わらせるのは議論をしていた本人にとって最も不似合いであり、何のために議論をしていたのか、結論も出ず解決もしない終幕に茫然。

 戦争に負けるとはどういうことなのか、いくら想像しても自分にはわからない。昨日までの価値観がひっくり返り、自分で自分を否定するやりきれなさ、思想や哲学では空腹は満たされず、日々食うこと生きることに汲々とする。震災のすぐあと、津波に襲われた被災地の映像をみて、「まるで空襲のあとの廃墟のようだ」と思い、この時期に『廃墟』とは何と・・・と身構えたが、結果的にこのたびの震災と『廃墟』の舞台を重ね合わせなかった。敢えて、というわけではなく、自然にそうであった。その理由はまだよくわからない。

 古びた洋間の雰囲気やありあわせの家財道具で何とか整える食卓の侘しさ、着たきりの人とこざっぱりと整えている人の心持ちの違いなど、丁寧で手の込んだ作り。実年齢と離れた配役の老けのメイクや、胸を患っているにしては堂々たる体格だったり、「およっている」等々昔風の台詞がなじまないところもあったが、これらは致し方ないであろう。奇をてらわず正攻法で大作に挑んだ心意気に敬服する。当日リーフレットに黒澤世莉が「2時間藩の長丁場ですが、それだけないと描けない世界があるので、これも運命と受け入れて、どうぞごゆっくりお楽しみください」。『廃墟』の舞台をみたことは、「休憩なし2時間半の舞台をみることができた」という体力的な自信だけでなく、これからいろいろな舞台をみるときにみえない形で役立ち、力になるのではないかと思う。

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