因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

早稲田大学エクステンションセンターオープンカレッジ「新劇の歴史と現在」/第四回岸田國士『屋上庭園』読

2014-05-08 | 舞台番外編

公式サイトはこちら1,2,3) 3回めの今日は前回にひきつづき、本講座コーディネーターであり、早稲田大学演劇博物館招聘研究員の宮本啓子氏による岸田國士『屋上庭園』の読解が行われた。

 岸田國士作品の観劇記録を整理してみると、1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13 
 当ぶろぐにはじめて登場したのが2005年秋、新国立劇場小劇場『屋上庭園/動員挿話』(上記リストの1である。2008年春の再演もみたが、ブログに記事なし)だが、学生時代に東京小劇場の『動員挿話』をみたのが、おそらく最初の岸田体験であると思われる。そのほか印象深いものとして、ナイロン100℃による一幕劇コレクション『犬は鎖につなぐべからず』、(同2)東京乾電池月末劇場の『驟雨』(同4)がある。

 今日は新国立劇場小劇場で上演された『屋上庭園』(宮田慶子演出)の録画をみながら、場面ごと、あるいは台詞ごとの分析と解説を聞いた。

 とくに意識したことはないが、ここ数年で岸田作品の観劇が少なからずある。おそらく自分は岸田の作品が好きなのだろう。しかしこの「とくに意識したことがない」というのが問題なのだと気づかされた。岸田國士がどのような時代に生きて、日本の新劇にどれほど大きな足跡を残したのか、時代背景やほかの演劇人の活動も併せて考えるという行為が決定的に不足しているのだ。

 したがって観劇しても印象批評に終わり、前のものと結びつかず、あとのものともつながらない。自分は研究者ではないけれども、舞台の印象に終始せず、「なぜこの人はこの作品を書いたのか」という劇作家の演劇的必然をより確かにつかむためにも、もっと勉強が必要だ・・・。

 岸田國士という人は日本人ばなれした、特殊な感覚をもった人ではないかと思う。歌舞伎をまったく知らずに、そのころ演劇運動の開花期にあったパリに留学、帰国してから「演劇新潮」同人との論争によって孤立し、それゆえに独自の活動ができたことなど、岸田の持って生まれた資質が、時代の趨勢や演劇人とのかかわりのなかで特殊な感覚、感性となり、数々の戯曲が生みだされていった、いや逆なのか。

 彼の遺した言葉でもっとも有名なのは、「『或ること』を言ふために芝居を書くのではない。芝居を書くために「何か知ら」言ふのだ」であろう。演劇を手段にして社会の矛盾を訴えたり、世相を批判したり、西洋思想を学ぶためだったり、テーマのために戯曲を書いたのではないということだ。これはすなわち、演劇とは何か、なぜ演劇をするのかというとてつもない大命題につながる。

 あまり話を大きくすると収拾がつかないのでひとまず置いて、今日の『屋上庭園』講座に戻ろう。自分は物語後半で、三輪に金の無心をした並木が、いったん金を受けとっておきながら結局返したことが急に気になりはじめた。みるからに羽振りのよい三輪と、何をやってもうまくいかない並木の格差は、身なりはもちろん立ち振る舞いにもあからさまにあらわれている。その無惨なこと、ふたりの会話のかみ合わないことの非情。

 そのなかで唯一行き来するのが20円の金なのだ。ことばのやりとりが良好に行われない人物のあいだに、金という物体が割り込む。しかしやはり最後にははじき出され、ふたりは相いれないままなのだ。もし今後本作の上演をみる機会があったら、この場面にもっと集中して考えてみたい。

 次週は文学座の西川信廣が登壇し、岸田國士をはじめ久保田万太郎、岩田豊雄が文学座創立にあたって「精神の娯楽を舞台を通じて知的大衆に提供する」と宣言した「精神の娯楽」がどのように継承されたかを語る。

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