*公式サイトはこちら 歌舞伎座 25日まで
「十二世市川團十郎一年祭」と銘打ち、1階ロビーに掲げられた遺影が無言で観客を迎える。あのどっしりした重量感、けれど威圧するところのない大らかで優しい芸風がみられないのは淋しいが、盟友七代目尾上菊五郎はじめ、息子の菊之助、團十郎の長男海老蔵らが力を尽くしていることが伝わる爽やかな舞台となった。
昼の部2本めは『勧進帳』。山伏に身をやつし、あるじの義経とともに安宅の関を突破しようとしている弁慶一行は、関守の富樫左衛門(菊之助)の目をくらまさねばならない。富樫の追及は容赦なく、絶体絶命の危機が訪れる。果たして一行はこの場を切り抜けられるのか。
何度もみていてあらすじも結末もよく知っていてなお、『勧進帳』はみるものを魅了してやまない。ピンチを乗り越え、すべてを了解して武士の情けで見逃した富樫に別れを告げ、花道を飛び六法で駆け抜ける弁慶に、客席は万雷の拍手で応える。よくやった弁慶。劇場には興奮が渦巻き、終演後はあたたかな余韻が残る。しみじみとした幸福感に満たされるのだ。
今回もそうであった。おそらくこれは『勧進帳』という演目が類まれなほど優れており、いささか乱暴な言い方になるが、演じる役者に多少の問題があっても、みるほうの気持ちで「よくみえてしまう」ところがあるのではなかろうか。むろん一生懸命演じていればであるが。
早々に掲載された朝日新聞の劇評を読んだ。天野道映氏は、あいかわらず海老蔵に手厳しい。昼の部の『勧進帳』の弁慶の演技に対して、自分を抑制することができていないと指摘する。「これでは『勧進帳』のドラマは成立せず、菊之助の富樫も芝雀の義経も、弁慶と心を通い合わせる術がない」。さらには、「歌舞伎屈指の財産演目は、これから誰に正しく継承されていくのか」とまで言い切る。
この評価は観客のなかでも話題になっているらしく、実際に客席からは「あまりにひどい書きようだ」という声を聞いた。
自分は海老蔵の芝居を理論立てて批評することはできない。ただ「何となく雑だなあ」と感じた。くらべるのは気の毒と思いながら、3月の歌舞伎座で吉右衛門の弁慶をみたときのからだが震えるような感覚にはなれない。ただ前述のように、とにかく『勧進帳』じたいが比類ないほど素晴しいので、「気持ちでみてしまう」のである。
劇評の役割というものを考える。天野氏は海老蔵に厳しいかわりに、染五郎や菊之助に対してはまじめな精進ぶりを讃え、努力を高く評価している。後者のファンにしてみれば嬉しいことであり、前者にとってはくやしくてたまらぬであろう。公平ではない、必要以上に海老蔵に厳しく、染五郎や菊之助を特別あつかいしていると怒りがわくかもしれない。
天野氏は、海老蔵にどうなってほしいのか。何とか精進して市川宗家に伝わる財産演目はじめ古典演目を継承できるような役者になってほしいのか、彼にその適性がないとするのか。少しでも期待があるなら、悪いところの指摘に終始せず、こうすればよくなる、このような方法があるのではないかという前向きな批評になるはずだ。
たしかに海老蔵は祖父である十一代目團十郎に生きうつしといっていいほどの美貌、美声、市川宗家の長男という立場に恵まれている。しかしそれらはみな彼が生まれながらにして与えられたものであり、自身の努力によって得たものではない。家庭をもったことでだいぶ収まったとはいえ、素行にも問題がある。最大の師匠であり、後ろ盾でもある父親の十二代目團十郎が亡きいま、よほど謙虚に身を慎んで芸道に精進しなければ、美貌も美声も年齢とともにあっという間に色褪せる。ひとりでは芝居はできないのだがら、以前のようなわがまま勝手は許されない。
十二代目を悼んで記された作家の利根川裕氏の「人格あらわれた無死の弁慶」(2013年2月6日)を改めて読みかえす。十二代目の弁慶に何度も泣いたという利根川は、「技芸の熟達というのではなく、彼が表す弁慶という人物の、その人格に対してである」、そんな演じ方をしてくれる團十郎という役者の人格に感銘を受けたからであり、あるじ義経を守り抜く強い責任の念、使命感、無私の心があったからだと。
自分の芝居に必死になって自己を抑制できず、相手役に対しておろそかになる海老蔵に、決定的に欠けているのはこれらの点であろう。利根川は、「彼(十二代目)が生涯かけて念じたものを、海老蔵が真に理解し継承することを私は祈る。それ以外に供養はない」と結ぶ。
踊りや演技は稽古すれば上達するだろう。しかし人格というものは、それこそ持って生まれた性質であり、努力によって変わるものではないかもしれない。しかしそれでもわたしは海老蔵にいっそう精進してほしい。もっとすばらしい弁慶をみせてほしいのである。
従って、素人の悪口雑言と思って読めばいい。
よく天下の朝日新聞がこんな人間にに大金払って、描かせていますね。
染五郎も菊之助も一口で言うと面白くない。
なぞっている訳でもない。
ただの小物です。
春興鏡獅子は帰る人が多く空席が目立っていました。
海老蔵の弁慶は今回は能の安宅や九代目を徹底的に研究して来た感じでした。家の芸なのだから納得行く弁慶にたどり着くまで試行錯誤すればいい。
吉右衛門も團十郎も自分の弁慶をやっているだけで、親の弁慶を継いでいる訳ではない。
染五郎や菊之助は猿翁や勘三郎と比べられる事はありませんが、海老蔵はいつも大御所との比較で可哀想と言えば可哀想ですがそれだけ天野氏のなかでも、大物感があって怖い存在なのでしょう。
今回の勧進帳は、富樫に情がなくて全く噛み合っていず、成田屋親子の勧進帳が懐かしい。
思えば、團十郎は去年の息の全く合わない幸四郎との勧進帳で命を落としたと思われる。この演目は調和なのだ。
11代目、12代目の30代に比べれば、海老蔵は天才としか言いようがない。
天野氏以外の見功者はちゃんと見るべきところは見ているのですから、別に気にすることはない。
当ぶろぐへのお越しならびにコメントをありがとうございました。
たまたま客席で朝日劇評に対する怒りに近い声を聞きまして、今回は舞台そのものよりも歌舞伎、歌舞伎俳優への批評について考える機会になりました。
どんな舞台がみたいかと同じくらい、どんな批評を読みたいかが自分には重要です。
それは特定の俳優を「褒める貶す」に留まらない何かがあるはずですよね。
またぜひ因幡屋ぶろぐにお運びくださいませ。
このたびはありがとうございました。
自分は去年の團十郎、幸四郎の『勧進帳』を見のがしまして、コメントを大変興味深く読ませていただきました。
海老蔵に対する「納得いく弁慶にたどり着くまで試行錯誤すればいい」というエール、「この演目は調和なのだ」というご指摘を、今後の観劇に活かしていきたいと思います。
またぜひ因幡屋ぶろぐにお運びくださいませ。
このたびはありがとうございました。
何を基準に行っているかというと、『役者個人の魅力』です。海老蔵の特出しているのは、現代を知っている、古典の役の肚に迫る独自の感性、この一年の企画性の凄さがあり、端的に言うと『どこまで行くか分らない面白い奴』なのです。
今月の明治座の染五郎は、伊達の十役、全部同じ表情、同じ声、しかも立役では声が割れてしまって非常に見苦しい。荒事には手を出さない方がいい。
また菊之助の富樫は、ニンではない。そしてこの人の立役はどう頑張っても、同年代では十指にも入らないから、立女形の道を選んだ方がいいと思います。
親が健在だとキチンと評価して貰えないマイナスが、染五郎にも菊之助にもあり、小さくまとまって行くのが残念です。
観客は正直なもので、現在動員力に問題のないのは、海老蔵・玉三郎だけで、歌舞伎座新築人気もそろそろ下火になりつつある昨今、親の意向で出演者を決める、昔ながらの偏重にある松竹経営者の古い体質も、根本から変えないと現代人から歌舞伎がそっぽ向かれる時代がすぐそこに来ていると思われます。
私は渡辺保さんや上村以和於さんの花形に対する温かい意見が好きです。
天野さんは、歌劇が専門でご自分があまり歌舞伎に詳しくないので、鑑賞ではなくいつも感想で終わっていますね。
役者殺すにはほめちぎる事が一番だそうですから、彼がわざとそこまで考えてやっているのかな?と思うこともありますが、本当にそうなら随分奥深い方ですね(笑い)