*野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら 渋谷SPACE EDGE 23日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19)
初演はみられなかったが、2008年の再演が印象に残り、今回の再再演も迷わずに観劇を決めた演目である。これは野木萌葱の真骨頂とも言える作品ではないだろうか。
といいつつ、前回観劇のブログ記事を読むと、SPACE EDGEへの道のりの様子、有吉佐和子の話、開演前とあとの野木萌葱の挨拶などを書いており、かんじんの舞台そのものについての記述がほとんどない。や、前のめりで集中したはずなのだが。
まずこの『怪人21面相』という演目に対して、渋谷SPACE EDGEがまるであつらえたかのようにぴったりの劇場なのである。渋谷駅の喧騒を離れて、打ち捨てられたかのような建物は、入口あたりからすでに「やばい」雰囲気をもつ。ガランとしたエントランス?は味もそっけもない空間で、そこから入る劇場スペースは間口も狭く、天井も低い。上手には階段があって、上の階があり、そこから外に出られるらしいのだが、まったくみえない。
電車や車の走行音が効果音のごとく聞こえ、雨が降り出す気配もわかるくらい防音については無防備にひとしい。
舞台作品であることはまちがいないのだが、まるで映画の撮影セットのような臨場感があって、「これからここで非常にアブない話がはじまろうとしている」感が、背筋が寒くなるくらいこちらの期待を高める。あのグリコ・森永事件(Wikipedia)の犯人たちのアジト、まさにこれ以上ないというほど、ぴったりのシチュエーションだ。
そしてはじまる物語は、あのグリコ・森永事件に元公安刑事と脅迫されている企業の役員が犯人側にいたという大胆な仮説で展開する。時効が来て結局迷宮入りしてしまった事件は、最後まで犯人像が明確にならず(だから未解決なのか)、へたなドラマ、悪質ないたずらに警察や企業、マスコミまでもが踊らされたという印象があって、野木萌葱の仮説もあながちまったくのフィクションでもないのではないかとすら思う。
今回困惑したのは、俳優の台詞が聞きとれないところが散見した点である。椅子を動かしたり、タイプライターを打ったりなどの音が思ったより響き、俳優の声がたやすく消される。言いにくいことを小声で言う場面などはいよいよ聞きとれない。思い切って最前列に座ればよかったのだろうか。
再演のたびに台本を書き直すという作者によれば、とくに本作の再再演に関して、「台詞を削る」作業に明け暮れたとのこと。最新版(と思われる)上演台本を販売していたが、このたびは買わず、2008年再演の折に購入した台本を読みかえした。
4人の男たちの服装が最初から最後まで変わらないこともあって、季節の変化、時間の経過がわかりにくいが、上演台本を読めば、本作が5つの場面(+エピローグ)で構成されており、場面ごとの時間の経過も、ト書きによって知ることができる。しかし台本を読んでもなおわかりにくいところが多々あった。内部に犯人がいるということに加え、彼らの過去や背景がさらに複雑で、犯人グループ内部の力関係の変容も把握しにくいのである。さらにこうした事件ものの作品の場合、舞台奥のホリゾントに何年何月と映し出したり、あるいは人物の台詞に折り込むなどの工夫やサービス?があるのだが、パラ定にはそれらがない。
観客に事件のあらましを紹介し、難解な事件について解説する、真相を理解できるように導びこうという目的意識はかんじられない。わかりにくいまま、舞台はどんどん進む。ある意味強引なのだが、作り手の独りよがりとは感じられない。客席に媚びることをせず、ただ作者の脳内で生まれた妄想が台詞になり、俳優が演じる人物の肉体と肉声によって提示される。
パラドックス定数は、公演のたびに劇団優先予約があり、チケット料金の割引はじめ、公演当日に受付で渡されるさまざまなノベルティグッズも楽しみのひとつである。客席への観客の誘導や、前述のように主宰の野木萌葱の上演前後の挨拶もたいへん行き届いて気持ちのよいもので、ホスピタリティを強く感じることができる。
しかしながら劇そのものはわかりにくい。現実に起こった事件の解説や解釈ではなく、劇作家の妄想を披露するものでもない。あらためてパラドックス定数の魅力とは何かを考えることが、自分にはまだまだ楽しくてならないのである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます