*アントン・チェーホフ作 坂口玲子翻訳 坂口芳貞演出 公式サイトはこちら 紀伊國屋ホール 19日まで 一部ダブルキャスト
劇団創立75周年記念公演。文学座のチェーホフをみるのは30年前の!『桜の園』以来か?
劇団としても『三人姉妹』上演は30年ぶりで、坂口玲子による「現代口語を活かした新訳での上演」(2/2朝日新聞より)の取り組みとなった。
紀伊國屋ホールの天井の高さをそのまま活かして、舞台には円柱とも白樺ともみえる数本の柱が高く置かれ、上手には下の部分が壊れた時計がオブジェのように吊り下がっている。
途中15分の休憩をはさんで2時間20分、つまり2時間と少し。これまでみてきた『三人姉妹』は例外なく3時間はゆうにかかっていたから、ずいぶんスピーディな舞台だったわけだ。
にも関わらず自分は前半後半ともになかなか集中できず、気づけば眠っているという状態であった。後方席で俳優の表情の細かいところまでみえなかったこともあるだろうが、台詞はきちんと聴こえていたのにこの「落ち方」はまことになさけなく、本稿はその謎を探るものであります。
この日は終演後に演出家と出演者16名全員が登壇するトークが行われた。田村勝彦と塩田朋子が進行役になり、若手から中堅、ベテランまで自己紹介を兼ねながらこの舞台への思いを語る。ほとんどの方が研修生時代に本作を経験しており、そうとうな年数が経っていても今回も同じ役を演じている方があること、これが本公演初舞台の新人さんがお年寄りの役で、これから3回くらいできるよと冷やかされていたり、なかなか楽しいものであった。
チェーホフはわかりにくい。30年前杉村春子がラネフスカヤ夫人を演じた『桜の園』をみたときは、ほんものの杉村先生をはじめてみたという以外何ひとつ残らなかった。長ながと覚えにくい登場人物の名前に苦労しながら戯曲を読み、どうしてこの家には家族以外がこうぞろぞろとやってくるのだろうと疑問を抱きつつ、「それがわかったらねえ」、「ほっと息がつけるんだわ」、「何々くんが自殺したんです」で終わる芝居に、はっきりした手ごたえがなかなか得られない。それでもどこそこの劇団がチェーホフをやると知れば、よし行こうと思う。好きか嫌いかと問われれば、はっきりと言える。自分はチェーホフが好きなのだ。努力してそうなったのではない。何度も戯曲読みと観劇を繰り返すうちに、自然とそうなったのである。
舞台美術に時計が象徴的に使われていることや、パンフレットには「112年前に書かれた『三人姉妹』に出演する俳優たちから、100年後の後輩へ一言メッセージ」のページがあるように、今回の舞台は「時間」「時の流れ」が大きな軸になっていると推察する。
1901年に初演された『三人姉妹』では、プローゾロフ家に集まる男たちが退屈しのぎに哲学論議をする場面がある。「じゃあ・・・私たちが死んで二、三世紀経った頃、世界はどうなっているか?」「二、三百年後、いや千年後かもしれない・・・人間の生活は変わる。幸せな者になる。もちろん、わたしたちはそれを味わうことはできない。しかし、わたしたちはそういう未来を作るために一生懸命働く・・・、そう、生みの苦しみを味わう。それこそが人生の目標であり、幸福なんだ」。
『三人姉妹』で語られた「二、三世紀経った頃」に、まだはんぶんか三分の一しか経過していないことに改めて気づくのである。書いたチェーホフ自身、自分の作品が一世紀以上、しかも世界各国で上演されることを想像していただろうか。ともかく日本に生を受けた自分は少なくともこの30年、チェーホフと離れられない演劇人生を送っており、それを幸福だと思っている。
福島第一原発の廃炉まで40年かかるとの報道を聞いて、「いまの政治家のうちで生きている人はいるのだろうか」と気が遠くなったが、しかしあたりまえのことだが40年経てば、40年後は確実にやってくるのである。
過去の連なりがあって現在があり、便利になり暮らしやすくなる面もたしかにあろうが、人間の生きる営みの辛さや悲しみは変わらず、もしかするともっと深まるかもしれない。
100年前に300年後を語る異国の人を、いまの自分がみている。自分の過去と現在と未来を考える。その複数の時間軸のなかに否応なく生身の自分が投げ込まれる感覚が、チェーホフの魅力であり、恐ろしさでもあるだろう。
演出の坂口さんによれば、今回大幅なカットはほとんどせず、ヴェルシーニンとマーシャの歌の掛け合いや、ソリューヌイが鶏の声を摸するところなどをあまりしつこくやらなかったとのこと。人物の名前をいちいち呼びかけるところも「チェブトイキンさん」→「ドクトル」にしたり、それらの時短が積もり積もって今回の上演時間になったそうである。
昨年秋参加した「ドラマを読む会」で、翻訳の段階で人物が相手の名前を抱きしめるように呼びかける台詞がカットされていたことを思い出した。そのひと言があるほうが彼女の気持ちがぐっと近しく感じられる。日本語で俳優が発するとき、そのニュアンスが出せるか、それをこちらが感じとることができるかはまた別の問題だが、「チェブトイキンさん」が「ドクトル」になったときに抜け落ちてしまった何かがあるのではないか。
トークは約1時間であった。長いほうだろう。前述のように楽しく意義ある時間であったが、トークに1時間かけるのであれば、本編をじっくり3時間でみたい。それくらいはがんばれる。
だらだらと長い記述(言い訳?)になったが、最後にひとつ。
休憩時間に公演パンフレットを買ったときのことだ。男性スタッフさんが「ありがとうございます。このあともどうかお楽しみください」というひと言を添えてくださった。
これまで幾多の公演でパンフや上演台本を買ったけれども、こんなに丁寧で温かで素敵なひと言をいただいたのははじめてである。ほんとうに気持ちよく、嬉しくなった。劇団員が心を合わせてよい舞台を届けたいという文学座の心意気ここにあり!
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