*金哲義 作・演出 公式サイトはこちら 第2回日韓演劇フェスティバルin大阪参加作品 一心寺シアター倶楽 19日まで (1,2,3,4,5,6)
過去公演のなかでも人気の高い2作品を連続で再演する試み。これまでの作品が劇団のレパートリーとしてしっかりと根づいており、他劇団と競演するフェスティバルや複数の作品を交互上演するなどのハードな企画にも堪えうることの証左であり、いつもながらこの劇団の力強さには圧倒される。観客から再演希望作品のアンケートをとり、新作も含めて上位数本一挙上演!も夢ではないのでは?
『風の市』
1960年代後半、猪飼野と呼ばれる町で暮らす新井家は7人きょうだい。済州島から突然やってきた「日本語ぺらぺらの密入国者」ソンジンが、盛大に飲んで食べてしゃべりながら彼らに祖国の物語を伝えて消えてゆくまでの数年間。
『チャンソ』
1989年、大阪朝鮮高級学校に通うチャンソと友だち、少女ソナ、ソンセンニン(先生)、日本人学校生である在日の友だちが繰り広げる青春群像劇。
うちの茶の間、密入国者をさがす刑事が張り込む路地裏、電車の車両とホーム、学校の校門前、民族器学部の部室、パチンコ屋など、ほとんど何もない空間を基調にしてさまざまな場面がつぎつぎに描かれる。ちゃぶ台やテーブルやソファ、ベンチなど道具の出入は自然で手際よく、物語の進行に滞りはない。劇団員、おなじみの客演陣ともにほとんどの俳優が『風の市』、『チャンソ』りょうほうに出演しており、俳優が道具を動かし、衣装替えも少なくない作品であるにもかかわらず、慌ただしいとか大変そうだというマイナス面は感じられず、作り手自身が大いに楽しんでいるかのようにみえる。いや、実際とても大変だと察するが。
自分はMayの舞台、金哲義の作風にあっというまになじんだ。みはじめてやっと1年なのに、ずっと以前から知っていたかのような錯覚すら覚える。
にぎやかな前説、少々ゆきすぎの本番のアドリブや脱線は本来あまり好みではないが、いつのまにか楽しんでいる。
俳優が両腕を前後に大きく振りながら歩く独特の動きや、台詞が消えてスローモーションの動きだけになり、かたわらで別の人物が語る作り、しみじみした場面では美しく抒情的な曲、ラストは魂の奥底からわきあがるような民族音楽でしめくくる等々、いくつかの手法もわかってきた。
テーマや演出の手法もパターンやマンネリとはまったく感じず、祖国と民族、日本に生きる在日朝鮮人の自分と他者(それは日本人であり、同じ在日どうしでもある)の問題は、金哲義にとって尽きることのない苦悩であり、創作意欲の源泉なのだろう。
どれも在日朝鮮人の民族性が強く前面に出る作品だ。「好き」「ファンになった」と単純に言うことには抵抗があるが、ここで一度素直に書いておく。
自分はMayの舞台が大好きである。観劇スケジュールからはずせない。ひとりで多くの人が劇場に足を運んでくださることを願っている。
相手の言うことを聞く、立場を知る、気持ちを受け入れるためには、相手のことばを理解することが必要だ。Mayの舞台には朝鮮語の台詞が多い。当日リーフレットに用語例が掲載されていたり、会話のなかで自然に説明されることもあるが、夜の『チャンソ』では、語調の強い大阪ことばとごっちゃになって、聞き取れない箇所が多かった。まして民族の苦悩は、いくら文献や資料を読んで知識を得て必死で想像しても理解や共感にたどりつくのはたやすいことではなかろう。自分はMayの劇世界をじゅうぶんに理解しているとは言えない。
舞台の人々は喜怒哀楽が激しく、諍いや喧嘩が絶えず、日本社会から受ける差別や、同じ朝鮮人どうしでの意識の断絶に傷つくすがたは痛々しい。しかし鄭義信作品に濃厚に漂うセンチメンタリズムとはあきらかに違う劇世界であり、『焼肉ドラゴン』が絶賛される理由がいまひとつ実感できない自分の気持ちのどこかに、Mayが応えているのである。
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