あの日からもうすぐ1年たつ。首都圏が寒く暗く不安定で、店にパンもお米も納豆もヨーグルトもなかったあのころ、うちにいるより劇場にいるほうが落ち着けた。生きて動けてご飯が食べられてお芝居にいけるのは何と幸せなことか。忘れまい。
さあ3月は決まっているものだけでも10本ちかく。がんばる。
*加藤健一事務所 (1,2,3,4) vol.81『ザ・シェルター』『寿歌』2本立て公演
*声を出すと気持ちいいの会第8回公演『A MIDSUMMER NIGHT`S DREAM』(1,2,3,4)
おうさか一心寺シアター倶楽で行われる「おうさか学生演劇祭2012」に、昨年夏のシアターグリーン学生芸術祭vol.5でグランプリを受賞した団体として招聘され、そのあと下北沢小劇場「楽園」で東京公演を行う。大阪の一心寺シアター倶楽は舞台スペース、客席ともにゆったりしているが、「楽園」の二方向の客席や大きな柱をどう活かすか。
*第34回シアターχ名作劇場『募春挿話』『ある日の蓮月尼』
名作劇場の公演にいくのは十数年ぶりになる。
*新国立劇場『パーマ屋スミレ』
自分にとって鄭義信の舞台 は相性がよいとは言えない(1,2)。今回は学生時代の友人たちと観劇予定で、各人の演劇歴や好みもさまざまだ。終演後のお茶やお酒の席がどうなるか、実は心配である。いや意見が割れても荒れず(笑)、感覚の違いを楽しめればいいのだ。
*パセリス第9回公演『あたりまえのできごと』
劇評サイトwonderlandのクロスレヴュー挑戦編3月の参加作品。
*文学座 3-4月アトリエの会『父帰る』『おふくろ』
*第15回みつわ会公演 久保田万太郎作品其の二十二『十三夜』『不幸』
昨年の公演は震災の直後。電車の遅れを心配して早く到着してしまい、劇場近辺をさまよいあるいた。商店街のドーナツ屋さん。隣席のおばあさんが優しかったな。
*オフィスコットーネプロデュース『黄色い月』
「1990年代以降のスコットランド演劇界の中核的存在」(公演チラシより)の劇作家デイヴィッド・グレッグの作品。これが日本初演。グレッグの作品は、『アメリカン・パイロット』のリーディング公演以来になる。
*クリニックシアター2012 旗揚げ公演に続いてハロルド・ピンター作品に取り組む。さて今回はどんな趣向で?稽古場見学も計画中。
このほかにも日本演出家コンクール2011では最終候補4人の作品が連続上演され、開幕ペナントレースの村井雄が気になるところ。おっと、前年度最優秀賞受賞者による記念公演 劇団May(1,2,3,4,5,6,7)金哲義作・演出 Unit航路-ハンロ- マダン劇『蛇の島』、『古俗に遠吠える狗たち』も同じ下北沢「劇」小劇場で行われるではないか。
さらに昨年末の『学生版 日本の問題』で健闘した若手劇団が、今度は『日本の問題ver.311』を企画、短編5本を連続上演する。作品のなかには『小劇場版 日本の問題』(A,B)で注目されたミナモザ・瀬戸山美咲の作品『指』が、劇団けったマシーンの鳥越永士朗の演出で上演されるとのこと。
STスポットで上演される趣向・オノマリコの『三月十一日の夜のはなし/わたしのお父さん』も気になる(1)。
2月21日朝日新聞に「震災映画『ありのまま』の力」の記事あり。東日本大震災の被災地や原発事故の問題を主題にした映画がベルリン国際映画祭に出品された。上映された3本は、10本以上の応募があった「震災映画」のなかから絞り込まれた由。どんな基準によって3本が選ばれたのか。フォーラム部門ディレクターであるクリストフ・テルヘヒテさんいわく、「応募作品の多くが、あの災害の直後、作品としてのプランもないままに被災地に向かい、映像を撮ったと思われるものだった。選んだ作品は時間をかけて温めたプランがあり、ビジョンがあった」。
因幡屋通信40号を読んでくださった方から「今回は東日本大震災がメインではないし、筆者の主張が強く押し出されているようでもないが、震災における自分の立ち位置を書きたかったのか」というお便りをいただいた。
書いたものを読むとまさにその通りなのだが、決して最初から強く意識して書きすすめたわけではなかった。マキタカズオミと『にんじん』を一種の「口実」にして、震災や原発事故をめぐる演劇状況を論考しようなどという高邁な批評精神も、緻密に論述を構築する技術もない。
震災や原発事故に翻弄され、多大な影響を受けざるを得なかった演劇の状況と、それに共感よりも居心地の悪さを覚える自分の心持ちを、ここで形にする結果となった。あくまで結果であって、書くものとしての意志は薄く、立ち位置はいまだに不安定である。
マキタカズオミの舞台と、『にんじん』のト書き。3.11とは直接関連のない題材ですら、どうしてもそこに行きつく。振り払ってもふりはらっても消し去ることはできず、あの日の前には戻れない。あの日からこれからを生きてゆくしかないのである。
前述の新聞記事のタイトルは「震災映画『ありのまま』の力」である。
映画と演劇では、同じ震災や原発を題材にしていても、作るがわとみるがわの時間の流れが異なる。ありのままの被災地を映しだした映像が、映画祭において多くの観客に感銘を与えた。対象をありのまま提示することが映画には可能であるが、演劇の「ありのまま」とは、演じている生身の俳優と客席の観客が同時に呼吸する時間と空間に存在する何かではなかろうか。
話があらぬ方向へすすみそうなのでこのあたりで止めておきますが、今日も明日もあふれるように舞台が上演される首都圏において、あの日のことを忘れず、これからの舞台を見続け、考え続けてゆきたい。
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