*岸田國士作 公式サイトはこちら 新宿ゴールデン街劇場 26日まで これまでの月末劇場観劇記録はこちら→(1,2,3,4,5)
はじめて『温室の前』をみたのは、1997年、下北沢のザ・スズナリにおいて鐘下辰男演出の舞台であったと記憶する。兄の貢に千葉哲也、妹の牧子に椿真由美、妹の友人より江が筒井真理子で兄の友人西原が片岡弘貴の配役だ。終幕、兄が足にできた豆をつぶすところで血まみれになったり、妹が脱いだブラウスで電球を包んで取り換えたあと、下着すがたのまま椅子に身を投げ出したりなど、次第に若さを失ってゆくふたつの肉体がごろりと横たわっているかのような生々しい印象が残った。
今回の月末劇場はA,B二組の配役があり、自分は兄:山地健仁、妹:沖中千英乃、より江:石村みか、西原:血野滉修のBチームを観劇した。客席最前列はほとんど演技スペースのなかに足先がはいりそうなほどぎっしりの盛況だ。決して広くはないステージに、応接セット、机、帽子掛けなどの家具調度が置かれ、縁側までついている。さすがにスズナリのような奥行きはないので、温室というより人がひとり動くのがやっとの狭い庭になっているものの、本や卓上ランプなど小道具に至るまで丁寧に作り込んだ舞台美術である。
スズナリ版をみたときはぴんと来なかったが、互いにひとり身の兄と妹だけの暮しに倦んで焦燥感にかられる様子、やっと新しい風が吹いてきたかと思ったらあっさりと置き去りにされてしまった寂寥感がひたひたと迫りくるようであった。結婚難の時代と言われている現代において、昭和初期に書かれた本作は古さを感じさせず、むしろ現代を予言していたかのようでもある。
およそ1時間の短い芝居だが、時間の流れは数カ月に及び、俳優の衣装替えも何度かあるなか、庭に作りものの蝶々を飛ばすといういかにも嘘くさい場面や、身内客のリアクションがおかしかったのか、俳優が笑いを噛み殺したりするのは気になったが、基本的に脱線や遊びがなく、変に意味をもたせるところもなかった。
岸田國士作品の正統な作り方とは、どんな舞台を指すのだろうか。文学座や民藝に代表される、いわゆる新劇系の劇団が上演するものをすなわち「正統」だと捉えてよいものか。東京乾電池の取り組みは、意外なほどと言っては失礼だが、舞台の作りは俳優の演技も過不足のない端正なものだ。演出家の新解釈を示したり、斬新な作りで古典の新境地を狙ったりせず、あっさりとしたところが好ましい。しかし「演劇は戯曲が命だ」という気負いは感じられず、前述の蝶々はご愛嬌にしても、どこか気を許せない雰囲気があって、おそらく自分はそれを味わいたくて、ときおり思い出したようにゴールデン街劇場に通うのであろう。
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