*シアター風姿花伝「プロミシングカンパニー」パラドックス定数オーソドックス 野木萌葱作・演出 公式サイトはこちら シアター風姿花伝 26日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,25,26)
本作の観劇も7年ぶりである。しかし前作の『5seconds』と決定的に異なるのは、観劇(11)が2011年3月末、東日本大震災後、余震や計画停電などの影響で、首都圏がこれまで体験したことのないほど暗く寒く不安定だったことだ。芝居を見ることに対して、強烈な後ろめたさや罪悪感に悩んだことも忘れられない。東北を中心に大変な状況であったにも関わらず、それでも芝居が見たかった。パラドックス定数のものならなおさら、上演中止になっていないのなら、どうしても見たかったのだ。
日常生活はどうにか保っていたものの、やはりいつもとは相当に無理をしていたのであろうか、本作も舞台について記憶があやふやだ。いや言い訳なのだけれど。
劇場入って左奥に演技エリアがあり、客席はそこを二面から見る形に設定されている。左の壁にテーブルと椅子2脚。テーブルの上にはチェス盤が置かれている。チェス盤が正面に見える位置に席を取った。
登場するのはナチスの将校(西原誠吾)とユダヤ人で収容所に捉われている数学者(植村宏司)のふたりだけである。しかし彼らがかつて同じ大学で数学者として腕を競い合い、共同で論文を執筆するほどの間柄、つまり同業のライバルであり、互いに信頼し尊敬しあう同志であったこと、やがて戦争がはじまり、ひとりはナチスの軍人となり、もう一人は連合国側で暗号解読に携わっていたこと、その類まれなる才能によって暗号を見事に解読しながら、敵国の彼を死なせないために解読内容を漏らしていたこと、互いにその兄弟を殺されていたことなど、両者の関係や関わる事象はまことに複雑である。1回の観劇ではほとんど把握(記憶)できていなかったことを、今日の観劇で思い知らされた。正直なところ、前回自分はいったい何を見ていたのかと呆れるほどで、それくらい2度めの今日は舞台の緊張感に乗って集中することができたのである。
パラドックス定数では極めて珍しく、外国人が登場する作品だ。だがふたりが最後まで名前を呼び合わずに会話が進行する作劇もあり、日本人が外国人を演じる不自然な面はほとんど感じられず、よき交わりを作っていた人々が、戦争によって関係を破壊されたことの悲しみや絶望が、いっそう身近に迫ってくるものであった。
今は8月。戦争に関するドキュメンタリーやドラマ、映画が放送される季節である。戦場の悲惨な映像や、過酷な体験をされた方々の悲痛な声は、これ以上ないほどの重苦しさを持ってこちらに迫ってくる。それに対してフィクションはどのような表現ができるのか。2週間前に観劇した『その頬、熱線に焼かれ』のもやもやした感覚が蘇ってくる。
『Nf3Nf6』は反戦の舞台であると思う。将校と数学者は戦争はいやだ、戦争がなければとは、ひと言も言わない。心情を吐露した将校はチェス盤を前にしてしばしまどろむ。その様子を確かめて、数学者は部屋を出る。ふたりが再び会うことはできるだろうか。まったく予想できないばかりか、「会えるといいなあ」と希望を抱くことすらできない。ふたりの悲しみと絶望を少しは共有できたのだろうか。手ごたえのある観劇であったことを喜びながら、自分はまた不安になる。この不安を今回の収穫としたい。
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