*ヴォルテール原作 レナード・バーンスタイン作曲 ジョン・ケアード台本改訂・演出 公式サイトはこちら 帝国劇場 27日まで
物語は18世紀のフランスに端を発して、世界各国への旅を余儀なくされた青年キャンディード(井上芳雄)の「人生すごろく」のかたちをとりながら、壮大な叙事詩であり、深遠な思想や哲学を示すものでもあり、台詞と音楽と歌とダンスのあるいつものミュージカルとは大きく趣がことなる。事前に何も下調べも勉強もせず、気楽に観劇しようとしていたら、いやこれは大変なものをみにきてしまったと次第に背筋が伸びてくるのだった。
「純真、天真爛漫」を意味する名をもつ私生児のキャンディードは、男爵のお城で哲学博士バングロス(市村正親 原作者ヴォルテール役も演じる)の説く「楽天的最善説」を信じ切っている。しかし男爵令嬢との恋を見とがめられ、城から追い出されて諸国を放浪することになる。そこで彼がみたものは戦争、略奪、予期しない自然災害、理不尽な宗教裁判であり、彼は人々に利用され騙される。いっぽうで彼に救いの手を差し伸べてくれる人もあり、これで何とかなりそうかと思っていると、また散々な目に逢わされるのだった。
舞台には何もなく、床から金色の円環がゆっくりと天井にあがり、劇中ずっと舞台上方にやや斜めの角度で止まっている。これは物語の世界を支配すると同時に見守っている存在、人ではない何かを象徴的に示すものと思われた。ヴォルテール役の市村正親が物語の進行役となってほぼ出ずっぱり。小説でいえば「地の文」を語るかたちをとっており、この形式は珍しいだろう。休憩をはさんで第二幕、オーケストラの演奏がはじまると急に拍手が起こったので何かと思ったら、市村正親が客席を通って舞台に向かって歩き出していたのだ。ゆっくりと客席通路を歩き、ステージ近くで両手を高くあげたとき、拍手は最高潮に高まった。この瞬間、市村は満場の観客すべてを掌中にしたのだ。
バーンスタインの作品を語るときに、多くの人が異口同音に口にするのが『ウェストサイドストーリー』であるが、自分はきちんと聴いたこと、舞台をみたことがなく、バーンスタインの曲について自分の印象がないのだが、『キャンディード』は素人が聴いても難曲が多いと感じた。猛練習があったとは思うが、出演俳優は主要な人物はもちろん、アンサンブルにいたるまで抜群の歌を聴かせてくれる。正直これには感嘆した。前半の「着飾って輝いて」これは曲じたいに歌い手のテクニックを披露する印象がなきにしもあらずだが、ここは素直になって、小鳥のさえずりのよう超高音域の難曲を歌いこなした新妻聖子に拍手をおくろう。後半では人々がわが身の不運を次々に嘆き、怒りをぶつけ、「どうしてこうなの?!」という大合唱になる場面では、歌をきいて背筋がぞくぞくするような感覚を久しぶりに味わった。
各国のかつての王たち6人がひとつのゴンドラにのって運河をわたる場面は、シェイクスピアの『マクベス』後半で8人の王たちが登場する場面を想起させるし、死んだと思った人たちが実は生きていて再会の大団円にまとまるところは、同じく『ペリクリーズ』を思わせるが、ご都合主義とは感じられず、ヴォルテールによって命を吹き込まれた人物たちと3時間の旅を終えた達成感が得られた。
西洋の思想、哲学、信仰が背景にある本作は、作る側にも受け取る側にも難しさがある。しかしジョン・ケアード版『キャンディード』から、自分はまず「信じることを恐れまい」という課題を与えられ、途中「疑問に思う自由もあるし、疑うことは罪ではない」と教えられ、そののちにたどりついた信じる心が最善なるものへ導かれていく希望を贈られた。楽しむだけではない、心の深いところに何かを残す夜になった。
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