因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

東京裁判3部作『夢の痂』 

2010-06-19 | 舞台

*井上ひさし作 栗山民也演出 公式サイトはこちら 新国立小劇場 20日まで
 自分は本作の初演(2006年)をみておらず、今回の3部作一挙上演を知っても観劇を決めるまでなかなかアクションが起こせなかったのだが、井上ひさしさんの訃報が背中を押した。これまで上演作品をすべてみていたわけでもないのに、井上ひさし戯曲に書かれた数々のことば、舞台の印象は、自分の心によほど深く刻まれてしまったのだろう。「心にぽっかりと穴が開いたよう」とはこのことだ。普通に毎日は過ぎていくが、やはりとても心細く、悲しくてならない。

 敗戦から2年後、東北にある資産家佐藤家の屋敷に、戦争中大本営参謀だった徳次(角野卓造)が古道具屋の手伝いとして住み込んでいる。佐藤家が天皇の行幸の宿に決まり、天皇を直接知っている徳次を天皇役にして、佐藤家は家族はもちろん周囲の人々も巻き込んで、食事やご不浄の心配、「天子さま」に対しての立ち振る舞いからことばづかいにいたるまで、おもてなしの猛練習をはじめる。当時の人々が天皇をどうとらえていたかが、いろいろなところにあらわれている。たとえば劇中の「天子さまのマーチ」は、「マーチ」といって静かな歌だ。皆が息をつめ、痛ましいほどの畏怖をもって一心に「生きている天皇」をみつめている様子が伝わる。優しく可愛らしいメロディのこの歌がずっと心のなかに流れている。

 徳次は天皇が乗りうつったかのごとく鬼気迫る様相をみせる。練習が終盤をむかえたある日、学校で国文法の教師をしている佐藤家の長女絹子(三田和代)が意を決して天皇に問う。「このたびの戦争の御責任をいかがお考えか」「国民にひとことすまぬとおっしゃっていただきたい」と。

 相手は天皇本人ではない。それを絹子も周囲もじゅうぶんわかっていながら、この場面の水を打ったような緊張感はすさまじい。絹子は床にひれ伏し、絞り出すように問いかける。心身ともに天皇になりきっていた徳次は素直にあやまり、「退位します」と言ってしまう。それを聞いて「長年の胸のつかえがおりた」と安堵する絹子。ご本人に言えたのではなく、ご本人がおっしゃったのでもないのに、ここまで必死の覚悟で問いかけ、晴ればれと顔を上げる絹子の姿が痛々しく、悲しい。多くの人がこのひとことを聞きたかっただろうに。

 前の2作(『夢の裂け目』、『夢の泪』)をみておらず、戯曲も読んでいないので自信がないのだが、天皇の戦争責任、国民一人ひとりの戦争責任を問うこの3部作の完結編として、正直なところしっくりこない印象が残った。戦争責任と国文法の関連、天子さまには方言ではなく標準語で話すように言われた佐藤家当主(辻萬長)が、「標準語はからだに悪い」とぼやくが、方言と標準語について、また徳次と絹子がこれからどうするのかということなどが、自分にはじゅうぶんに伝わってこなかった。

 俳優が渾身の演技をみせ、満員の客席にも熱気がみなぎる。劇場にいけば、井上さんに会えるのだ。そう確信できる時間を過ごせた。あの戦争を実体験として知る人はどんどん少なくなっていく。戦争のことを伝え、考え続けるために井上ひさしの舞台は必要だ。若い人がより多く劇場に足を運んでほしいし、再再演があるとしたらぜひ新しい座組みにならないものだろうか。今回の座組みは井上ひさし作品をよく知り、愛するベテラン、中堅、若手がそろった「最高峰」ともいえるものであることは確かだが、その次の世代の俳優さんにも井上作品の言葉を話し、客席に伝える喜びを味わってほしいと思う(文中の台詞は記憶によるものです)。

 

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