*公式サイトはこちら 急な坂スタジオ 21日のみ
急な坂スタジオへ足を運ぶのは久しぶり(これまで→1,2)。中央図書館からこんなに歩いたか、これほど坂がきつかったのか、それだけの年月が自分の心身に加わったのであろう。さて今夜のメニューは、森本薫『薔薇』リーディングにはじまり、飲みものとビュッフェ形式の軽食でひと息いれたのち、当スタジオディレクターの加藤弓奈を進行役に、ホストの福原冠(範宙遊泳/さんぴん 当ぶろぐ福原関連過去記事→1,2)のトークまでのおよそ70分だ。
森本薫と言えば、『女の一生』(1,2)、『華々しき一族』、『みごとな女』等々、舞台作品のイメージが圧倒的であるが、「森本薫戯曲全集」(1968年牧洋社刊)巻末の堀江史朗の解説によれば、今夜の『薔薇』は、森本が放送劇作家として最初に書いた作品とのこと。東京放送局で放送劇をすることになり、名優・友田恭助の依頼により執筆された。1936年(昭和11年)のことである。
登場人物は菅と夏子、神村と杉江の夫婦二組の会話劇であるが、不意に時間が現在から過去へ、空間も家のなかから横浜港、軽井沢へと飛躍するという、なかなか画期的な作品である。いまは二組の夫婦におさまっているが、かつて菅は杉江と、夏子は神村と交際しており、その確執が不信と妄想を生んだ末に悲劇が起こる…ブログの過去記事を検索してみると、2014年3月、「森本薫と読む!日本の近代戯曲セミナーin東京」において、放送劇『薔薇』、『記念』、『生れた土地』3本をちゃんと観劇しておりました。今の今まで、思い出せなかった不覚にしばし呆然。
考えてみると、放送劇のリーディングというのは案外とむずかしいものではないだろうか。通常のストレートプレイであれば、たいていの場合、ト書きが読まれることによって場の設定や人物の様子など、劇中の情報が提供されると同時に、演出面でも「見せどころ」を作ることができる。しかし考えてみると、主人公なり、人物の誰かの独白によって、状況説明がされる形式が少なからずあるせいか、これまでに放送劇(ラジオドラマ)の、ト書きというものを意識したことがないのである。
ラジオドラマを聴く場合、聞き手は俳優の声によってさまざまに想像を膨らませることができる。しかし「リーディング」は、台詞を読む俳優が目の前にいることにより、ある面で「想像が限定されてしまう」のである。戯曲のリーディングとラジオドラマのリーディングは、似て非なるものなのだ。これが今夜得た収穫の第一である。
収穫の第二は、福原冠が語った俳優にとっての稽古の重要性である。これは、単に「上達のためには稽古が大切だ」に留まるものではない。本番に向けての稽古に限定せず、常に稽古を継続することの重要性を指す。俳優は受け身の仕事であるとはよく言われることだ。自分を用いてくれる演出家やプロデューサー、劇作家がなければ活動できないのだと。確かにそうであろう。しかし福原は、俳優としてもっと能動的、貪欲に挑戦し、冒険することを自らに課した。彼に賛同し、ともに格闘する仲間も増えつつあるようである。俳優自らがたくさんの戯曲を読み、自分の個性や持ち味とは違っていても、演じたい役を演じ、言いたい台詞を言ってみる。そこに俳優としての、いや人生の活路が見出せるのではないかと模索している、とお見受けした。
演劇を続けることは、こちらが想像する以上にむずかしい。正解のない仕事であり、運不運に左右され、努力が報われる保証はない。自分がどれほどハムレットを演じたいと願っていても、プロデューサーや演出家が配役してくれなければ舞台に立つことができない。福原はそれに異議を唱えているのではないか。与えられるのを待つのではなく、役に向いていようといまいと、自分から戯曲に、役に食らいついていく。
自分は演劇に携わる人に「がんばれ」と言うことにためらいがある。その代わり、福原冠のように演劇という宝に巡り合ってしまった人が、敢然と闘うすがたを、客席に身を置く者としてしっかりと見、考え、書き続ける者でありたい。わたしも演劇を人生の宝、志、夢として与えられた。それに対する感謝の応答なのである。
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