因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ファルスシアター第17回公演『パパ☆アイ☆ラブ☆ユー』

2012-08-10 | 舞台

*レイ・クーニー作 小田島雄志・小田島恒志翻訳 遠藤隆之介演出 公式サイトはこちら シアターグリーンBOX in BOX THEATER 12日まで
 加藤健一事務所公演やセゾン劇場(現・ル・テアトル銀座 閉館するのですね)での上川隆也主演の舞台をみたことがある作品だが、ファルスシアターは今回がはじめてとなる。
 ファルス(笑劇=シチュエーションコメディの一種で、テーマ性を一切もたず、お客さまを楽しませることのみを目的としたもの)を中心に、外国のコメディを上演する劇団であり、「お客さんを圧倒したり考えさせたりするのではなく、ただ楽しんで、笑って、スッキリとした気持ちで帰り道を歩いてもらえるような作品を作っていきたいなと思っております」(HP主宰の挨拶より)とのことだ。

 クリスマスまぢか、ある大病院の医師談話室が舞台である。将来の出世がかかった大切な講演を控えて緊張感いっぱいの医師デーヴィッドのところに、かつてこの病院で看護婦をしており、彼と不倫関係にあった女性があらわれた。じつはふたりのあいだには子どもが生まれており、18歳になった息子がほんとうの父親に会いたいと病院の1階に来ている。窮地に陥ったデーヴィッドは、親友である同僚医師ヒューバートに協力をとりつけたものの、妻や院長、後輩医師や看護婦長、患者や警官がつぎつぎに談話室に乗り込んで、その場しのぎの嘘のうえにさらに嘘をかさねるうちに、大混乱におちいる。

 よくもここまでとっさに出まかせを思いつけると感心するまもなく、次の嘘をつかざるを得ない。矛盾が生じるし、アクシデントは続出するしでだましおおせるはずがなく、最後はすべてを明かすことになるのだが、そこに思いがけない幸せが生まれた。
 いくらなんでもありえないのだが、「嘘から出たまこと」とは、まさにこれではなかろうか。少し距離をおいてながめれば、デーヴィッドの無責任な言動は腹立たしく、突っ込みどころはいくらでもあるが、どさくさまぎれとはいえ、新しい家族が誕生してしまったことに野暮なことは言うのはよそう。それは幸せに満ちていて、登場人物誰もが想像しえなかった最大のクリスマスプレゼントなのだから。

 観客の生理には不思議なところがあり、気持ちは楽しんでいるのに、それが声を出して笑うというアクションに至らないことが少なくないのである。あるいは舞台が盛り上がれば盛り上がるほど、どんどん醒めて引いていくことも。今夜の客席は大いに湧いていたが、そのなかにしんと静まりかえっている方も何人かあった。笑いの温度には個人差があるので一概には言えないが、メイクや衣装にもう一工夫ほしい人物や、物語の性格上いたしかたないにしても、ぜんたいとしていささか過剰な造形、ときおり挟まれる時事ネタなども、「静かなお客さん」を作る要因になったのではないかと思われる。

 前述の「主宰の挨拶」を読みかえす。自分は今夜の舞台を楽しむことができた。衣装の色が変わるほど汗だくで奮闘する俳優や、ドアの取っ手がはずれるというアクシデントにも動じず、それによって劇がいよいよおもしろくなったことなどに自分は圧倒された。そして帰り道はむしろしみじみと、100の家族には100の物語があり、どさくさまぎれに急ごしらえで無理やりできてしまった家族ではあるが、きっと幸せになれると確信した。
 一夜の夢物語かもしれない。しかしまるきり現実ばなれしたものではなく、人の幸せ、家族のつながりは些細なきっかけで生まれることがあり、それは人の思いに添わないプロセスがあるにしても、そこにこそ人智を超えた大いなるものの取り計らいがひそんでいるのではなかろうか・・・と考えさせられたのである。

 これはファルスシアターが意図せずしてそうなったことである。「お客さんを楽しませる」のは非常に深いことなのだ。作り手がわのほうに、大きなテーマ性があり、「何をみせたいか」「何を伝えたいか」という、並々ならぬな情熱をもつことの証左ではないか。

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