90年に初演され、作・演出の三谷幸喜と東京サンシャインボーイズの出世作となった『12人の優しい日本人』が、「12人の優しい日本人をリモートで読む会」として本日YouTubeで無料ライブ配信された(映画ナタリーより)。演出はアガリスクエンタテイメントの冨坂友である。「ワンシチュエーションでの群像劇のコメディを得意とする」(劇団サイトより)冨坂にうってつけの作品だ。本作は91年再演、92年再々演ののち、2005年にはパルコプロデュース公演として上演されている。今回は俳優の近藤芳正が発起人となり、92年上演時のメンバー(相島一之、小林隆、阿南健治、梶原善、宮地雅子、甲本雅裕、野中イサオ、西村まさ彦)を中心に、吉田羊、妻鹿ありか、渡部朋彦、90年の初演出演の小原雅人、さらに三谷自身もピザ屋として登場する。初演に出演した伊藤俊人のことも三谷より短く紹介があった(2002年逝去)。自分は映画(91年/中原俊監督)をレンタルで観たのみで、今回がリモート上演という特殊な形態での『12人の優しい日本人』初観劇となった。
14時から前半、休憩を挟んで18時から後半が配信された。本来なら一気に上演される作品だと思われるが、ネットでの上演は作り手受け手ともに長時間集中することは難しく、賢明な方法であったと思う。画面が12分割され、俳優はそれぞれの自宅のパソコンの前で台詞を発し、演技する。もともとが議論劇なのでそれほど違和感なく、画面分割のZoomが活かされている。朗読劇よりもアクティブで、顔の見えるラジオドラマというか、画面のほとんど動かないテレビドラマのような、しかし俳優の熱気と迫力は強く伝わってくる。
本作は1950年代にテレビドラマ、映画、それをもとに舞台化されたレジナルド・ローズの『十二人の怒れる男』をベースとし、「もし日本にも陪審員制度があったら?」という想定で、ある事件の被告人が有罪か無罪かをめぐって12人の陪審員が激論を交わす物語だ。本家が11人が有罪とするなか、たった一人無罪ではないかと疑問を投げかけたことから始まることに対し、三谷版は11人が無罪、ひとりが有罪という逆のパターンを提示する。被告人その人よりも、犯罪そのもの、つまり「罪を憎む」ために異議を唱え、とことん話し合おうと議論を牽引する誠実な陪審員が、最後には家庭の事情による個人的感情を露呈してしまうというおもしろさ、というより痛ましい展開を見せる。
裁判員制度が施行されている現在、本作の持つ意味合いはこれまでとは変容しており、それを踏まえて考える必要があるのだが、自分の手には余る。
2号陪審員役の相島一之が圧巻である。一代の名演だ。周囲の意見や空気に流されず、たった一人でも異議を唱えるという、いちばん「かっこいい」ポジションであるのに、いちばん「カッコ悪い」姿を晒してしまう。痛ましく、見ていられないほどでありながら、彼は人間の善なるもの、希望を体現する存在ではないだろうか。相島は冷酷無比な悪役、鬱屈した病的な人物から一転、繊細で心優しくユーモアとペーソスを併せ持つ魅力的な人物まで違和感がなく、「芸域が広い」とあっさりまとめるには申し訳ない、貴重な俳優であると思う。また映像作品への出演が多く、舞台で観る機会が少ない西村まさ彦の雄姿、というには画面の向うだが、舞台での佇まいを力強く思い起こさせる造形も嬉しいことであった。
今回の最大の手応えは、ライヴ配信をリアルタイムで視聴できたことであろう。後半は映像と音声のタイミングにずれが生じ、多少見づらいところもあったが、作り手と受け手が、「今、ここ」という時空間を共有する演劇が、「今」ではあるが、「ここ」と「向う」に存在していること、「今」、自分と同じようにパソコン画面に見入っているあまたの観客が「向う」にいることを想像する味わいは、このような状況において「演劇とは何か」という問いに対する、ひとつの答であると思われる。
この事態が一日も早く終息することを願う気持ちは変わらないが、こちらの願いよりも長引く可能性が高いこと、終息ののち、日々の暮しにはこれまでとは違う意識を持つ必要があると思われる。そのあいだに、過去作品の映像公開や今回のようなライヴ配信は、さまざまに工夫されて精度が上がり、趣向も凝らされて、生の舞台ともちがう創造へと展開するかもしれない。何かが生まれる予感。それがどのようなものかは楽しみであると同時に、劇場へ身を運んで生の舞台を観る心身の体力が無くならないよう自戒したい。
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