*グリング第13回公演 青木豪作・演出 紀伊國屋ホール 公演は24日で終了 公式サイトはこちら
春の『エスペラント』、秋の『獏のゆりかご』がいずれも物足りなかったので、1年ぶりになるグリングの公演を心待ちにしていた。所属の俳優4名に文学座や円などの客演陣もなじみの俳優がほとんどで、とてもいいアンサンブルである。自分でも大変な集中力で舞台をみることができた。
だが見終わっていろいろなことが気になり始めるのだった。
アルプスがみえる町のカトリック教会が舞台である。高山神父(東憲司/桟敷童子)とその家族や信徒たちがクリスマスを前にわさわさと教会に出入りするなか、敷地内で小火があったり、病的な主婦(藤本喜久子/無名塾)が駆込んできたりする。教会は祈りの場であるが、そこに集められるのは生身の人間だから、夫婦のもめごとや仕事のことなど、世知辛く生臭い匂いもしてしまうのである。神父の家族も難しい問題を抱えており、信仰によってすべてが救われていない現実が垣間見える。
高山家の現在の問題は、妹夫婦(萩原利映、杉山文雄)に子どもが授からないことだ。神父は結婚できないから、娘が頼みの母親(井出みな子/演劇集団円)は気弱な婿に辛く当たる。婿は婿で深刻な悩みがあるらしい。教会にはもう一組子どものいない夫婦がいて(高橋理恵子/演劇集団円、中野英樹)、それぞれの事情は違うものの、夫婦の問題がこの芝居のひとつの核である。
現在と過去が行き来する場面があって、兄(鈴木歩巳)が離婚するために改宗したいと言い出す。妻と母親の折り合いが悪いらしい。その後兄は不慮の事故で亡くなった。信仰心が強いゆえに狭量な母親に対して反発する妹は「絶対洗礼なんか受けない」と心を閉ざす。駆込んでくる主婦は、その兄らしい人物の姿が見えると言い、主婦のからだを借りて死んだ兄の霊が話し始める場面がある。発想としてはおもしろいのだが、主婦の出番が霊媒の役目を果たしたところで終わってしまったのは残念。グリング常連の藤本喜久子だから、その美しさ、謎めいた魅力がつい期待させてしまうのである。兄役の鈴木歩巳にももっと出て欲しかった。幽霊という方法も悪くないが、必然性があっただろうか。舞台が教会だからこそ、もっと小さく平凡な出来事によって神の意志が示されることを描いてほしいのだが。
後半からラストにかけては壊れていく信徒夫婦(高橋、中野)と、必死で歩こうとする妹夫婦のそれぞれの姿が描かれる。前者は妻以外の女性との間に子どもができたため、夫が離婚したいと告げる。後者は夫がHIVに感染していることがわかる。特に後者については作者も俳優も力を込めて作っていたことがわかるし、「ここで泣かされた」というネットの感想も多く聞いた。だが自分はこの場面が冗長で、違和感を覚えた。妹は看護士として働くしっかり者である。気弱な夫を叱咤激励し、支え抜こうとする。だがその台詞が夫婦のセックスに関することを相当にあけすけに語るもので、夫を元気づけようと敢えてこういう言い方をするのかもしれないが、もっと違う声や表情で密やかに言って欲しいと思うのだ。信仰を持たない妹が(夫は信徒である)、すべての運命を受け入れて果敢に闘おうとしていることを、もっと静かにみつめたい。
あらら、何だか不平不満だらけです。それだけ青木さんには、グリングには期待してしまうからなのだ。
グリングはこれが紀伊國屋ホール初出演である。カーテンコールの拍手は長く続き、「よく頑張ったね、よかったね!」という空気が場内を温かく満たした。なかなか鳴り止まず、アンコールがあるかと思ったほどである。しかし願わくはシアタートップスやザ・スズナリなどのもっと小さな空間で、もっと長い期間上演してほしい。わずか5ステージとは残念である。
特筆すべきは神父役の東憲司!柔和で穏やかな神父さん。どなたかモデルがいらっしゃるのだろうか。聖書について説明したり、信仰について説く様子に違和感がまったくなく、思わず聞き入ってしまう。10月上演の演劇集団円公演『ロンサム・ウェスト』にも神父が登場したが、日本人が神父という役柄を演じることはとても難しいとの印象をもったし、今回の『虹』のチラシをみたとき、誰が神父なのか、まったく想像がつかなかったが、素晴らしい・・・。
題名の『虹』は旧約聖書のノアの箱船のエピソードから来ている。自分の印象に残っている虹は、3年前の春の夕暮れどき、渋谷駅前の交差点で見た虹である。信号待ちの人々から歓声があがった。雨上がりの空気は柔らかで、虹は人を不思議な気持ちにさせる。このつぎ虹をみるときは、きっとこのお芝居のことを思い出すだろう。
春の『エスペラント』、秋の『獏のゆりかご』がいずれも物足りなかったので、1年ぶりになるグリングの公演を心待ちにしていた。所属の俳優4名に文学座や円などの客演陣もなじみの俳優がほとんどで、とてもいいアンサンブルである。自分でも大変な集中力で舞台をみることができた。
だが見終わっていろいろなことが気になり始めるのだった。
アルプスがみえる町のカトリック教会が舞台である。高山神父(東憲司/桟敷童子)とその家族や信徒たちがクリスマスを前にわさわさと教会に出入りするなか、敷地内で小火があったり、病的な主婦(藤本喜久子/無名塾)が駆込んできたりする。教会は祈りの場であるが、そこに集められるのは生身の人間だから、夫婦のもめごとや仕事のことなど、世知辛く生臭い匂いもしてしまうのである。神父の家族も難しい問題を抱えており、信仰によってすべてが救われていない現実が垣間見える。
高山家の現在の問題は、妹夫婦(萩原利映、杉山文雄)に子どもが授からないことだ。神父は結婚できないから、娘が頼みの母親(井出みな子/演劇集団円)は気弱な婿に辛く当たる。婿は婿で深刻な悩みがあるらしい。教会にはもう一組子どものいない夫婦がいて(高橋理恵子/演劇集団円、中野英樹)、それぞれの事情は違うものの、夫婦の問題がこの芝居のひとつの核である。
現在と過去が行き来する場面があって、兄(鈴木歩巳)が離婚するために改宗したいと言い出す。妻と母親の折り合いが悪いらしい。その後兄は不慮の事故で亡くなった。信仰心が強いゆえに狭量な母親に対して反発する妹は「絶対洗礼なんか受けない」と心を閉ざす。駆込んでくる主婦は、その兄らしい人物の姿が見えると言い、主婦のからだを借りて死んだ兄の霊が話し始める場面がある。発想としてはおもしろいのだが、主婦の出番が霊媒の役目を果たしたところで終わってしまったのは残念。グリング常連の藤本喜久子だから、その美しさ、謎めいた魅力がつい期待させてしまうのである。兄役の鈴木歩巳にももっと出て欲しかった。幽霊という方法も悪くないが、必然性があっただろうか。舞台が教会だからこそ、もっと小さく平凡な出来事によって神の意志が示されることを描いてほしいのだが。
後半からラストにかけては壊れていく信徒夫婦(高橋、中野)と、必死で歩こうとする妹夫婦のそれぞれの姿が描かれる。前者は妻以外の女性との間に子どもができたため、夫が離婚したいと告げる。後者は夫がHIVに感染していることがわかる。特に後者については作者も俳優も力を込めて作っていたことがわかるし、「ここで泣かされた」というネットの感想も多く聞いた。だが自分はこの場面が冗長で、違和感を覚えた。妹は看護士として働くしっかり者である。気弱な夫を叱咤激励し、支え抜こうとする。だがその台詞が夫婦のセックスに関することを相当にあけすけに語るもので、夫を元気づけようと敢えてこういう言い方をするのかもしれないが、もっと違う声や表情で密やかに言って欲しいと思うのだ。信仰を持たない妹が(夫は信徒である)、すべての運命を受け入れて果敢に闘おうとしていることを、もっと静かにみつめたい。
あらら、何だか不平不満だらけです。それだけ青木さんには、グリングには期待してしまうからなのだ。
グリングはこれが紀伊國屋ホール初出演である。カーテンコールの拍手は長く続き、「よく頑張ったね、よかったね!」という空気が場内を温かく満たした。なかなか鳴り止まず、アンコールがあるかと思ったほどである。しかし願わくはシアタートップスやザ・スズナリなどのもっと小さな空間で、もっと長い期間上演してほしい。わずか5ステージとは残念である。
特筆すべきは神父役の東憲司!柔和で穏やかな神父さん。どなたかモデルがいらっしゃるのだろうか。聖書について説明したり、信仰について説く様子に違和感がまったくなく、思わず聞き入ってしまう。10月上演の演劇集団円公演『ロンサム・ウェスト』にも神父が登場したが、日本人が神父という役柄を演じることはとても難しいとの印象をもったし、今回の『虹』のチラシをみたとき、誰が神父なのか、まったく想像がつかなかったが、素晴らしい・・・。
題名の『虹』は旧約聖書のノアの箱船のエピソードから来ている。自分の印象に残っている虹は、3年前の春の夕暮れどき、渋谷駅前の交差点で見た虹である。信号待ちの人々から歓声があがった。雨上がりの空気は柔らかで、虹は人を不思議な気持ちにさせる。このつぎ虹をみるときは、きっとこのお芝居のことを思い出すだろう。
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