因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ミナモザvol.7『テーブルクロス』

2006-12-29 | 舞台

*瀬戸山美咲作・演出 OFFOFFシアター 上演は29日で終了 公式サイトはこちら
 昔むかし、教育実習(高校 国語科)をしたときのことだ。指導教官が少し気障な言い方になるが、と前置きをしてこう言った。「何をいかに言うかは、何をいかに言わないかでもある」と。今日ミナモザの新作をみて、この言葉を思い出した。

 何かの事故で崩落し、瓦礫と化した地下のレストランに閉じ込められた4人の客とウェイターの会話劇。結婚記念日を祝うために妻(サチコ)と待ち合わせしていた夫(工藤良輔)がいる。夫には他に帰る家があり、離婚を切り出すつもりだった。妻は怪しげな霊能力者にはまっている。この夫婦の話がまずひとつ。もうひとつは女性客ふたり。中学からの仲良しだが、いじめにあって新興宗教に走った綾子(木村桐子)と、彼女にべったり依存しているようで支配しているような明里(川島早貴)とのちょっとイヤーな関係。ウェイター(衣川藍)は何かというと得意のクラリネット演奏をしたがる(衣川さんの本業はクラリネット奏者!)が、実は妻とウェイターは既に死んでいるのだった。

 まだ生きている人と、死んでしまった人が会話をする。生きているときに話せなかったこと。もしかしたらありえたかもしれない会話は、何が正常で常識的で、何が異常で反社会的なのかわからなくさせる。こちらとあちらが複雑微妙に行き来する作劇は、瀬戸山美咲の得意とするところだ。中盤から劇の緊張感が高まってくる。

 観客の生理はとても正直である。冗長だったりくどかったりもどかしかったりすると、頭でそう認識するより先にからだが反応して、すーっと引いてしまうのである。幕開けで明里が綾子を探すところと厨房の惨状に驚いて「コックさんが」と繰り返すところで早くも気が緩んでしまう。見終わって真っ先に感じたのは「今回は上演時間が長い」ということだった。実際これまでみたミナモザの舞台に比べると15~20分長かった程度だろうと思うが、実感としてはもっと長く思えたのである。

 「演劇的必然」について考えた。それは必ずしも観客が芝居を理解するための情報ではないということだ。例えばウェイターの存在である。彼のクラリネット演奏は、芝居の本筋に直接関係ない。しかし不要とは思わなかった。それに対して綾子と明里の関係で考えると、綾子がいじめられていたという話で充分ではないか。宗教に走っていたことやそこから脱退した云々がすべて明里の台詞によって説明されるのだが、教祖からもらった指輪のことなど、着地点がなかったと記憶する。また終幕、綾子と明里の会話と照明の演出ももどかしい印象。照明じたいは繊細で美しかったけれども。

 何をいかに言わないか。それを観客に想像させてほしい。この人は(登場人物、作者)は何を言おうとしているのかと同じくらい、何を言わないでいるのかを感じ取りたいのだ。あの人が、ほんとうは何を言おうとしているのか、どんなことに堪えているのかを必死で聞き取ろうと思わず身を乗り出す。そんな喜びを味わいたいのである。わたしの望みは矛盾しているかもしれないし、無茶な要求をしているのかもしれない。でもそんな舞台をきっと作り出せると思うのです、瀬戸山美咲さん、あなたなら。

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