*ブライアン・クラーク作 吉原豊司翻訳 高瀬久男演出 公式サイトはこちら 下北沢本多劇場 17日まで(1,2,3,4,5,6)
たしかフランス文学者海老坂武のエッセイであったと記憶する。海外でみかけたある夫婦の話である。おそらく金婚式は過ぎているだろう老夫婦が、レストランで食事をしている。妻が料理のなかからトマトを取りよけているのをみた夫が、「トマトが嫌いなのかね?」とたずねた。妻は平然と「トマトは嫌いよ」と答えたというのだ。食べものの好みなど、とうに知っていたであろうに、老境にあってもなお、夫婦には未知の部分があり、不可思議な関わりなのだ・・・というようなことが記してあったろうか(正確なことを調べて追記します)。
『請願~核なき世界~』の舞台はロンドンの高級住宅街のアパート。イギリス陸軍退役軍人の夫(加藤健一)とその妻(三田和代)の老夫婦の朝のコーヒータイムにはじまる。夫が読んでいる新聞が核兵器先制使用反対の請願広告を掲載しており、その署名に妻の名をみつけたことが、おだやかな朝の日常を一変させた。あろうことか妻が自分と正反対の意見をもち、それをと公にしたことが夫には許せない。
「トマトが嫌い」どころではない、夫はいまでも軍人として誇り高く生きており、国家と政府を支持することに迷いはない。しかし妻は誰に頼まれたのでもなく、みずからの意志と信念で署名をしたと言う。たがいに一歩も引かない100分の激論の幕が切って落とされた。
本作の日本初演は2004年新国立劇場小劇場で、木村光一演出、鈴木瑞穂と草笛光子が共演した。残念ながら自分にはこの舞台の印象がほとんど残っておらず、それがなぜかを考えねばならないところだが、まずは今回の加藤健一事務所版に集中するとしよう。
作家が作品に自分の思いを込めるのは当然であるが、本作に対する劇作家ブライアン・クラークの思いには、痛ましいほどの悔恨、懺悔、贖罪の念がある。初演の公演パンフレットに記載されたクラークの寄稿によれば、1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されたことを知った当時13歳の彼は、新型爆弾の威力に驚嘆し、敵国が壊滅的な被害を受けたことを大喜びしたのだという。長じて核爆弾が人類に対する犯罪であることを認識し、自分を激しく恥じた。そして自分の作品『この生命は誰のもの?』が東京で上演されるとき(1979年の劇団四季公演か?)、プロデューサーに頼んで広島を訪問する手配をしてもらったのだそうだ。
慰霊碑の前に立ったときのことを、クラークは「忘れることはできないでしょう」、「私の人生でもっとも荘厳で美しい瞬間でした」とふりかえる。この体験に与えられた希望を作品に結実させようとさまざまな労苦を重ね、そして完成したのが『請願』なのだ。
本作が日本で上演されることがクラークという劇作家に特別な意味をもつこと、どのような感慨をもったかということは想像するにあまりある。被爆国日本、すべての被爆者、そして核爆弾投下を無邪気によろこんだ少年の自分、平和への強い願い…。実際に戦争に関わっていた大人ならともかく、子どもなら無理からぬこと。そんなに自分を責めないでもと思ったが、広島と長崎に投下された原子爆弾は、クラークに劇作家としての必然を与えたのだろう。
イギリスの老夫婦の対話劇のなかに込められた、ことばに言いつくせない数々の思いを考えると、福島第一原発事故による放射能被害、憲法改正、集団的自衛権の行使など、ここ数年で激変したいまの日本で本作が上演されることの重さにたじろぐ。
老夫婦の阿吽の呼吸のようなそうでないようなところも含めて非常におもしろい対話劇だ。テンポのゆるい漫才、知的応酬のディベートのようでもある。大切なのは、核兵器の先制使用に反対する署名をめぐって議論するふたりが夫婦であるという点だ。話は核問題にとどまらず、結婚生活のあれこれをめぐる話に迷走し、妻が夫の同僚の軍人と浮気していたことに発展し、その妻が病のために長くて余命3ヶ月であることまでが知らされる。
妻が請願書に署名したのは、この地球で生きることを許された数ヶ月のあいだにできる自分の精一杯の主張であり、こういうかたちではあっても夫に対する愛のメッセージとも言えるのではないだろうか。
結婚の面が強くみえる『請願』であるが、これを親子、きょうだい、友人に置き替え、お互いをよく知っている(と思い込んでいた)間柄での意見の対立、さらに同じ国内において、同じ地球にいきる人間同士のあいだでの論争を想像することもできる。相手を理解するためにはエネルギーを要する。衝突の果てに結局和解できないこともある。消耗し傷ついてもなお、どうすれば欠けのある者どうしが生きつづけることができるのか。
『請願』が投げかけるものは途方もなく大きく重い。
対話劇のおもしろさに引き込まれてつい忘れてしまいがちであるが、問題の新聞広告というのが「核兵器の先制使用反対」であるという点だ。そして退役軍人の夫は戦争が好きで戦場で人が死ぬのも当然というわからずやの好戦家ではなく、激稿しながらも戦争のプロらしく、核兵器の「先制使用」が何であるかを妻に説明しようとする。反対の署名をした妻にしても、「何が何でも子どもたちを戦場に送ってはなりません」と感情的に訴えているわけではない。お互いに問題の内容をよく理解し、自分の考えを整えた上での主張なのである。
俳優の実年齢と演じる役柄の年齢は非常にむずかしいものだ。三田和代は実年齢と役柄の年齢がほぼ同じであるが、加藤健一は80歳の老人を演じるにはさすがに若く、「老人をつくる」手つきがみえる。しかし加藤さんがほんとうに80歳になったときにこの役を演じればよいかといえば、そんな単純なものではないだろう。言い出せば日本人がイギリスの退役陸軍大将を演じることにも、すでに無理があるのだから。
本作は時間と場所を限定したリアリズムの芝居である。しかし観客に豊かな想像力を求める作品だ。いま目の前で演じている俳優の先に存在する(うまく言えない)80歳と72歳の老夫婦のこと、俳優の5年後10年後にあるかもしれない舞台のこと、自分がトマトを嫌いなのを知らないらしい相手のことなどを。
さてこの日自分が想像したのは、これからみられるかもしれないある舞台のことだ。カーテンコールに満たされた表情で登場した加藤健一と三田和代。いつの日かこのおふたりによるアルフレッド・ウーリー作『ドライビング・ミス・デイジー』の舞台が上演されないだろうか。きっと素敵だと思うのだが。
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