因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

梅田芸術劇場主催公演 『昔の日々』

2014-06-11 | 舞台

*ハロルド・ピンター作 谷賢一翻訳 デヴィッド・ルヴォー演出 公式サイトはこちら 15日まで日生劇場 19日~22日まで梅田芸術劇場のシアタードラマシティで公演
 90年代にもっとも強い影響を受けた演出家として自分は迷うことなくデヴィッド・ルヴォーの名を上げる。しかしこのブログにルヴォー演出舞台の記事がこれしかないのは(1,2)、ブログを開設したのが2005年で、日本でのルヴォーの活動が90年代ほど多くないこと、tptが拠点としていたベニサン・ピットが閉館したことなどが理由であろう。

 モノトーンのなかにクッションや衣裳などの赤(紅、緋色というべきか)が映え、舞台を前方に少し張り出し、照明の微妙な塩梅で空間を浮かび上がらせたり切り取ったりなど、戯曲を大胆に立体化、鮮やかに視覚化する舞台美術(伊藤雅子)に息をのむ。ルヴォーマジックは健在だ。

 1300以上ある客席を1000にした演出の意図はあるにしても、2階席は無惨なほどに空席が目立つ。また劇場ぜんたいの雰囲気が寒々としているのはなぜだろう。チケットのもぎり、客席案内はじめ、スタッフさんは必要なことはもちろんきちんとなさっている。しかし舞台をつくるのは演出家と俳優とスタッフなど、直接舞台に関わる方々だけではないはず。劇場スタッフもまた、舞台を観客に届ける重要な役割を担っているわけで、精魂込めてつくりあげた作品であるという自信や誇り、ぜひ楽しんでほしいという熱意や心意気は、その人の立ち姿、声のかけ方などすべてにあらわれて訪れる観客に伝わるのである。

 ベニサン・ピットのtptを比較の対象にするのはあまり有効ではなく、ただ過去を懐かしむのも建設的とはいえない。また筆者は演劇の興行的なことについては全くの部外者であり、事情を知るものではない。それだけに今回の公演の企画そのものに得心がいかない。

 気鋭の劇作家・演出家である谷賢一が翻訳を行ったのも話題のひとつである。一部に遊びがすぎることばづかいもあるが、こちらの耳にしっくりとなじむ自然な訳であった。自分で劇作も演出も行う谷賢一には、大いに考えるところがあったはず。しかしパンフレットには翻訳者の寄稿どころか、プロフィールの記載もない。なぜだろう。不思議を通り越して、怒りを感じる。いやわたしがここで怒ってもしかたがないのだが。

 しかし『昔の日々』観劇を経て、自分はハロルド・ピンターの劇世界がますます好きになった。体験した舞台の印象がどうであれ、やっぱりピンターはむずかしいからみるのはやめようとは思わない。むしろこれからも機会があればどんどんみて、戯曲も繰りかえし読もう。ピンターを理解するためにではなく、体感するためである。
 ピンターが不条理演劇の作家だとまとめてしまうのはもったいない。ピンター劇の条理は、ピンセットで台詞一つひとつをつまみ上げて顕微鏡をのぞくような細密な作業が必要だが、不意に何かが降りてくるようにすとんとこちらのおなかに落ちることもあるのではなかろうか。
 『昔の日々』の第1幕でアンナ(麻実れい)はディーリィ(堀部圭亮)に「起こらなかったかも知れないけれど覚えてるってことはある。起こらなかったかも知れないけれど私が覚えてることがあって、それを思い出せばその通り起こったことになる」と言う。禅問答のようだが、自分はこの台詞の条理を体験としてわかる。それはピンターの勉強をしたからではなく、これまで生きてきた日々の体験や実感によるものだからだ。

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