*公式サイトはこちら 阿佐ヶ谷・シアターシャイン 26日で終了
黒田圭が主宰をつとめる絶対安全ピンの企画で、「役者が漫画や映画などの名作を一人で無理やり身体化して演じきるイベント」とのこと。黒田圭が当日リーフレットに本公演をいわゆる「一人芝居」ではないこと、どのような意図をもっているかなどを丁寧に記している。
一人芝居といえばイッセー尾形のサラリーマンシリーズはじめ、白石加代子の「百物語」、毬谷友子の『弥々』、井上ひさしの『化粧』など枚挙にいとまはない。黒田は異議を申し立てるのではないが、明らかにそれらとは違う地平をめざしており、これから舞台をみようとする観客に対して、やわらかな口調ながら意識変革を求めているとみた。
因幡屋が観劇した回の演目は以下のとおり。
「ひとり天空の城ラピュタ~リクエストタイム~」(西村俊彦)
「ひとりスケバン刑事Ⅱ」(にむらかおり)
「ひとりX JAPAN」(はやし大輔)
「ひとりガラスの仮面」(船串奈津子)
黒田の意図したこと、観客に伝えようとしたことは、いわゆる「一人芝居」ではないものをみせたい、しかしそれを明確に名づけることにはためらいがあり、「名づけられないもの」を「行為」として示したいということであろうか。
舞台に複数の人物が存在する様子をひとりの俳優でみせるにはどうすればよいか。それは「ひとりでも支障なく自然に、あるいはみごとにみせる」ことを示すのか、逆に作り手の苦心をおもしろみに転化する方法もあり、いずれにしても演じる俳優だけでなく、劇作家、演出家ともに腕のみせどころではなかろうか。
「ひとり祭り2012」はまずここがちがう。たとえば人物が会話する場面では、俳優がその人数分をからだの向きや口調を変えてめまぐるしく演じる。台本でいえば「ト書き」の部分や効果音までも発語する。つまり物語のすべてをまさにひとりでみせるのであり、前述のとおり「無理やり身体化して演じ切る」のである。
むかし「これからテレビのO△をやります!」と言っては、主人公から脇役から、場面についての説明も加えながら「やってみせる」子どもが周囲にいなかっただろうか。もちろんこの舞台に立つのはプロの俳優さんであるから、経験を活かし、練りに練った演技プランで臨んでおられることはまちがいないのだが、小さな子どもが自分の大好きなことをみんなに知らせたい、みてもらいたいという素朴で必死の願いが根っこにあるのでは?
いわゆる「一人芝居」は、舞台のさまざまな要素がひとりの人物の内面に向かって深く入り込んでゆく様相にその舞台の印象を決定づける肝があり、観客がみたいのはまさにその点である。俳優の巧みな演じ分けをはじめとする作り手の工夫あれこれももちろんおもしろいが、かんじんな部分が希薄であれば、それはただ俳優の名演技、オンステージをみたにすぎない。ひとりきりの俳優をみながら、最終的な舞台の印象においてその俳優の存在がいい意味で消えていること。それが理想である。
「ひとり祭り2012」は、企画のめざしたところが最も大きなみどころであり、同時に弱い箇所でもある。ひとりの演者がある作品を演じ切る点については、いわゆるお笑い芸の世界にもっとすごいものがある。もちろんこの企画は「芸」ではないのだが、ならばプロの演劇の俳優が演じることをもっと前面に出し、取り組んだ作品への視点、切り口、敢えて野暮な言い方になるが「批評性」をみせてもよいのではないか。
たとえば美内すずえの『ガラスの仮面』は漫画ファンはもちろん、演劇ファンからも大きな支持を得た作品である。しかしながらそれは純粋な演劇賛歌ではなく、実際の演劇とは似て非なるもの、到達しえない世界を描いているのであり、それこそが『ガラスの仮面』を違う表現方法でみせる場合の重要な切り口であると思う。
「そうそう、あんな場面があった」「よく読みこんでるなぁ」と、自分が見知っているところが舞台で演じられることを楽しむのに加えて、演じる俳優さんなりの、ここでしかみられない『ガラスの仮面』に出会いたいのである。
また演目がいずれもアニメーション、劇画、テレビドラマであること(はやし大輔の「ひとりXJAPAN」は何といえばよいのか・・・)は、図らずも本公演の意図を象徴するものであろう。
綿密な上演台本があり、さまざまな試行錯誤があって本番になったとは察するが、少なくとも客席からは「ひとり祭り2012」には劇作家と演出家が不在であるとみた。それは舞台を自由に開放的なものにすると同時に、ある面でものたりなくもしているのである。
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