タツノヒノエ

神仏への道-神社仏閣巡りから、古代の神々との出会い

中華人民共和国四大仏教聖地「普陀山」と、日本僧「えがく禅師」・・・

2022-04-24 14:14:11 | 神社仏閣 神仏 御神霊 ウカノミタマ女神 ニギハヤヒノミコト 

中国観音霊場会と、昔から懇意にしている、

中華人民共和国・四大仏教聖地のひとつ、「普陀山 (ふださん) 」。

観音聖地です。

観音聖地「普陀山」の、発祥は、日本人僧「恵萼 (えがく) 」です。

ウィキより、伽藍の画像もウィキより、

「当地が観音霊場となった由来は、後述の「普済禅寺」の項にも記述される通り、916年、中国への渡来僧である慧萼(えがく)が、中国留学を終えて日本に帰国しようとした際、日本に招来しようとした観音像が当地で日本に渡ること拒んだ(=不肯去)、という故事にちなんでいる。よって、その観音像は「不肯去観音」と称されており、そのお堂は「不肯去観音院」と呼ばれる。以後、この舟山群島中の普陀山は、観音菩薩の浄土である補陀落に擬せられ、人々の信仰を集める中国有数の霊場となった。「普陀山」という名称の由来も、「補陀落」である。」

恵萼(えがく、生没年不詳)は、平安時代前期の日本の間を何度も往復したことで知られる。

漢字表記は一定せず、惠蕚[1]慧蕚[2]慧鍔[3]慧諤[4]などとも書かれる。

嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子は、の教えを日本にもたらしたいと考えた。恵萼はその命を奉じて、弟子とともに入唐し、唐の会昌元年(841年)に五台山に到って嘉智子皇后からことづかった宝幡・鏡奩などの贈り物を渡し、日本に渡る僧を求めた[5]。その後も毎年五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏に遭って還俗させられた[6]

なお、恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、同碑はのちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという[7]

恵萼はまた浙江省普陀山観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である。この伝説は時代が降るが、中国では『仏祖統紀』(13世紀)、日本では『元亨釈書』(14世紀)に初めて見える。それらによれば、恵萼は大中12年(858年)に五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像を下ろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた。」

・・・中国観音霊場会と、普陀山のつながりは、

「中国」と言う言葉の繋がりみたいであります。

私は、中国観音霊場会のツアーで、昔、一度だけ普陀山に行きました。

御朱印をもらった寺院 (簡素な朱印) いくつかあったのですが、私の不徳ゆえ、失くしてしまいました。

普陀山滞在中、幸運にも、「二年間? 地下の石室に籠って修行していた活仏が、二年ぶりに地上に出てきた」のを拝見しました。

当時、普陀山は、人口3千人中、2千人が僧侶で、全員、「出家主義」を貫いていました。

島中の僧侶・尼僧が大騒ぎしていて、

地上に出てきた活仏を、「一目見ようと」、お坊さんたちの人だかりになっていました。

たくさんの僧侶たちに取り囲まれながら、活仏が前から歩いてきたのを拝見しました。

二年間、ずっと地下で瞑想していただけあり、「黒髪は伸び」、「黒いヒゲも伸びていました」。

背は高くなかったですが、「精悍で、かつ、落ち着いた佇まい」の方でした。

ガイド曰く、

「食事は、弟子たちが毎日運んで」いたとか。

普陀山中にある、たくさんの寺院を礼拝回りをしておられたようです。

普陀山の僧侶たちは、現地の大物・陳さん曰く、「完全出家主義です。妻帯者が出家する際は、妻子と別れて出家します」とのことでした。

日中寺院のレセプションには、同行したツアー客も参加したのですが、日本のお坊さんたちが、昼間っから「かんぱーい」と、ビールをグビグビ飲み、肉をバクバク食い、タバコをズバズバ吸っているのに対して、

中国人僧たちは、「水で」、「かんぱーい」とやってました。

タバコはもちろん、肉一切食べていなかったです。

私は、中国人僧たちと同席したのですが、

「これ美味しいからどうぞ」と勧められた「唐揚げ」。

「全部、大豆で作った疑似肉です」とのことでした。味は、美味しかったです。

確かに、坊主頭を見比べると、一目瞭然でした。

日本のお坊さんは、頭が「脂で、ツヤっツヤ」だったのに対して、

中国僧は、「頭も顔も、ツヤっ気」が、「全く無い」。

体格がいい日本僧に対して、

中国僧は、「細身」の人が多かったです。

ちなみに、普陀山には、管長のような、総責任者の僧侶もいたのですが、

活仏と、どっちが偉いのか聞いたところ、

現地のガイド曰く、

「管長の僧侶は、お寺を束ねる責任者で、活仏は、表の僧侶と言うより、修行をメインにする僧侶だ」みたいな意味のことを言っていました。

普陀山に数多くある寺院の仏像は、「文革で破壊されたのち、復興した寺と仏像なので、全部新しい」と聞いたのですが、

どこの御寺の仏像も、オーラが出ていて、

「太古からある仏像に見える」気がしました。

これが信仰の力と言うものでしょうか。

(追記です) あと、これは、あくまで私論なのですが・・・

日本人僧・恵萼禅師つながりなのかわかりませんが・・・

「古代日本の神々」も、普陀山に、おられるような「気が」しました。

どこの寺院にと言う訳ではないのですが・・・

そんな気がしました。

もし、それが当たっているなら、日中の仏教寺院の縁結びをされたのは、日本の神々なのかも知れません。(はずれていたら、申し訳ありません)

・・・・・


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