「互いに師となり弟子となる」
高野山教報(月間高野山6月号)より。
「・・・前略・・・延久4年(1072)の 『高野雑日記』 に記されています。それによれば、6月15日は「不空御忌」 と記述され、弘法大師の師、
恵果和尚(けいかかしょう) と師弟関係にある不空三蔵の御命日にあたります。
かつての不空御忌は時代の変遷とともに大師御誕生会へとかわって いきました。
さて、恵果和尚が亡くなられた夜、大師の夢中に和尚が現れ、
「空海と私(恵果) は浅からぬ関係で幾世にもわたり互いに師となり弟子となって真言 密教を広めてきた間柄である。
来世は東の国(日本)に生まれかわって空海の弟子となろう」 と夢告がありました。
つまり大師の前世は不空三蔵と解せられ、 その再誕した姿が大師といえましょう。時に、唐の大暦9年( 774)、不空三蔵が入滅したその日、
遠く離れた日本では、かつて真魚(まお)と呼ばれ、 後に空海と名乗った貴者(とおともの)が誕生しました。 ここにあらためて、
密教伝法の祖師と弘法大師へ報恩の誠を祈ります」
筆者追記・・・下線部は有名な話です。
太字部分は、解釈の誤りです。不空三蔵が「入滅した」のなら、 もう、この世界に生まれ変わるハズがないので、「入滅」ではなく、「示寂 (じじゃく・・・僧侶が亡くなること)」・・・が正解です。
入滅とは、お釈迦様や、お釈迦様の時代の高弟たちが「 涅槃に入った」・・・常楽の境地に入ったことですから、 生まれ変わりは「無い」とするのが、仏教の基本です。
ちなみに、「生まれ変わりながら、 互いに師と弟子を繰り返している」・・・件 (くだり)・・・ 真言宗智山派では、
中興の祖、興教大師・覚鑁 (かくばん) 上人が、恵果阿闍梨 (けいかあじゃり) の生まれ変わりだと言う意見もあります。
「密教のこころ」(内観の聖者・覚鑁と真言宗) 読売新聞社・・・絶版・・・には、
「覚鑁は恵果アジャリの生まれ変わり」(P36)
「覚鑁名字釈」によると、覚とは菩提すなわちさとりの智慧を意味し、鑁とは
(バン) の音写で、金剛界大日如来の種字真言である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/72/969bb8b00d06199d057e7418a80fb607.png)
真言密教では胎蔵法マンダラを因マンダラとし、金剛界マンダラを果マンダラとするから、結局覚鑁とは恵果の二字と同じ意味であるとしている。
この解釈は、覚鑁上人が恵果アジャリの生まれ変わりであるとする。
この再誕説としては、同書に「古記に曰く、鳥羽上皇夢に恵果和尚を見る。他日まのあたり覚鑁の相貌を見るに違うところなきゆえに叡信益と篤し」と記されている。
弘法大師が、恵果和尚の師であり、中国密教の大成者である不空三蔵の生まれ変わりであるといわれるのに対し、恵果再誕説が行われるようになったものと思われる。・・・後略・・・」
先日、高野山の菩提寺の一つが高野山銘菓「みろく石」を送ってくれました。
母の十三回忌を申し込んだ御礼です。回向証書と、「みろく石」、「高野聖 (線香) 2つ」「護摩豆腐」が入ってました。
若いころは、「みろく石」、なんの変哲もない饅頭だと思ってましたが、年取ると共に、「美味い」と思うようになってきました。
高野山を訪れの際は、「みろく石」食べてみてください。
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