立派です。
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那覇市の夜間中学に通った76歳の女性が8日、卒業式を迎えた。沖縄戦の後の混乱の中、小学2年生までしか学校に通えず、自分の名前もきちんと書けないで苦労してきた。昨年9月には脳梗塞(こうそく)になり言葉をうまく発することができない。自宅近くの中学校で生徒らに卒業をお祝いされ、「ありがとうございました」と言葉を絞り出した。
卒業したのは、牧野順子さん。家族によると、戦後、家族の手伝いなどに追われて中学にも通わず働いた。その後、那覇市内の市場で30年以上、もやしを売る仕事をしてきた。公的な書類は家族が代筆し、悔しい思いをしていたという。
仕事をしながら、NPO法人「珊瑚(さんご)舎スコーレ」が運営する夜間中学に行くようになり、引退した2016年度から3年間、本格的に通った。週5日、午後6時から9時まで英語や数学、体育など11教科を学んだ。
この日は、自宅近くの那覇市立寄宮中で、牧野さんのためだけの卒業式が開かれた。長女のみどりさん(50)に付き添われ、車いす姿で体育館に。校長から卒業証書が授与された。
これまでの経緯を聞いた中3の上原謙治さん(15)が生徒を代表し「どんなことがあっても前向きに取り組む姿に感銘を受けた」とあいさつ。みどりさんが「第2、第3の青春で学校生活をものすごく楽しんだ」と応じ、牧野さんが涙ぐみながら「今日は中学校を無事に卒業できて、とてもうれしい」と言うと、大きな拍手が起きた。(山下龍一)
「いつか自分の字で名前が書きたい」76歳女性の願いは中学卒業 花道で見せた人生を諦めない姿
「きょう、無事に中学を卒業できてとてもうれしい」−。終戦後の混乱で学校に通えず、民間の夜間中学校で3年間学び直した牧野順子さん(76)が8日、籍のある那覇市の寄宮中学校(仲盛康治校長)で卒業証書を受け取った。読み書きもままならないまま女手一つで子どもたちを育て上げ、大病さえも乗り越えた人生。事情を知った寄宮中の3年生たちが式を催し、牧野さんの門出を祝った。(社会部・渡慶次佐和)
小学校は2年まで牧野さんは神戸で生まれ、幼い頃に両親の出身地沖縄に戻った。3歳で終戦。4人いる弟妹の子守や家の手伝いで、小学校には2年までしか行けなかった。
15歳から社会に出て働き、夫の勝廣さんと19歳で結婚、兵庫県に移り住んだ。36歳で家族で沖縄に戻ったが、半年後に勝廣さんと死別。それからは実母や妹が農連市場で営んでいたもやし店を引き継ぎ、1人で3人の子どもを育てた。
働きながら夜間中学「いつか自分の字で名前と住所を書きたい」。長年思い続けていた牧野さんは、妹からNPO法人珊瑚舎スコーレの夜間中学を勧められたのを機に、一念発起して60代半ばで入学。だが当時は早朝の市場の仕事と両立が難しく、途中で断念した。
その後、諦めきれずに2016年に再入学。授業や課外活動に熱中した。1年と3年の時に脳梗塞を患ったが、家族の支えや友人の励ましを受け、通い続けた。
学びを諦めない姿夜間中学校を修了すると、特例で「中学卒業相当」と見なされ、卒業証書は籍のある中学校などで授与される。牧野さんのことを知った3年生の生徒40人が「卒業式を開こう」と実行委員会を立ち上げ、スライド上映や記念品を企画。生徒たちの心のこもった演出に、牧野さんは感極まった様子で花道をゆっくりと進み、生徒と抱き合った。
脳梗塞の後遺症で話すことが難しくなっていたが、この日のためにデイケアで猛練習。娘のみどりさん(50)に付き添われながら「無事に卒業できてとてもうれしいです。ありがとうございました」と、涙をぬぐった。
実行委を代表し、上原謙治さん(15)は「どんなことがあっても、笑顔を絶やさず目標を貫く牧野さんのように自分たちも頑張っていきたい」と祝福した。
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こういう人の話を聞くと、本当にすばらしいと感銘を受け、いくつになっても勉強し続けなければという気にさせられます。
牧野順子さんのこれからに、幸多からんことを!
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