お母さんを許せた真梨子さんは、偉いです。
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(語る 人生の贈りもの)高橋真梨子:8 母にがん、もう許さなければ
2018年8月1日05時00分
1998年11月、亡くなる1カ月前の母(右)と=本人提供
■歌手・高橋真梨子
母の不倫は、相手の男が亡くなるまで40年ぐらい続きました。私はそんな母に反発し、中学で不良グループに入ったこともありました。
「誕生日は必ずやってあげたし、お弁当も毎日作ってあげた」と母は言ったけど、そういうことじゃない。幼い私が母の愛情を一番欲しかったときに何をしていたの、ということです。
関係に変化が起きたのは、私が16歳で上京してスクールメイツに入ってから。バックコーラスを続けることに疑問を感じ始めたころ、母が東京に来ました。
毎朝手の込んだお弁当を作ってくれて、夜はテレビ局のスタジオの隅で、スタッフに邪険にされても私の仕事が終わるのをずっと待っていた。母の愛情を感じて、私の気持ちも少しずつ変わっていったんです。
デビューした後も、母は博多からちょくちょく遊びに来ました。私も親孝行はしなきゃいけないと思って毎月仕送りをしたし、ときどき一緒に旅行もしました。
《1998年、母親に末期のがんが見つかる》
博多の病院で、母のがんの手術をしました。余命半年と言われて、ああ、これでもう母を許さないといけない、と思ったんです。
「リハビリのため」と母に言って東京の病院に転院させ、毎日、仕事が終わると駆けつけました。地方でコンサートをやっても、最終電車で帰ってきて病院に直行。寝ずの番というぐらい、とにかくがむしゃらに看病をしました。でも母は、うつらうつらと眠って過ごす時間が増えていきました。
「まあるい物が見える。そこに入ったら楽になれて死ねるような気がするけど、なかなか入れない」
よく母はこんなことを言っていて、「まあるい物って何だろうね」と2人で話したことを覚えています。
その年の暮れ、母は車いすで私のディナーショーを見に来てくれました。元気そうに見えたのに、数日後に容体が急変。大みそかに亡くなりました。(聞き手・坂本真子)
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何も親孝行ができなかった人間としては、真梨子さんにはただただ頭が下がります。
御母堂のご冥福をお祈りいたします。合掌。