市川團十郎ファンとしては、ぐっときたインタビュー記事です。記録しておきましょう。
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特集ワイド:父・團十郎最期の日々 日本舞踊家・市川ぼたんさんが語る
毎日新聞 2013年02月25日 東京夕刊
◇長く生きたいとも、歌舞伎に命を燃やしたいとも願っていた
江戸歌舞伎を代表する十二代目市川團十郎さん(享年66)は、幾度も病に倒れながらも、ひとたび舞台に 上がれば闘病のつらさをみじんも感じさせなかった。最期の日々をいかに生き、何を残そうとしたのか−−。長女で日本舞踊家の市川ぼたんさん(33)に聞い た。【小国綾子】
「最期の数日間、父は穏やかに眠っているようでした。でも、眠る姿はただそれだけで私にエールを送って くれるようでした」。薄水色の着物姿のぼたんさんは静かに語り始めた。「父は最期まであきらめなかった。そんな父だから眠りながら家族を勇気付けてくれた のだと思います」
團十郎さんは昨年12月18日、京都・南座の「中村勘九郎襲名興行」を風邪で休演。その後肺炎と診断さ れた。「白血病を抱える身には、風邪も肺炎も普通の方とは違うんです」。年が明けると呼吸が困難になり、1月12日、集中治療室に。口と鼻を覆うマスク型 の人工呼吸器をつけた。それでも血中の酸素濃度は上がらず、15日朝、病院に呼び出された。
「前日の雪で真っ白な街を、家族で急ぎました。医師から気管挿管による人工呼吸器を提案され、『苦痛を軽減するため、眠った状態にするので、その前にご家族でお会いになってください』と。治るための治療と父は信じていた。私たち家族も、そう信じないと前に進めなかった」
挿管前、マスクのせいで話せず、点滴の管だらけで動けない團十郎さんは「書きたい」という仕草を見せ た。ぼたんさんがとっさに差し出したのは、自分が看病日記をつづってきたノートだ。「舞台出演中だった兄(海老蔵さん、35)を除く家族みんなで手を添 え、ノートを支えました。父はボールペンを握り締め、こう書いてくれました」
<こんな大雪の日にみんな来てくれてありがとう>
<うちの家族はみんないい人で、僕は幸せだ>
さらに、長男海老蔵さんの妻で、第2子の出産を控える麻央さん(30)に<体を大事にしてください。いいお嫁さんが来てくれて僕はうれしかった>と。
これが團十郎さんの最期の言葉となった。2月3日、静かに逝った。ぼたんさんの手元には父の言葉が、ノートとともに残された。
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團十郎さんが白血病を発症したのは04年春、57歳の時だ。折しも海老蔵さんの襲名披露興行のさなか。自身も19歳で父を亡くし、父なき後の大名 跡を背負う不安と孤独を痛いほど味わったからだろう。「なぜ息子の大事な時に、と悔しくて自分の生き死になんてどうでも良かった」と生前語っている。
夏に白血病が寛解すると、秋のパリ公演で舞台に復帰。翌年再発したが、抗がん剤治療の末、06年再び復帰、パリ・オペラ座での初の歌舞伎公演も果たした。08年には妹から骨髄移植を受けた。倒れても、倒れても、團十郎さんは舞台に舞い戻った。
父の体を案じ、04年のパリ公演時には「行くなら私はもう看病しない。病院にも来ない。家を出ます」と大げんかしてまで止めようとしたぼたんさん。07年のオペラ座はむしろ「何が何でも行かせてあげたい」と応援した。
過酷な闘病生活だった。團十郎さんが記者会見で「無間地獄」と語った抗がん剤治療の日々をぼたんさんは よく覚えている。「父は『気持ち悪い』とも『苦しい』とも言わなかった。医者が来れば症状を淡々と説明し、いきなり嘔吐(おうと)する。吐き終わると何も なかったように再び話し始めた。『今日は動けない』と言うとカーテンを閉め切った部屋で、一人体を丸くしてやり過ごしていたこともありました」。父の姿は 教えてくれた。「人間苦しい時はある。つらい、つらいと言わず、自分に必要な宿題をもらったと思って生きなさい」と。
「だから父が死んで悲しいけれど……悲しいだけではないです」。ぼたんさんは柔らかな笑顔で言い添えた。「病気になってからの父はそれまでよりずっと生きているのが楽しそうに見えましたから」
虚をつかれた。楽しそう、ですか。
「父は病気になった後のことを『おまけの人生』って呼んでいましてね」。その一言で、07年のテレビイ ンタビューを思い出した。團十郎さんはこう語っていた。「昔の医学なら自分はもう死んでいる。だから今の僕は『おまけの人生』。駄菓子についたおまけを集 めるのって楽しいでしょう?」。なぜ、こんなにも楽しげな表情で語れるのだろう、と驚いたっけ。
「発病する前の父は、本当に忙しかったんです。芝居が休みの時期も他の仕事が入っていて毎日が戦闘態勢。だけど病気で父は変わった。本当に『おまけ』を楽しんでいるように見えたんです。家族にも大切な日々となりました」
團十郎さんは父の死の4年後、23歳で海老蔵を襲名した。「自分は力不足。他の人に譲るべきでは」と悩んだ末のことだった。38歳で團十郎を襲名 した後も、その名の重さに縛られ、苦しんだ。「縛っているのは自分」と気付き、悩みのトンネルを抜け出すまでの日々を「出口もなく輪っかをぐるぐる回すネ ズミのよう」と描写した。歌舞伎のため、日本文化のため、そして家族のため、ひたすら働き続けた。
白血病になって、初めて仕事を長く離れた。病室で大好きな宇宙に思いを巡らせ「銀河系を構成する星より遙(はる)かに多くの、60兆という数の細胞に人間は生かされている」と気付いた感動を著書につづっている。病を得て、解き放たれる心もあるのだろうか。
「心に残るお父様の言葉は」と尋ねたら、ぼたんさんは「言葉よりも笑い声。何とも言えず豪快でそれを聞くだけで悪いものがすべて消えていくようでした」。遠くを見つめる目が少しだけ潤んだ。
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「無理して立った舞台が死期を早めたのでは」と指摘するむきもある。責任感や義務感だったのか、それとも本人が舞台を望んだのか。
「父に聞かないと分かりません。でも、たぶん両方」とぼたんさん。「生まれてくる孫と舞台に立ちたい、 新しい歌舞伎座の完成を見届けたい、だから一日でも長く生きたいと願ったのも父。歌舞伎のために命を燃やしたいと願ったのも父でした。舞台が死期を早め た、と言われればそうかもしれない。でもそんなふうに生きなかったら、父の人生は何だったのか」。父親譲りの大きな目に強い光が宿った。
父の死から日が浅いのに、ぼたんさんは気丈だった。
「父の生き方を自分の言葉で伝えたい。臆測で語られるのは耐えられないから。父もそれを望んでいると思う。それにね。父に言われた気がしたんです。『それくらいできるでしょ』って」
ぼたんさんの目に涙はない。でも着物は涙の色だった。
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泣けます。NHKの追悼番組で片岡仁左衛門丈が「怒ったのを見たことがない」と語っていましたが、まさにそのおおらかさこそが團十郎丈の芸でした。辛くとも悲しくとも、それをぐっとこらえて線の太い舞台を勤めた。本当に惜しいひとを亡くしたという想いに包まれます。
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ご遺族の方の心中を慮るとともに、改めてご冥福をお祈り申し上げます。合掌。
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