小さいときに、親によく殴られてばかりいました。って言ったら、今は心配されちゃうかな?
「昔は違った」なんて、言いたくないなと思ってるけど、今と違って母親から殴られるのは日常茶飯事だったのですよ。
言う通りになんてしたことなかった(笑)。
言うこときかなすぎて、布団叩きでお尻をはたかれ、マジックでその日忘れた物を顔に書かれ、雪の中裸足で立たされ・・とか。
(これが一連の流れ・・)
このブログを母親が知った時怖いので、ここまでにしといて・・(笑)。とにかく、すっげー痛かったw
しつけだけじゃなく、私も小中時代執拗ないじめを体験して、身体的にも精神的にも「痛み」を感じ、こうしたら痛いんだ、
心が痛むんだと学ぶことができた。それは、勉強じゃなく人間関係でしか学べない。
大人になっても同じ。恋愛関係で痛い目見て、失恋して、人はこうしたら自分や相手が傷つくと、失敗を重ねて学んでいく。
自分がこれをしたら、言ったら相手が傷つくと理解出来るようになり、保守的になったり時に攻撃になったりする。
(その感情コントロールは理屈では出来ないときもあるけどね、苦笑)
そういう「想像力」が欠けてきているんじゃないかなと、自分も含め、考えてみたいなと思う。
自分が過去に教える仕事をしていたとき、生徒のことを「子供」と見たことはなくて、一人間として対等に見ていた「つもり」。
なぜなら、彼らなりに感じて行動し、それが大人が思いつかない道だったりするし、彼らなりに切り開く力があるから、子供とか関係なく尊敬できたので。
だけど、もしかしたら、そこはそこで尊重してるよってスタンスでいて、実は避けているのかもしれなかったなと。
大人が積極的に関わらなきゃいけない部分は思っているより多いのかもしれない。
「子供」と認め、関わっていく勇気も必要なんだと思う。逃げない勇気。いい親、いい先生、いい大人は結局彼らにとって、
「都合の良い大人」。全ての子供が本当に自分のことを思って言ってくれていると、認識出来るとは限らない。
彼らが形成する世界観を壊して入ってくる大人を一言、「ウザイ」という言葉で片付けるけど、その言葉を聞いて逃げず、
「ウザイ」という言葉の裏にある意味や、SOSをちゃんと理解出来る大人になりたい。
接し方が間違っていてもいい。関わろうとしてくれる大人が居る事が大事。
多摩川の河川敷で亡くなった中学一年生の死をきっかけに、多くの人が子供に関わろうとしてくれることを望みます。
それは加害者に対する非難、攻撃という形だけではなく。それは、大人の逃げでしかない。どちらの少年ももしかしたら被害者なのかもしれない。
そういう想像力を働かせよう。
いわゆる、メディアが「周りの大人は何をしてたのか」と言う、大人っていうのは、親や先生だけじゃないんだということを、改めて心に留めて。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。