◆萬古焼のまち
四日市市立博物館
「江戸の文様 萬古の色」 うつわに込められた美と心
4月24日(土)~6月13日(日)
「四日市市の地場産業として有名な萬古焼。古萬古を中心に、その器に描かれた文様を手がかりに、萬古焼に込められた願いや祈りを探ります。」
四日市文化会館美術展示棟
「古萬古展」 弄山・有節より永遠に
4月17日~7月4日
萬古の町の“市立博物館”では、これまでも度々企画展が開催されており、常設展にも技法の解説と作品を紹介する萬古のコーナーがある。
博物館から歩いて3分の“文化会館の美術展示棟”では、まちづくり振興事業団が、年3回の常設展示と年1回の企画展示を開催。博物館の隣の“じばさん三重”1Fは、地元の名産品の販売コーナーがあり、萬古焼は、その主力商品である。
萬古焼は木型を利用した珍しい陶法で知られ、18世紀桑名の豪商であった弄山(ろうざん)の「萬古不易」が創始。四日市で生産が開始されるのは幕末のこと。
明治時代より多くの職人を擁した萬古業界では、1895(明治28)年の賃上げを要求する同盟罷業を初め、労働争議が頻発。1910年以降増加する朝鮮人の職工も多く、この地に定住した朝鮮人熟練工の中には、労働運動に中心的役割を果たした者もいたと伝えられる。1926年に設置された県の工業試験場四日市分場は、地元の要望もあり、1934年、“県立窯業試験場”として独立した。
外国からの観光客も含め、120万人以上が訪れたと言われる国産振興四日市大博覧会(1936年)では、萬古焼陶磁器館も出現。
『四日市市史』では、萬古焼に関わる歴史を多角的に取り上げている。
1979年には伝統的工芸品産業に指定され、名称を「四日市萬古焼」と統一。
1998年竣工“ばんこの里会館”の展示室で、技法と沿革を伝える展示パネルは陶製。萬古焼の販売はもちろん陶芸教室も開催され、地域交流の拠点でもある。
日本の伝統的工芸品館が作成したデータで、萬古焼の「催事」に、「萬古まつり」と共に「萬古神社」が取り上げられているのには少々驚くが、毎年5月第2土日は、“萬古神社”(1935年建)を中心に陶器市(萬古まつり)が開催されている。
この町にとって萬古焼は産業であり、そして美術、技術研究、宗教、祭、まちづくりである。
【4月】
◆小杉未醒のスケッチ「鮮人」
愛知県美術館「小川芋銭と珊瑚会の画家たち」展に行く。
芋銭といえば河童、牛久。牛久といえば住井すえ‥など連想しながら会場へ。芋銭の「水魅戯」「狐隊行」「農村春の行事絵巻」『平民新聞』の挿絵や、平福百穂、森田恒友などの作品が紹介されている。
そのひとつ小杉未醒のスケッチ「鮮人」について、「鮮人」とは差別ではないかとの指摘を受け、美術館が対応を検討中と報じられた。蔑称であり差別と指摘した詩人の主張と、美術館側の対応を報じた毎日新聞と中日新聞の内容が異なるため、事実関係がはっきりしないが、中日は、画題の変更も検討されていると伝えている。はたして「鮮人」とは、「差別語」なのかも含め、少し考えてみたい。(記事はこちら)
まず、スケッチの画題が、いつ、誰によって付けられたのか不明らしいものの、小杉本人が了解していたとの指摘もあるようだ。いずれにしても、画題を勝手に変更するなどということが許されるはずもない。(画題の変更を検討中とする中日新聞の報道には疑問が湧く)
ここで必要なのは、画題の変更や作品の撤去ではなく、今では使われることのなくなった「鮮人」という言葉について、どう説明するのかということだろう。そして、それは、この作品と描かれた時代を、さらに理解することにつながると思う。
朝鮮人の略語として長く使われてきた「鮮人」の歴史的背景については、『朝鮮人差別とことば』(明石書店 1986年)の「『鮮人』ということば」(内海愛子)がくわしい。同書では、およそ次のように説明されている。
1910年の「日韓併合」以前は「朝鮮人」又は「韓人」が用いられていた。「併合条約」(8月29日公布)の記述は「韓国」「韓人」であった。しかし「併合条約」公布の日に、勅命により「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」とされた。その後まもなく(9月19日)東京朝日新聞に「鮮人」が登場、朝鮮人の略称として定着していった。
そして、内海は「朝鮮人」の略語に「朝」ではなく「鮮」が使われたことをもって、単なる略称でない蔑視と差別意識があったと主張する。しかし、そうした理由で「鮮人」を差別語とする主張は有効だろうか。
「華人」「米人」など、略称に一番目以外の語を用いることは珍しくない。一番目の語が他にも使われることが多く他の用例と紛らわしい場合は、その使用を避けるだろう。当時「朝」は「朝廷」に関して多用されており、日本に来ることを「来朝」と表現していたことは内海も指摘しているが、そうした事情の影響を退け、「鮮」は差別としている。しかし、あざやかを意味する「鮮」自体に蔑視感があろうはずもなく、差別語と断じるのは無理がある。
では、「差別語」でなければ問題はないのだろうか。
ここで大切なのは、差別語だから使ってはいけない、差別語ではないから良いということではなく、「鮮人」ということばが使われた背景を理解することだと思う。日本が韓国を殖民地化していく過程の中で広まり、蔑視と差別にまみれて使用されてきた「鮮人」に、不快感を抱く人々がいることを、今、わたしたちは受け止めることができるはずだ。そして、こうした丁寧な作業を重ねることで、小杉が描いた時代を理解し、未来へと向かうことができるようになるのだと、わたしは思いたい。
◆ベルガモット
ちょっとだけ香が欲しいときのために、好みのアロマスプレーをつくった。ベルガモット5滴、ペパーミント3滴、ティートゥリー2滴。純度の高い精油を少量ブレンドした。このスプレーが気に入っているのは、香が持続しないこと。ひととき気分を変えると、すぐに消える。
以前からコロン類を使う習慣はなかったが、最近、多様な匂いの過剰さが気になることが多くなり、ますます特定の匂いに支配されることを好まないようになった。
日々の暮らしの中で、時折、楽しませてくれる香は多い。季節の花、椎茸や南瓜の焼ける匂い、珈琲豆の袋を開けた幸せな一日。そんな場所に、特別につくられた匂いは馴染みにくい。数メートル先から存在を知らせるほどの過剰な匂いを身にまとった人は、沈丁花や梔子、一杯の煎茶の香を、どのように受け取っているのだろうかと思う。
わたしがベルガモットを好きでいられるのは、それが、ひかえめな存在でいてくれたから。
ひかえめな香を楽しむためには、それが許される穏やかさが必要なのだと思う。
◆電気アレルギー②
先月、電気アレルギーについて書いたところ、さっそく「電流に対して平均より敏感なため、電気器具からリークしている微弱電流に反応しているのではないか」とのご指摘をいただいた。ありがとうございます。
腰痛・肩こりなどに使われる低周波治療は、馬の治療にも使われるそうで、低周波治療が好きになる馬が多いものの、嫌がる馬もいるとのこと。わたしはもちろん全く苦手である。電気を嫌がる馬って、親近感が湧く。友だちができたみたいで嬉しい‥
とは言え、電気に反応して身体に不調が表れるなんて容易には信じてもらえないと思うので、この電気アレルギーな日々の体験を、どんな風に書いていこうかと思案しているところ。
◆埴沙萌『植物記』
この数年、年間を通して最もたびたび手に取る本が、埴沙萌の『植物記』。
魅力的な写真と簡潔な説明で伝えてくれる植物の季節の表情には、何度開いても発見がある。身近な自然に関心をもったときに発せられる「あれ?」を刺激する入り口が満載。
◆「慰霊」のかたち②
戦争慰霊碑を数ヵ所訪ねる。
遺族会作成のリストによると「英霊碑」があるという神社の急な階段を上って行くが、慰霊碑らしきものは見当たらず、あきらめかけた時、傾斜の一番下の端に小さな碑があることに気づく。
「おもいでのしるべ」と記された碑は、1959年建立。亡くなった58名の名前だけが刻まれていた。有縁の人等によって、ひっそりと建てられた碑は、「死」が賛美されることを望んではいないのだ。
「よっかいち人権の礎を訪ねて 四日市市内の戦争慰霊碑」のデータを追加しました。
泊村戦没者碑(泊村公会所)、平和之礎・忠魂碑(小古曽神社東)、釋堅忠勇送信士の碑(波木町了信寺)、倶會一處(貝家町上品寺)、おもいでのしるべ(采女町八幡神社)
【3月】
◆戦闘機の居場所
戦争時、多数の陸海軍の施設があった鈴鹿市には、今も当時を伝える場所がある。
現在はNTTの施設となっている第一鈴鹿海軍航空基地の格納庫や、海軍工廠があった地域では住宅地の中に、ぽつりと軍の倉庫が残されていたりする。鈴鹿市の面積の1割近くを軍の施設が占めていた。そのひとつであった北伊勢陸軍飛行場の周囲には、多くの掩体(えんたい)がつくられた。
掩体は、激しさを増す空襲から航空機を分散して避難させるための格納施設で、コンクリート製、土製がある。土製が多い掩体は、戦後次々と取り壊され畑などに使用されたが、鈴鹿市三畑町に現存するコンクリート製の掩体は、当時の姿を伝える貴重なもの。戦争直後、内部は天井近くまで土が詰まっていたらしく、実際に使われることはなかったと言われている。私有地に残されており、登録有形文化財となっている。
掩体のほとんどは鈴鹿市内につくられたが、鈴鹿と接する四日市市水沢野田町にも当時の姿を残している場所がある。共同墓地の奥の林の中の土製掩体は、今では地元でもほとんど知る人はいない。案内されなければ気づくこともないだろう。戦争は過去のものであると思える平和な時代を、わたしたちは長く享受してきた。
しかし1945年、地上戦で米軍に占領された沖縄に、米陸軍工兵隊が本土攻撃の基地として滑走路を建設したのが普天間だった。それから65年、沖縄は県の面積の1割以上を占める米軍基地とともにある。それがなぜなのかを忘れないようにしたい。
◆本の敵
この町の図書館は、書庫で防虫剤を使っている。
一時期、図書館中が防虫剤のにおいに包まれていたのは、開架スペースにまで漏れるほど大量に使用していたからだろう。古い本を借り出すと、ページを開いただけで臭う。先日、調べもののため書庫に入ったら、本棚のあちこちに防虫剤があり、しばらく居るとクラクラしてきた。それにしても、毎日この環境で本を扱う司書さんたちは平気なんだろうかと思う。これまで図書館の本で防虫剤という経験は無かったので、驚き、とても困り、しばらく他の図書館を利用していた。
酸性紙など本の素材も図書館を悩ます。15年ほど前、昭和初期から30年代にかけて刊行された重厚な装丁の化学総覧を手にした時、背表紙は一部ポロポロと剥がれ始め、変色したページはゴーフルのようにパリパリと折れそうだった。そんな本を読み複写するなんて、まるで破壊者になった気分だった。けれども本は読むためのもの。これまで誰かが開いた形跡のないこの本を、このまま眠らせておくよりはと言い訳しながら捲ったあの総覧、その後、誰かが手にすることがあっただろうか。
本の歴史に登場する敵は多い。ずばり『書物の敵(The Enemies of Books)』(ウィリアム ブレイズ 1880年初版)なる本もある。この本で、輝かしき「敵」とされたのは、火、水、ガスと熱気の悪行、埃と粗略の結果、無知と偏狭の罪、紙魚の襲撃、害獣と害虫の饗宴、製本屋の暴虐、蒐集家の身勝手、召使と子供の狼藉であった。
現在、国立国会図書館は、蔵書の電子化を急ぐ。1948年から実施されている納本制度に、電子データを含めることも検討されている。電子化の作業は、古いものから進められている。
蔵書の劣化問題について、国立国会図書館が2005年から06年にかけて実施した調査で、本文紙と製本の状態を報告している。物理的強度・酸性度・変色・劣化によって発生するにおい(ギ酸、シュウ酸、酢酸、バニリン酸など揮発性有機酸)などの本文紙の状態と、表紙の形態、綴じ、本文紙の束ね方、本文と表紙の接合、見開き度などである。
古い本には独特の臭いを感じることがあるが、やっぱりそうだったんだ。
それにしても、こんな風に敵との格闘が取りざたされるのは、少なくとも本が、戦い続ける力を失ってはいないということでもある。デジタル化は、本を物理的な劣化から救い出し、これまで以上に多くの読者を獲得する可能性を与えるだろう。が、「でも‥」と考えたくなるのは、心配性の本好きの習慣である。さて、10年後、本とその敵たちはどうなっているだろうか。
◆電気アレルギー
今年も花粉アレルギーの季節がやってきた。
花粉も苦手だが、もっと苦手なのが「電気」である。こちらは季節に関係なく一年中。
電気にアレルギーというと、電化製品の操作が苦手な人や、乾燥する冬に起きやすい静電気、最近時々話題になる「電磁波」が思い浮かぶが、そうではなくて「電気」に触れると身体上に不快な反応を起こす。たとえば、こうやってPCのキーボードを叩いたり、マウスを操作したりすると、しびれる、むくむ、湿疹ができる、皮膚がピクピク痙攣する、指先にチリチリとした刺激、身体に一部に冷やっこい刺激、捻挫のような痛みなどを感じるのである。
今はずいぶん軽減したのでPCで作業ができているが、痛みがひどかった1年半は、ほんとうに何もできなかった。仕方がないので、どうしても操作しなければならない案件以外は、PC入力を全て手書きに代えた。ピーク時には、掃除機や電灯のスイッチにも反応していた。
しかも困ったことに、本人は深刻に悩んでいるのに、周囲のほとんどの人から、好意的な反応でも「信じられないけど、あるのかも?」という怪訝な顔、時には「ありえない」と即断され、笑い話にされる。
おそらく、ほとんどの人にとって、「電気」に反応なんて信じられないのだと思う。
けれども、あの花粉症だって、花粉でアレルギーが起きるなど、とても信じられないと考えられていた時代もあった。医療現場でも理解されなかった。
でも、花粉はもちろん、そば粉や卵、太陽だってアレルギーに苦しむ人がいるのである。
ほんとうに困っていた一年半、会う人会う人に話をしてみた結果、少数ではあったけれど、この「電気」の刺激に体験的に共感してくれる人がいた。
ある人はリモコンやパソコンで時々何か感じると言い、ある人は自宅のパソコンのタッチパッドを操作すると指先にチリチリとした刺激を感じるという。彼女はみんな同じように感じていると思っていたので、家族に聞いたら「そんなことはない」と言われ驚いていた。
いったい何に反応しているのかはよくわからないが、「電気」が発する何かに刺激を感じる人が少数ながらもいるのだと思う。(私の感触では4%くらい)
それは通常は「不快」程度にすぎないが、体調不良など他の要因と重なると、不快が「苦痛」になることもあるのではないか。だから、少数派でも存在するかもしれない「電気」アレルギーについて、自分の経験をご紹介したいと思う。
◆内藤ルネ
内藤ルネ ロマンティックよ永遠に
四日市市立博物館 2010年2月13日~3月22日
1953年『それいゆジュニア号』のイラストレーターとしてデビューした内藤ルネ(1932~2007)は、『ジュニアそれいゆ』『洋装』『私の部屋』などで、女の子が大好きな「かわいい」イラストを描き、ファッションや生活スタイルを提案、ファンシーグッズも生み出した。
「かわいい」「なつかしい」がダブルで踊る内藤ルネ展へのわたしの関心は、この展覧会が何を伝えようとしているのかだった。
1960~70年代当時の思い出話をしながらゆく女性の二人連れ、あちらこちらで「これ、カワイー」などと言いながら足早にまわる女の子のグループ。予想通りの会場の雰囲気の中を通っていくと、最後のコーナーで紹介されていたのが雑誌『薔薇族』だった。
『薔薇族』は、1971年に創刊されたゲイのための雑誌である。内藤ルネが男性であることは知っていたので驚きはしなかったが、ペンネームを使い分けて『薔薇族』の挿絵や表紙を描いていたことは知らなかった。
女の子の求めるロマンチックやカワイイで彩られた世界とは一見異なるが、夢見る内藤ルネが『薔薇族』で描いたのは、明るく健康的な男の子だった。ゲイの世界でも、内藤ルネ色を発揮したのだ。それは、内藤ルネの一部としてあるべくしてそこにあった。
【2月】
◆博物館外部システム論
犬塚康博『博物館外部システム論』を読む。読後、報道で、最近国立動物園設立を求める声があることを知る。
『博物館外部システム論』は、博物館の配置に関する理論のこと。1928年、博物館事業促進会の「本邦ニ建設スヘキ博物館ノ種類及配置案」から始まり、その後しばらく博物館理論の中心を占めた。それは、博物館を一定の構造にもとにあるべきものと定義し、法の力による援助(取り締り)をなす中央集権的なものであった。しかし、戦後日本の博物館は、そうした外部システム論を採らず、内に向かうことで発展してきたのである。ところが昨今注目される動きとして、大阪府にみられる博物館見直しを、外部システム論から読み解いている。
さて、国立動物園だが、『博物館外部システム論』によると、「本邦博物館、動物園及び水族館施設に関する方針」(『博物館研究』 博物館協会 1946年)と、「観光外客と博物館並に同種施設の整備充実」(日本博物館協会編 1947年)において言及がある。
「本邦博物館、動物園及び水族館施設に関する方針」では、東京に配置される国営の「中央動物園」がみられ、「観光外客と博物館並に同種施設の整備充実」では、「国立中央動植物園」として、小石川の植物園、恩賜上野動物園、三崎の東大理学部附属の水族館があげられている。
そして、その後今日に至るまで、国立の博物館はいろいろあるが、動物園は、まだ無い。日本の動物園の中核的存在である上野動物園も、農商務省博物局(1882年)、宮内庁(1886年)を経て、1924年に東京市に渡った。現在は東京都立で、指定管理者制度により東京動物園協会に管理委託されている。
国立動物園の設立を求める動物園関係者の一人である岩野俊郎(到津の森公園)によると、国は専門性が必要で飼育に予算が必要な動物を、地方ではもっと身近な動物をということであるらしい。(朝日新聞 ひと 2010・1・9)
珍しい動物を見せようとすることで、「客」の要望に応えることを優先にしてきた動物園が少なくないことは、かねてより動物園の内からも外からも批判がある。改善しようとしてきた動物園の努力もある。そうした中で、今この時期に国立動物園を求める動きが、動物園の関係者の中から起きてきたということが気になる。
なぜ、戦後、国立動物園は無かったのか。それは日本の「動物園」がどのようにみなされて、実際どのように在ったのかということでもある。
そんなことを考えていて思い出したのが、日本モンキーセンターと京大霊長類研究所、そして日本カモシカセンターのこと。ライオンもゾウも、パンダもコアラもいない動物園。動物園というイメージとは隔たっているかもしれないが、動物園のこれまでとこれからを考えるには、こんな動物園に注目してみたいと思う。
◆日本モンキーセンター
久しぶりに、日本モンキーセンター(犬山市)へ。
2月のモンキーセンターでは、お馴染みヤクニホンザルの「たき火にあたるサル」たちが見られる。このたき火は、もう50年を迎えるということで、園内には50年を振り返るコーナーも。
ジェフロイクモザルとシャマン(フクロテナガザル)は頭上を行き交い、ボリビアリスザルやワオキツネザルは、運がよければすぐそこ間近にやってくる。(触れるくらいの距離だが、もちろん触らないでね)この日の学芸員によるミュージアムガイドは、尻尾のお話。
サルについてのあれやこれやが解る学習施設「ビジターハウス」の設置も古い。骨格標本、生態からサルと人の交流史、民俗までサルに関わる守備範囲は広い。隣に位置する霊長類研究所と混同されやすいが、両者の関わりは深い。
1956年に設立された日本モンキーセンターは、1962年には生態学、心理学、実験動物学、飼育管理学などの専門研究員を抱える研究施設であった。1966年に京大霊長類研究所が設立されたことで研究の中心が移るまで、日本の霊長類研究の重要な部分を担ってきたといえる。研究の拠点が移行したことで、モンキーセンターでは、研究そのものよりも、研究の成果を発信する博物館としての役割が大きくなった。
モンキーセンターについて、もうひとつ注目しておきたいのは、設立当時重要視されていた医学研究などにおける、実験動物の研究及び供給という点でも成果を上げていたこと。
1957年、モンキーセンターは、日本動物園水族館協会、日本博物館協会、実験動物研究会に加盟している。
登録博物館 財団法人日本モンキーセンター 附属博物館世界サル類動物園への興味は尽きない。
◆日本かもしかセンター
2006年閉園した日本カモシカセンター(三重県菰野町)の剥製5体を含む資料が、菰野町図書館で紹介された。
「カモシカセンター再び」展 2010年1月30日~2月14日
主催 NPO法人・県自然環境保全センター
1960年に発足した「鈴鹿山系かもしか保存学術研究会」から発展した財団法人「日本カモシカセンター」は、カモシカの生態研究や飼育・繁殖を目的に、御在所岳山頂に開設されたカモシカ専門の動物園。鈴鹿山系を生息地とするニホンカモシカはもちろん、タイワンカモシカ、シーロー、シャモア、ゴーラル、シロイワヤギ、ジャコウウシ、サイガを飼育していた。世界のカモシカ類10種類のうち8種類の飼育は世界最多。
1962年ニホンカモシカの飼育のためにカモシカ園を開設し、1965年には世界で初めてニホンカモシカの飼育下での繁殖に成功。1973年、日本カモシカセンター自然博物館開設、財団法人日本カモシカセンター設立。以降、世界各地のカモシカの飼育・繁殖に取り組み、サイガを除く7種の繁殖に成功している。1986年には菰野で「国際かもしか学術シンポジウム」を開催するなど、カモシカの研究では注目されてきた。
ニホンカモシカは、国の特別天然記念物に指定されており、「三重県民獣」でもある。
ところで、戦後まもなく、日本の動物園ではニホンカモシカの飼育が望まれており、上野動物園でも積極的に収集・飼育を試みている。ニホンカモシカは欧米の動物園からの入手希望が強く、外国産の動物との交換において有力と期待されていたのである。しかし、上野動物園では、移送後、数日から一年以内に死亡するニホンカモシカが続出。早々に飼育は断念され、生息地付近での飼育という方針が固まった。
山上に建設された日本カモシカセンターは、御在所ロープウェイの観光ポイントとしても、生息地に設置された飼育施設としても注目されるものであった。しかし、そのことで逆に、行きにくい、観光客の動向に左右されやすい、老朽化した施設の改修・改築が困難という問題に突き当たる。
2006年11月に閉園。飼育されていたカモシカたちは、各地の動物園に引き取られ、剥製や骨格標本類214点が県立博物館に寄贈された。また、その他の研究資料類は、菰野のNPO法人・県自然環境保全センターが引き継いだ。
◆広瀬鎮『サルの学校』(中公新書 1981)
朝日新聞夕刊の連載ニッポン人脈記。1月末の「差別を越えて」第7回(1月26日)は、猿まわし師の村崎太郎。記事によると「村崎太郎が被差別部落の出身であることをカミングアウトしてから、1年余りたつ」という。「カミング・アウト」という表現に困惑する。このことば、最近、あちこちの媒体で村崎太郎のカミング・アウトが紹介されているので、おそらく本人の弁であろう。
1970年代後半、すでに昭和30年代にはほとんど姿を消していたといわれる猿まわしの「復活」に関わった人々にとって、猿まわしと「部落差別」は、まっすぐつながっていた。それは「部落差別」を、いかに超えるのかを抜きには考えられないことだった。30年という歳月は、そうした経験が忘れ去られるには充分な長さだったのだろうか。
広瀬鎮『サルの学校』は、「部落差別」とも、動物と共に生きる人に向けられた蔑みとも向き合って、猿まわしの復活をめざす人とサルのお話。朝日新聞の記事に関心を持たれた方には、是非おすすめしたい。
◆うぐいす
2月24日、うぐいすが鳴いている。寒い間、出勤時、行く先にあって眩しかった太陽が、ようやく高さを増す。
【1月】
◆三重県立博物館
老朽化で外壁が崩れ落ち、現在休館中の県立博物館だが、ようやく新博物館の開館をめざして動きが活発化してきた。1月30日には津で新博物館についての意見交換会「みんなでつくる博物館会議2009」が開催されたとのこと。
すでに公表されている「新県立博物館基本構想」の中で気になったのは、「まちかど博物館」と「公文書館」
博物館ネットワークの中に位置づけられている「まちかど博物館」。たとえば四日市地域まちかど博物館推進委員会によると、2009年末で72館が認定されている。個人コレクションあり、ものづくりの現場ありの多彩さは、「コレクション」への思いとか、市民参加、まちづくりという点でも注目といったところであろう。けれどもコレクションの多様さ自由さを楽しみつつも、それらが「まちかど博物館」という枠の中で語られることに、違和感を感じてしまうのはなぜだろうかと思う。
そして、このたびの新博物館に一体的に整備されるという公文書館。市史などの編纂事業で収集した資料の保存と活用については、編纂時に公文書館の整備も合わせて検討しておきたいところだが、実際には刊行終了と共に編纂室が閉鎖され、収集資料の行き先は博物館か図書館かに落ち着くことも少なくない。この場合、保存はともかく、利用まで環境を整備するのは容易ではない。三重県の構想は、公文書館を単独で建設するよりも博物館と一体化させることで得られる財政的なメリットも意識しているが、資料の保存と利用が、博物館ネットワークの中で、どのような効果を生むことができるのか、しばし注目したい。
◆今年最大の満月
1月30日、仕事帰りに何気に空を見たら、前方にあまりに明るく大きな月。「何事?」と思い、調べてみると「今年最大の満月」。知ってしまえば、どうってことはないが、昔々遮るもののないところで、毎日、夜空を見て暮らしていた人は、こんな風に月が近付く夜をどう感じたのでしょう。写真の腕は一向に上達しないが、『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』夜空のスケッチ又は写真とメッセージ募集の2月末締め切りに向かって、毎日空を眺めている。
◆割り箸とマイ箸
「マイ箸」などという言葉が使われるようになったのは、20年以上前のことと記憶する。
当時は「変わり者」扱いだったが、この数年、一種のファッションのようにも感じられる。実際、マイ箸を持参し続けている人が、どれくらいいるのかはよくわからない。現場でお目にかかることは、ほとんどない。ただ、「エコ」を冠した正しい行為として奨励されている風なのがなんとも複雑である。持ち帰りなどで、必要以上に割り箸が付いてくるシステムは当然改善の余地ありだし、自宅や職場などいつもの場所では、食器と同様、箸も洗って使えばよろしかろう。しかし、それをあえて「マイ箸」と称して、箸の持ち歩きを提唱する人びとの脳裏には、「割り箸」=使い捨て=悪という図式があるのだろう。
かつては箱膳というのがあって、日々の食事で使う食器類一式が、それぞれ個人の箱の中に納められ、箸も食器も毎回洗うものではなく、食後のお茶か白湯で、ちゃぷちゃぷ濯いでOKだった。昭和30年代になると、ライポンなどの台所用洗剤が発売され、やがて台所の必需品となっていたので、昭和40年頃、田舎の親戚宅で箱膳が出、食後、祖父が食器をそのまま箱に仕舞ったのを見た時は驚いた。それは、今とは違って食事に肉類など脂肪が少なく、それで汚れが落ちる程度であった時代の話。見習いたいほどの「エコ」だが、これを今そのまま真似したい考える人は少ないだろう。むしろ油脂を多用した食生活を見直す方が、よほど「エコ」ではないかと思える。
さて、マイ箸・割り箸問題だが、すでにあちこちで指摘されているように、こうした一見わかりやすそうな話は、実はそんなに単純ではない。マイ箸推奨の一方で、森林づくりのためにマイ箸、割り箸に限らず国産材(間伐材)の使用を呼びかける動きもある。割り箸だけではないが国産材製品の衰退が、国内の森林の衰退を招いている。また安さを求めた輸入割り箸の増加が、中国の自然環境にも悪影響を及ぼす。マイ箸か割り箸かではない問題が見えてくる。
が、なにしろ現在日本国内で流通している割り箸のほとんどが輸入品なので、国産割り箸には滅多にお目にかからない。コンビニのミニストップが、国産割り箸「木づかい箸」を5円で販売しているのを見たことがある程度だった。見ただけで判別できるものでもないが、今月京都に行ったときに新幹線構内のうどん店で、注文したゆば・とうふうどんと共に出てきたのが、国産桧間伐材使用の割り箸だった。