いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

明治・大正・昭和 露西亜とともに 太田覚眠師顕徳碑 (四日市市京町 法泉寺)

2015-10-21 | よっかいち 人権の礎を訪ねて
太田覚眠は、法泉寺住職諦念と母けいの次男として1866(慶応2)年に生まれました。幼名は猛麿といいます。東京外国語大学でロシア語を学んだ後、1901(明治34)年、36歳で法泉寺の住職となりました。
1903(明治36)年、西本願寺の命でシベリア開教師としてウラジオストクに渡り、日露戦争、第一次世界大戦、ロシア革命という激動の時代をロシアで過ごしました。

覚眠を一躍有名にしたのは、日露戦争時の日本人居留民救出でした。
1904年日露戦争勃発により、ロシア各地の日本人居留民に対して帰国命令が下りましたが、ウラジオストク、ハバロフスクの居留民は帰国できたものの、ブラゴヴェシチェンスクなどの奥地の居留民が取り残されてしまいます。覚眠は、2月13日単身で奥地に向かい、現地のロシア人の支援を得ながら居留民800人を連れてウラル山脈を越え、ドイツを経て、12月6日長崎に寄港しました。この出来事は、全国の新聞で報じられたため、多くの人の知るところとなりました。

覚眠は、こうしたロシアでの体験を、国内の講演会や執筆活動を通して日本人に伝えました。戦争と革命の時代に、ロシアで、宗教者であった覚眠は、どのような考えに基づいて行動したのでしょうか。

日露戦争後、ロシアでの慰霊碑(忠魂碑)建立に際し、日本とロシアの戦死者を同様に供養すべきと主張したことが、自著『露西亜物語』(1925年刊行)に記されています。かつて薩摩の島津弘義父子が、高野山に建立した朝鮮人の供養塔に感銘を受けたこと、親鸞や日蓮が敵対する者のためにも祈ったことに触れながら、次のように述べています。

  私は朝鮮役の碑の例を以て、宜しく敵味方双方の為めの忠魂碑として建立すべしと云ふ事を主張した。さすれば此碑が日露親善の一媒介と成るだらうと云つたが、軍事費の中には敵の為めに忠魂碑を立てる金は無いと云ふ事で、薩摩守の真似は出来ないのである。外交と云ひ軍事と云ひ随分窮屈千萬なものだと私は思つた。(『露西亜物語』)

日露戦争後、四日市でも忠魂碑が次々と建立されますが、日本人の死者を賛美し「征清」「征露」「敵愾」などの言葉で、憎しみを増幅し戦意を高揚させていきます。戦争と「慰霊」を考えるにあたって、覚眠の意図したことを心に留めておきたいと思います。

法泉寺の太田覚眠師顕徳碑は1955(昭和30)年に建立され、1993(平成5)年に境内の現在の場所に移設されました。

 (2015年10月20日 中島久恵 記)




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(撮影2015年9月)
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靖博地蔵尊 1944(昭和19)年飛行訓練中に墜落死した陸軍大尉 (四日市市浜一色町)

2015-10-03 | よっかいち 人権の礎を訪ねて



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四日市の中心部に流れる海蔵川の南側堤防の下に、「靖博地蔵尊」と彫られた地蔵がある。
建立年は不明だが、近所の方のお話では、昭和20年代にはあったという。

戦争中の1944(昭和19)年1月21日、この付近で、戦闘訓練中の九七式戦闘機2機が衝突して墜落、2名が亡くなっている。この事故で亡くなった操縦士の1人が、林靖博陸軍大尉で、召集されて間もない明野陸軍飛行学校の北伊勢分教所(鈴鹿郡川崎村)の訓練生であった。

『ふるさと橋北』(橋北地区郷土史編集委員会 2013) によると、亡くなった林大尉は名古屋出身の27歳で、不憫に思った当時の有力者が発起し、婦人会などの協力を得て地蔵尊が建立されたという。
その後しばらくは、毎年8月13日に、地元住民と遺族による供養の行事が続けられた。
遺族が出席できず行事はなくなった現在(2015年)も、清掃や前掛けの洗濯などは欠かさず、地元の人びとによって大切にされていることが判る。

『明野陸軍飛行学校の歴史と飛行 第200戦隊戦史』(1979)では、この事故は次のように記録されている。

・・
1月21日 18年度召集佐尉官(北伊勢教育中)独立飛行第52中隊附陸軍大尉林靖博、九七式戦闘機操縦、同熊谷陸軍飛行学校附陸軍大尉片桐敏雄、九七式戦闘機を操縦は小隊空中戦闘訓練中、衝突し両機共、四日市海蔵橋付近に墜落両名共殉職す。
・・

(中島久恵 記)




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(2015年3月撮影 中島) 
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海とともに 磯津

2014-01-05 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

海とともに
     磯津

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(撮影 2013年)

四日市の海では、漁や養殖がおこなわれてきましたが、沿岸部に工場が建設されるようになると工場排水による汚染が問題となりました

1958(昭和33)年頃から、伊勢湾の魚は石油臭いと言われるようになり、1959(昭和34)年、第一コンビナートが本格稼動しはじめると、その年の暮れから「臭い魚」の漁獲が増えます。1960年頃には、異臭魚のとれる範囲が四日市の沖合4キロまで達するようになりました。東京築地の卸売市場で「厳重な検査が必要」といわれ、返品や買いたたきによって大きな被害を受けました。

三重県は、異臭魚の原因を究明するために、伊勢湾汚水調査対策推進協議会専門調査委員団を設置します。コンビナートの各工場から油分のふくまれた排水や遊離硫酸、水溶性硫化曹達などが湾内に排出されたことで、硫化物、水酸化物、硫酸塩、硫酸水素が発生しているとし、「油脂分が異臭の少なくとも原因である」と指摘しました。汚染物質が魚に与えた影響は、単に表面への付着だけではなく、魚の体内にまで吸収されたものと考えられました。

磯津では、バッチ網漁(船びき網漁)がさかんで、マイワシ、カタクチイワシ、イカナゴ(コウナゴ)などが獲れます。また、海産物の加工場もたくさんありました。

伊勢湾の汚染を解決するために、法律による規制と水質汚濁状況の監視がすすめられました。1966(昭和41)年、四日市と鈴鹿は、水質保全法による規制水域となり、その後、水質汚濁防止法、三重県公害防止条例により工場等に対する排水規制を強化する一方、県・市・四日市港管理組合が協力して水質汚濁状況を監視しています。

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四日市市 市政概要 平成24年度版より

1971(昭和46)年
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1974(昭和49)年
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(1970年代写真 提供 澤井余志郎さん)


2013年2月記



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三重北勢健康増進センター  (三重県立大学医学部附属塩浜病院 跡地)

2014-01-05 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

三重北勢健康増進センター  
(三重県立大学医学部附属塩浜病院 跡地)


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(写真提供 澤井余志郎さん)

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大気汚染が激しかった時代に、空気清浄病室を設置していた塩浜病院があったのが、現在の健康増進センター(ヘルスプラザ)です。道を隔てた隣は、第1コンビナートです。

1964(昭和39)年、SO2(二酸化硫黄)濃度が1ppmを越えるほどの激しいスモッグ状態にあった3月31日、塩浜病院に気管支喘息で入院していた60歳代の男性の症状が急激に悪化し、4月2日、亡くなりました。遺言により病理解剖され、大気汚染が原因の初めての死亡例として、大気汚染研究全国協議会で報告されました。
同年5月、 四日市市と三重郡楠町が、ばい煙規制法の規制地域に指定されます。四日市市では、翌1965(昭和40)年5月、公害患者の治療費を負担する制度がはじまる(18人を認定、うち14人が入院患者)など、医療体制が強化される中、 同年6月には、塩浜病院に空気清浄病室(24床)が設置されました。

ぜんそくの発作は、特に夜から明け方にひどくなるため、日中は漁に出たり、家族の世話をし、夕方になると空気清浄病室に駆け込むという生活を送る人もいました。

1967(昭和42)年、塩浜病院に入院していた磯津地区の9人が、公害問題の解決を願いコンビナート6社に損害賠償を求めて提訴しました。5年後の判決までに、塩浜病院に入院していた原告2人が亡くなりました。

1972(昭和47)年7月24日判決の日、NHKの実況中継は、病状の悪化で裁判所に行くことができなかった原告の声を、塩浜病院の病室から全国に伝えました。

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(写真提供 澤井余志郎さん)

塩浜病院は、1948(昭和23)年に旧海軍燃料廠共済病院を継承し、三重県立医学専門学校・三重県立医科大学附属塩浜病院(後に三重県立大学医学部附属塩浜病院、三重県立総合塩浜病院など数回名称変更)となりました。その後、1994(平成6)年に四日市市日永の丘陵地帯に移転し、三重県立総合医療センターと名称を改めました。塩浜の跡地利用の計画策定は、次の2つの観点から検討されました。
① 塩浜病院は、塩浜地区を中心とする公害患者をはじめとする地域医療に長年にわたって貢献してきたこと。
② 高齢社会を迎え、一人ひとりがより積極的な健康づくりのライフスタイルを確立することが求められていること。
こうして跡地には、運動実践を重点とする健康づくり支援施設が整備されることになり、1999(平成11)年4月、三重北勢健康増進センターがオープンしました。車イスで利用できるプールなど全館バリアフリーで、当時のハートビル法(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律)の認定を受けています。


(2013年2月記)

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移設された鈴鹿海軍航空隊基地の格納庫 (塩浜駅)

2014-01-04 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

移設された鈴鹿海軍航空隊基地の格納庫
 塩浜駅の車両工場

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(撮影 2013年12月)

塩浜駅の横にある車両工場の中に、かつて日本軍が使用した飛行機の格納庫があります。

これは、河芸郡白子町玉垣(現在は鈴鹿市)に建設された第一鈴鹿海軍航空基地(鈴鹿海軍航空隊)の格納庫として使われていました。

建設にあたった名古屋の北川組によると、1938 (昭和13) 年、日中戦争遂行のため、横須賀海軍の発注により第一鈴鹿海軍航空隊工事を開始し、10月に開隊されました。主な任務は通信偵察飛行の教育・訓練と試験飛行で常時3,000名の実習生や教官がいたということです。格納庫は第五まで建設され、その中の第二格納庫が、戦後まもなく近鉄塩浜駅の横に移築されました。

塩浜の地元の方のお話によると、この時、列車の長さに合わせて、庇を長くするなどの改修がされたということです。移設された格納庫は、現在も近鉄の車両工場(塩浜検修車庫)で使用されています。

一方基地があった場所は、電信電話公社(現NTT西日本)に払い下げられ、格納庫など施設の一部は戦後も長く使われていましたが、2011年3月取り壊されました。

鈴鹿市に残された格納庫(2010年3月撮影)
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(2014年1月記)

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B29の攻撃に耐えた西唱寺の菩提樹 (日永)

2013-12-22 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

B29の攻撃に耐えた樹

 西唱寺の菩提樹 (日永)

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(2013年11月撮影) 

 1945年、四日市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29による空襲を受けました。

 特に、初めての攻撃となった6月18日未明、およそ1時間にわたる爆撃の被害は甚大でした。死者736名、重軽傷者1,500名、行方不明63名、被災者47,153名といわれ、市街地は廃墟となりました。

 この後も8回の空襲があり、市街地から少し離れた日永にある西唱寺も被災しました。

 空襲を経験した先代の住職が伝えた話によると、西唱寺と隣家など数軒の民家が焼失しました。寺の菩提樹は、B29の直撃を受け真っ二つとなりましたが、手当され、その後も毎年白い花が咲くそうです。

 『四日市市戦災誌』によると、日永地区が被災したのは、6月26日と7月9日でした。6月26日には建物の被害は記録されていませんが、2名が亡くなりました。7月9日の空襲では犠牲者は出なかったものの、住家2軒が全焼し、1軒が半焼しました。西唱寺の被災は、この時のことと思われます。

(2013年12月記)

参考
『四日市市戦災誌』(『四日市市史』資料編 近代)

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塩浜小学校

2013-10-15 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

コンビナートの見える学校

    塩浜小学校

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 四日市では、第一コンビナートの建設にともない、1962(昭和37)年頃より塩浜地区の学校にも大気汚染や騒音などの影響が問題となり始めます。

 昭和四日市石油四日市製油所の西に隣接していた塩浜中学校では、悪臭と県道の騒音で授業が中断されるほどでした。同じくコンビナートの南の塩浜小学校でも、児童の健康に影響がみられるようになります。特に被害が深刻であった塩浜中学校は、1968(昭和43)年、600mほど南西の現在地に移転しました。

 塩浜小学校は市教育委員会の研究指定を受けて、公害と児童の健康という課題と取り組み、1965(昭和40)年「公害から児童の健康をどう守るか」という実践報告をおこないました。肺機能障害の調査や、大気汚染の児童への影響を分析し、公害から児童を守るため、体力・抵抗力をつける保健実習の強化がすすめられました。
 報告書には、先行する研究や教育実践がない中で、研究指定されたことがきっかけとなり地域の課題にこたえようと公害の問題に取り組むことになった気持ちが、次のように述べられています。

   
   この汚染された空気の中に住み且つ学ぶ一千数十名の児童をそのままにしておけるものだろうか。少しでも身体への影響を防ぎたい。その為には教育として学校がしてやれることがあるのではなかろうか。このような悲願から、公害と教育とを結んで研究し実践しようと思い立ったのである。(『公害から児童の健康をどう守るか』四日市市教育委員会 四日市市立塩浜小学校 1965.10.27)

 1966(昭和41)年5月の公害認定患者のうち児童・生徒は38人で、塩浜小学校の児童は21人でした。1967(昭和42)年10月には、塩浜中学校の女生徒が、ぜんそくの発作で亡くなりました。1970(昭和45)年になると、小学生の認定患者は125人(うち塩浜小児童34人)に増加しました。

 公害対策として塩浜小学校で取り組まれたのは、空気清浄機の設置、毎日継続して行った乾布まさつとうがい、マスク、肝油の服用、防害植樹などでした。

■空気清浄機
1964(昭和39)年5月、 四日市市と三重郡楠町が、ばい煙規制法の規制地域に指定されたため空気清浄機の設置が検討されました。6月、汚染地区と非汚染地区の小学校に設置して実験を実施したところ、効果が認められたので、1965(昭和40)年4月には、汚染地区の幼稚園、小・中学校に、189台の空気清浄機が設置されました。塩浜小30台、三浜小28台、納屋小16台、東橋北小18台でした。
当初は、塩浜小学校でも、一年生は全教室、二年生以上は奇数学級のみの設置でしたが、やがて教室毎に設置されるようになりました。空気清浄機を有効に使うためには、教室を密閉しなければなりませんが、夏場冷房のない教室の窓を閉めて運転することは、たいへん難しいことでした。

■乾布まさつ
乾布まさつは、日課の中で、全校一斉、音楽に合わせておよそ10分間行われました。子どもたちが楽しく実施できるように、塩浜小学校独自の「乾布まさつの歌」が作られました。

■うがい
うがいは、授業の間の休み時間、給食前に、全校一斉に、また、体育や清掃の後には学級で行われました。水、食塩、オラドール、重曹、ハッカなど、薬剤の実験も重ねられ、うがい場も整備されました。各階に80、全校で240の蛇口が設けられました。今も、塩浜小学校のうがい場に残る「ただしいうがいのしかた」には、次のように記されています。

  頭をうしろにさげるようにして上をむき 目はてんじょうをみる
  口をあけて「がらがら」と10回ぐらい声をだしてはきだす これを3回くりかえす
  のどのおくまで水をいれてよくあらいだす
  1日に6回する(2回はくすりで)


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写真提供 澤井余志郎さん

■マスク
全児童、全職員は、活性炭の入った特殊なマスクを常時携帯し、登下校や悪臭のひどい時に使用しました。「公害マスク」「黄色のマスク」などとよばれました。汚れたマスクは、洗って使用しました。

■防害植樹
空気の清浄、防煙防塵の効果と美観、教育効果を考えて、特にコンビナートのある北側に常緑帯が設けられました。有毒ガス、ばい煙、ばい塵に強く、当該地の気候や土壌に合った樹木が選ばれ、ポプラ、くろまつ、さんごじゅ、あかまつ、くすなどが植えられました。

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塩浜小学校にやってきた煤煙測定車 1967年11月
写真提供 澤井余志郎さん

現在の塩浜小学校(2012~13年撮影)


●うがい場 塩浜小学校では、各階に設置されています。

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●郷土資料室
1994(平成 6)年3月 改装されました。
寄贈された昔の生活用具や漁具、大気汚染が激しかった時代の学校の様子を伝える写真などがあります。四日市公害裁判の原告のお一人である野田之一さんも、かつて使用していた船の艪(ろ)や魚網を寄贈されています。

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●4階展望台から隣の第一コンビナートが間近に見えます。

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グランドから、川を挟んで南にある昭和四日市石油のタンクが見えます。
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(2013年2月記)

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第二海軍燃料廠関連施設(日永) 位置図

2013-10-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

第二海軍燃料廠関連施設(日永) 位置図 
2013年8月作成 (C)Nakajima Hisae

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戦闘機「秋水」燃料工場(建設を担当した北川組HPで公開の地図より推定)
    現在は何も残されていません。

「秋水」燃料貯蔵用トンネルの入り口 
    北川組の資料では、当時「秘呂」と呼ばれていたようです。
    現在、入り口はコンクリートで密閉されており、中に入ることはできません。

海軍燃料廠が武器などを秘匿したと伝えられている沼
    現在は埋め立てられ、運動場になっています。

海軍燃料廠が武器などを秘匿したと伝えられている沼から、水を抜くために建設しようとしたと伝えられているポンプ設備遺構
    現在、ポンプ設備の一部と思われるコンクリート製の台が残っています。

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海軍燃料廠建設のポンプ施設と伝えられている遺構 (西日野町)

2013-10-01 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

沼に隠された武器

  海軍燃料廠建設のポンプ施設と伝えられている遺構 (西日野町)

 
 
1940年代に四日市の沿岸部に建設された第二海軍燃料廠は、空襲を恐れ、1944年10月から日永の山中に燃料工場や貯蔵庫などを建設しました。現在も山の中に貯蔵用トンネルの一部が残されていますが、入り口はコンクリートで密閉され、入ることはできません。建設した北川組の資料によると、トンネルは戦争当時「秘呂」と呼ばれていました。

 戦後、山の周辺は公園や住宅地となり、かつての山林が残っている場所はわずかとなりました。日永の山の西側にある住宅地西日野町(*註1)の中腹に、深くて大きい運動場があり、その運動場を見下ろす山頂付近に、コンクリート製の橋脚のようなものが数本残っています。

 地元の人の話によると、戦争中、この辺りは沼地で、銃などの武器が大量に隠されていたそうです。その沼から水を吸い上げるために、山頂にポンプ設備を建設しようとしたようですが、完成することなく敗戦を迎え、そのまま放置されたといいます。

 沼も戦後長く放置されていましたが、加藤寛嗣市長時代(1976~96年)に、地元の要望で埋め立てられ、住民が使える運動場に整備されたとのことです。その際、投棄されていた武器類が引き上げられることはなかったようです。

*註1 西日野町
現在残っている山の東側は日永、西側は西日野町になります。


奥が見えにくいですが、露出していて確認できたのは8柱。

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周囲に最近捨てられたと思われる廃材や金属製のレールも見えます。

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ポンプ設備(?)遺構から見える溜池跡(現在は運動場)。この写真では見えませんが、前方の山のこちら側に、海軍燃料廠の貯蔵庫だった防空壕の穴が2ヵ所残っています。

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左側の小山の前がポンプ設備(?)遺構。

(写真撮影 2012年2月)


第二海軍燃料廠関連施設(日永) 位置図はこちら

http://blog.goo.ne.jp/inorimusigib/d/20131001

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移転した北旭の観音堂と大橋神明社遥拝所  (曙町)

2013-09-23 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

臨海軍需工業地帯の建設と新田の村  

   移転した北旭の観音堂と大橋神明社遥拝所  (曙町) 

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 北旭は、江戸時代に塩浜村と馳出村の地先海岸を開拓してできた新田(大橋新田)で、1875(明治8)年、辰巳新田(高旭・浜旭)と合併して旭村となりました。その後、1889(明治22)年の町村制施行で、塩浜、馳出、旭と六呂見の一部が合併して塩浜村となります。

 農と漁の村であった塩浜に、工業地帯化の大きな波がもたらされたのは、1926年のことでした。東京湾埋立株式会社の朝野総一郎による四日市港造成計画において、旭地区がその対象となったのです。計画書には塩浜地先埋立について、「民有水田及び養魚池」を買収すると記されていました。
 この埋立事業計画に対して、四日市市は市域の拡張と都市計画を策定、塩浜村との合併もすすめられます。
 けれども埋立予定地となった旭地区では、売却をすすめようとした地主と農民たちが激しく対立し、永小作権確認訴訟に始まった争議が長期化します。また四日市市への合併反対運動も起きました。旭地区の強い抵抗に、合併はしたものの、埋立計画は暗礁に乗り上げました。

 反対運動に転機が訪れるのは、塩浜地区の新たな工業化計画として工場誘致が始まる1937年以降になります。
 工業港の修築と工業用地の造成等を目的に四日市築港株式会社が設立され、市長や地元企業人らによって旭地区の土地問題の和解が図られました。折りしも、1938年の国家総動員法の公布によって、臨海工業地帯も又、急速に戦時体制へと移行していきました。

 同年8月、旭地区土地問題が解決に向かいつつあることを伝えた伊勢新聞(1938・8・3)は、「物心両界の国家総動員態勢」の今、「国防一色」となった「非常時緊張時代の波」が、旭地区の小作人を強く刺激し、建設計画中の石原産業と日本ステンレス(東邦重工業)の事業が「国家的、国防的に緊急且重要」であることを、小作人たちが理解したと記しています。翌39年、裁判は取り下げられました。

 ところが、戦時体制はさらに臨海工業化計画にも大きな計画変更を迫ります。1939年、海軍が新しい燃料廠(第二海軍燃料廠)の建設に選んだのが塩浜で、四日市築港株式会社の所有となった土地が、燃料廠の建設候補地に含まれていたのです。
 結局、四日市築港株式会社は土地の売却に応じ、全ての関係者は、海軍に協力せざるを得ませんでした。石原産業・東邦重工業の建設計画に燃料廠の進出を追加した区画整理事業が、急ピッチで進められました。(註1)

 こうして移転することになった旭地区ですが、移転場所の選択が難航した上に、引越作業も困難を伴ったため、特に北旭の移転が大幅に遅れました。川を挟んで北の曙町への、北旭最後の移転となったのが観音堂でした。
 北旭は新田の村であった旭村の3地区の中でも、もっとも地盤が低く、たびたび堤防が決壊して海水が流れ込んだため、苦労は絶えなかったといわれています。そうした村の人びとが祈りを込めたのが、村の観音堂であったといいます。
ようやく観音堂の移転を終えてまもなくの1945年6月以降、四日市は七回の空襲を受け、かつて北旭の人びとが暮らした場所に建設された東邦重工業のステンレス工場は破壊され、操業不能に陥ったのでした。

 移転した北旭観音堂(曙町)に、隣接して建立された大橋神明社遥拝所の石柱(1945年8月建立)には、「昭和十六年大東亜戦争ノ国策ニ添ヒ大池ヲ始メニ耕地屋敷ノ総テ」を(東邦重工業の建設のため)大同製鋼(*2)に譲ったと記されています。

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労富農産、学知人遊、勤倹忠実、奉公至誠、敬神崇祖

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立正安民、光明浄化、以和為貴、精神努力、粛正自省

(写真撮影 2011年5・11月)

*註1
 国家総動員法の時代、海軍は、四日市の臨海部に第二海軍燃料廠用地として60万坪、同じく丘陵地に海軍軍需部関連施設として45万坪を買収した。これらの地には、田畑を耕し、養魚を営む人々の暮らしがあった。突然もたらされた軍の買収交渉に驚きながらも、家も寺も村のまるごとを移転させることに承諾する以外に道は無かったのである。1939(昭和14)年1月29日、初めて海軍と臨海部対象地の関係者が参加した交渉委員会の記録 (『四日市市史 資料編 近代)には、速攻で建設を進めようとする海軍の姿がリアルに残されている。

 この日の「交渉」は、まず市長の挨拶から始まった。次いで海軍中佐・篠田の「充分意見ヲ述ベヨ」という挨拶の後、説明を始めたのは、中佐・大須賀であった。

 土地ノ値段ニ付テ接衝シタイ 交渉委員ト訂正セヨ
 心境ヲ話ス
 時間ニ掛値ガアル 今後時間ヲ励行セヨ 
武人ハ強イ 新聞其他ニ強イト云フコトハ載ツテ居ナイ併シ情ヲ持ツテイルソノコトハ新聞等ニ記載セラレテ居ル
 第一 用地ハ必ズ海軍ノモノニシナケレバナラヌ ソレハ登記ヲシテ売買ノ観念ニナル 売買ノ前ニ軍事施設ニシテ作戦計画ヲ進メル
 第二 土地収用法
 第三 総動員法ニ依ツテ必要地ヲ収用スル
 海軍ニモ情ケガアルカラ第二、第三ノ方法ニ依ラズトモ皆様ト充分接衝シテ進メタイ
 海軍ヲ援ケル気持デ腹蔵ナイ危惧ヲ述ベヨ 事変以来沢山ノ施設ヲシテ居ルガ
民間側ノ工業用地ヲ買収スル場合ト軍トハ買収ノ上ゲ気持ガ違フト思フ 
軍部ト民間トハ作戦計画ヲシナイコト 
一度ニ施設ヲシ民間ノ様ニ遅レハシナイ
 二、三時間デ話シキメテ貰ヒタイ 徹夜シテデモ話ヲ纏メタイ
 其ノ話ノ結果退場ノ必要アレバ退場スル
 土地ノ価格ハ委員ノ代表者カラ書面デ出シ貰ヒタイ
 海軍側モ価格ヲ出ス
一、田、畑、宅地ノミノ値段ヲキメタイ

 海軍の買収計画を拒むことはありえず、ただ土地の値段など条件交渉があるのみだった。それでも、地元代表者の中には、区民を集めて相談した結果、長く住んだ所であるから何とか移転しないようにして欲しいとの希望を述べる者もいた。しかし、発言は黙殺され、話の流れは即座に土地の値段や移転地などの条件へと移った。

 市史の解説によると、この交渉委員会は秘密裏におこなわれたという。海軍は「何カ証拠トシテ委員様ダケデモ承諾書ガホシイ」と、参加者に買収承諾の文書を求めるほどの性急さであった。しかし、地元からの参加者たちは、そもそも区民から買収を承諾する委任を受けて来た訳ではなかったので、穏便に区民に了解を求めるためにも、ここで書類の作成に応じることはできないと留保を願って、この日の交渉を終える他に、術はなかったのである。

*註2 
 東邦電力系であった東邦重工業は、電力の国家管理により1942年に東邦電力が解散した後、大同製鋼に移行した。

参考
『四日市市史 通史編近代』
『しおはま80年の変遷 -塩浜村の四日市市合併80年史-』 

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