臨海軍需工業地帯の建設と新田の村
移転した北旭の観音堂と大橋神明社遥拝所 (曙町)
北旭は、江戸時代に塩浜村と馳出村の地先海岸を開拓してできた新田(大橋新田)で、1875(明治8)年、辰巳新田(高旭・浜旭)と合併して旭村となりました。その後、1889(明治22)年の町村制施行で、塩浜、馳出、旭と六呂見の一部が合併して塩浜村となります。
農と漁の村であった塩浜に、工業地帯化の大きな波がもたらされたのは、1926年のことでした。東京湾埋立株式会社の朝野総一郎による四日市港造成計画において、旭地区がその対象となったのです。計画書には塩浜地先埋立について、「民有水田及び養魚池」を買収すると記されていました。
この埋立事業計画に対して、四日市市は市域の拡張と都市計画を策定、塩浜村との合併もすすめられます。
けれども埋立予定地となった旭地区では、売却をすすめようとした地主と農民たちが激しく対立し、永小作権確認訴訟に始まった争議が長期化します。また四日市市への合併反対運動も起きました。旭地区の強い抵抗に、合併はしたものの、埋立計画は暗礁に乗り上げました。
反対運動に転機が訪れるのは、塩浜地区の新たな工業化計画として工場誘致が始まる1937年以降になります。
工業港の修築と工業用地の造成等を目的に四日市築港株式会社が設立され、市長や地元企業人らによって旭地区の土地問題の和解が図られました。折りしも、1938年の国家総動員法の公布によって、臨海工業地帯も又、急速に戦時体制へと移行していきました。
同年8月、旭地区土地問題が解決に向かいつつあることを伝えた伊勢新聞(1938・8・3)は、「物心両界の国家総動員態勢」の今、「国防一色」となった「非常時緊張時代の波」が、旭地区の小作人を強く刺激し、建設計画中の石原産業と日本ステンレス(東邦重工業)の事業が「国家的、国防的に緊急且重要」であることを、小作人たちが理解したと記しています。翌39年、裁判は取り下げられました。
ところが、戦時体制はさらに臨海工業化計画にも大きな計画変更を迫ります。1939年、海軍が新しい燃料廠(第二海軍燃料廠)の建設に選んだのが塩浜で、四日市築港株式会社の所有となった土地が、燃料廠の建設候補地に含まれていたのです。
結局、四日市築港株式会社は土地の売却に応じ、全ての関係者は、海軍に協力せざるを得ませんでした。石原産業・東邦重工業の建設計画に燃料廠の進出を追加した区画整理事業が、急ピッチで進められました。(註1)
こうして移転することになった旭地区ですが、移転場所の選択が難航した上に、引越作業も困難を伴ったため、特に北旭の移転が大幅に遅れました。川を挟んで北の曙町への、北旭最後の移転となったのが観音堂でした。
北旭は新田の村であった旭村の3地区の中でも、もっとも地盤が低く、たびたび堤防が決壊して海水が流れ込んだため、苦労は絶えなかったといわれています。そうした村の人びとが祈りを込めたのが、村の観音堂であったといいます。
ようやく観音堂の移転を終えてまもなくの1945年6月以降、四日市は七回の空襲を受け、かつて北旭の人びとが暮らした場所に建設された東邦重工業のステンレス工場は破壊され、操業不能に陥ったのでした。
移転した北旭観音堂(曙町)に、隣接して建立された大橋神明社遥拝所の石柱(1945年8月建立)には、「昭和十六年大東亜戦争ノ国策ニ添ヒ大池ヲ始メニ耕地屋敷ノ総テ」を(東邦重工業の建設のため)大同製鋼(*2)に譲ったと記されています。
労富農産、学知人遊、勤倹忠実、奉公至誠、敬神崇祖
立正安民、光明浄化、以和為貴、精神努力、粛正自省
(写真撮影 2011年5・11月)
*註1
国家総動員法の時代、海軍は、四日市の臨海部に第二海軍燃料廠用地として60万坪、同じく丘陵地に海軍軍需部関連施設として45万坪を買収した。これらの地には、田畑を耕し、養魚を営む人々の暮らしがあった。突然もたらされた軍の買収交渉に驚きながらも、家も寺も村のまるごとを移転させることに承諾する以外に道は無かったのである。1939(昭和14)年1月29日、初めて海軍と臨海部対象地の関係者が参加した交渉委員会の記録 (『四日市市史 資料編 近代)には、速攻で建設を進めようとする海軍の姿がリアルに残されている。
この日の「交渉」は、まず市長の挨拶から始まった。次いで海軍中佐・篠田の「充分意見ヲ述ベヨ」という挨拶の後、説明を始めたのは、中佐・大須賀であった。
土地ノ値段ニ付テ接衝シタイ 交渉委員ト訂正セヨ
心境ヲ話ス
時間ニ掛値ガアル 今後時間ヲ励行セヨ
武人ハ強イ 新聞其他ニ強イト云フコトハ載ツテ居ナイ併シ情ヲ持ツテイルソノコトハ新聞等ニ記載セラレテ居ル
第一 用地ハ必ズ海軍ノモノニシナケレバナラヌ ソレハ登記ヲシテ売買ノ観念ニナル 売買ノ前ニ軍事施設ニシテ作戦計画ヲ進メル
第二 土地収用法
第三 総動員法ニ依ツテ必要地ヲ収用スル
海軍ニモ情ケガアルカラ第二、第三ノ方法ニ依ラズトモ皆様ト充分接衝シテ進メタイ
海軍ヲ援ケル気持デ腹蔵ナイ危惧ヲ述ベヨ 事変以来沢山ノ施設ヲシテ居ルガ
民間側ノ工業用地ヲ買収スル場合ト軍トハ買収ノ上ゲ気持ガ違フト思フ
軍部ト民間トハ作戦計画ヲシナイコト
一度ニ施設ヲシ民間ノ様ニ遅レハシナイ
二、三時間デ話シキメテ貰ヒタイ 徹夜シテデモ話ヲ纏メタイ
其ノ話ノ結果退場ノ必要アレバ退場スル
土地ノ価格ハ委員ノ代表者カラ書面デ出シ貰ヒタイ
海軍側モ価格ヲ出ス
一、田、畑、宅地ノミノ値段ヲキメタイ
海軍の買収計画を拒むことはありえず、ただ土地の値段など条件交渉があるのみだった。それでも、地元代表者の中には、区民を集めて相談した結果、長く住んだ所であるから何とか移転しないようにして欲しいとの希望を述べる者もいた。しかし、発言は黙殺され、話の流れは即座に土地の値段や移転地などの条件へと移った。
市史の解説によると、この交渉委員会は秘密裏におこなわれたという。海軍は「何カ証拠トシテ委員様ダケデモ承諾書ガホシイ」と、参加者に買収承諾の文書を求めるほどの性急さであった。しかし、地元からの参加者たちは、そもそも区民から買収を承諾する委任を受けて来た訳ではなかったので、穏便に区民に了解を求めるためにも、ここで書類の作成に応じることはできないと留保を願って、この日の交渉を終える他に、術はなかったのである。
*註2
東邦電力系であった東邦重工業は、電力の国家管理により1942年に東邦電力が解散した後、大同製鋼に移行した。
参考
『四日市市史 通史編近代』
『しおはま80年の変遷 -塩浜村の四日市市合併80年史-』