いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

 海軍燃料廠 「山の工場」 貯蔵庫跡 (泊山小学校北)

2013-07-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

戦火を逃れ、開発を逃れて

   海軍燃料廠 「山の工場」 貯蔵庫跡 (泊山小学校北)

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手前に見える大きな入り口と、右奥のもう1ヵ所の合わせて2ヵ所

 
 太平洋戦争末期、アメリカ軍の四日市空襲の最大の攻撃目標は、第二海軍燃料廠と周辺の軍需工場でした。
 
 第二海軍燃料廠は、すでに1943(昭和18年)には備蓄原油が枯渇し南方原油も入らないなど操業困難におちいっていましたが、1944年10月から日永の山中に設備の一部が移転されます。原油・製品・装置を疎開させるため、倉庫・住宅・地下工場が建設される計画でした。工場は「山の工場」と呼ばれ、陶製の過酸化水素濃縮装置6基の建設と、ドイツのロケット爆弾の技術情報によるロケット推進燃料が製造される予定でしたが、完成したのは2基のみでした。
 
 空襲を免れた燃料貯蔵庫の入口は、戦後、コンクリートで密閉されました。現在、山の周辺には、密閉された入口が4ヵ所残されており、その内2ヵ所が泊山小学校の北にあります。
 
 戦後の開発で南部丘陵公園や住宅が建設され、景観は激変しましたが、泊山小学校と南部丘陵公園の駐車場、梅林に囲まれたこの一角は、今も戦争の記憶を伝えています。

【参考】
『アメリカ軍が撮影した四日市1945 アメリカ・公文書館所蔵写真より』四日市市立博物館 1996
『三重の戦争遺跡』三重県歴史教育者協議会
「第二海軍燃料廠の地下壕 疎開施設・航空燃料の貯蔵庫」北野保 よっかいち歴史浪漫紀行 

(2009年5月記)


西日野にじ学園の南西側にある2ヵ所
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四日市のみなと  

2013-07-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

海の向こうにつながる世界 

   四日市のみなと  

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 近代以降整備のすすんだ四日市港は、中部圏における代表的な国際貿易港として発展しましたが、ここでは少し観点を変えて、「みなと」をとりまく出来事のいくつかをご紹介します。


■朝鮮侵略
 全国統一を終えた豊臣秀吉は、朝鮮侵略を企図し出兵します。
 
 1592(天正20)年の出陣命令では、桑名、亀山、松坂など伊勢国の大名が「伊勢衆」として第13軍に編成されました。四日市の関わりについて詳細は不明ですが、朝鮮出兵時に四日市が伊勢国13浦(長嶋・大嶋・桑名・四日市・楠・長太・若松・別保・栗真・白子・白塚・津・松崎)に対して水主(船乗り)を割り付けたこと、慶長の役(丁酉の倭乱)では、四日市は徳川家康領であったため、家康の進言で出兵は免除されていたことが伝えられています。(『四日市市史』)


■海軍燃料廠
 1939(昭和14)年、塩浜地区の沿岸部に、第二海軍燃料廠の建設が始まりました。

 215万㎡の敷地に、石油精製、備蓄、補給施設がつくられました。1941年第二海軍燃料廠として正式発足しましたが、1943年には備蓄原油が枯渇し南方原油も入らないなど操業困難におちいる中、1945年の空襲で被災しました。


■四日市港米軍艦船入港対応マニュアル
 私たちの平和への願いに反して、海の向こうでは戦火が絶えることがありません。

 2003年11月12日、米軍がチャーターした民間船ウエストパックエキスプレス号が四日市港に入港し、人員・物資を積み込んで韓国に向けて出航しました。この時は、事前説明会で危険物の扱いは無いことを確認するとともに、入港情報も公開されました。戦後の一時期をのぞき、米軍が四日市港を利用したのは初めてのことでした。

 今後も同様の事態が起きることを想定して、翌2004年、対応マニュアルが作成されました。米軍艦船の四日市港入港に際して、県民・市民への情報提供や、核兵器搭載の有無の確認などを的確・迅速におこなうために、日米地位協定による・よらない双方の場合に必要なことを定めています。

(米軍が核兵器を持ち込む場合は、日米安全保障条約上、米側から日本に事前協議を申し入れることになっています。核兵器搭載の有無の確認は国の所管であり、事前協議の申し入れがないということは、当然核兵器は持ち込まれないと判断できますが、さらなる確認のため核兵器搭載の有無について外務省北米局日米安全保障条約課長宛に文書で照会するというものです。)

(2009年5月記)

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清水三重三 平和の女神像(市民公園博物館横)

2013-07-29 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

平和への願い

   清水三重三 平和の女神像(市民公園博物館横)

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 1945年6月18日の空襲を経験した市民の平和への願いを結実させた平和の女神像は、当初1952年の四日市博覧会の会場正面において公開されました。この時制作されたのは石膏像でした。

 博覧会閉会後、1953年12月、青銅製の女神像が中央通ロータリーに建立されました。当時の新聞によると、「青銅三十貫の裸体像で平和のハトを形どって両手をひろげている」(中部日本新聞12月27日)ということで、像の高さ6尺1寸8分には、四日市空襲への思いが込められています。1993年、博物館横の市民公園に移設されました。

 市立博物館では、1995年「四日市空襲」展が開催されました。また、常設展には、四日市空襲の解説コーナーがあります。

■非核平和都市宣言

 四日市市では1985年3月25日、非核平和都市宣言をしています。 

 日本非核宣言自治体協議会(事務局:長崎市平和推進室)によると、日本の自治体の80パーセント以上が、核兵器廃絶や非核三原則を求める内容の自治体宣言や議会決議などの非核宣言を行っています。

 最初の非核宣言は、1980年にイギリスのマンチェスター市で、米、ソ冷戦のさなか、核兵器の脅威をなくすため、自らのまちを非核兵器地帯であると宣言し、他の自治体にも働きかけたところ、イギリス国内の多くの自治体が賛同しました。その後、この宣言運動は世界に広がりました。日本でも、1980年代からこの非核宣言を行う自治体が増え、2013年現在では約1,500自治体が宣言を行っているということです。

 管内市町村の非核宣言率100%の都道府県は、岩手、宮城、秋田、山形、千葉、神奈川、富山、石川、山梨、三重、大阪、鳥取、広島、山口、徳島、愛媛、福岡、佐賀、長崎、熊本、大分、宮崎の22府県(日本非核宣言自治体協議会調査2013年4月)となっています。


中央通ロータリーの平和の女神像 (提供 澤井余志郎さん)
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(2009年5月記 2013年7月加筆)   

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 四日市空襲殉難碑  (鵜の森公園)

2013-07-28 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

空爆、殺されるな 殺すな 殺させるな 

   四日市空襲殉難碑  (鵜の森公園)

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 1945年6月18日未明、四日市はアメリカ軍の戦略爆撃機B29による空襲を受けました。
 
 これは、東京、大阪、名古屋などの大都市に続く、地方中小都市空襲の最初でした。およそ1時間にわたる爆撃の被害は、死者736名、重軽傷者1,500名、行方不明63名、被災者47,153名といわれています。この後も8回の空襲があり、市街地は廃墟となりました。
 
 鵜の森公園に、犠牲者の慰霊と平和祈念の殉難碑が建立されたのは、1980年でした。以後、毎年6月18日に、碑の前で慰霊の献花式がおこなわれています。


■空爆(空襲)の歴史
 1903年ライト兄弟による飛行機の発明は、戦争に劇的な変化をもたらします。
 
 1911~12年のイタリア・トルコ戦争では、イタリア軍が飛行機から手榴弾を投下するなどの攻撃をおこないました。その後、ヨーロッパ諸国による植民地戦争などで飛行機による攻撃が重視されるようになります。攻撃する側の被害はほとんどなく、最大の効果が上げられることから、その利用は、ますます激しさを増しました。
 
 そして、日本もまた、加害としての空爆の歴史を歩みます。1914年、日本軍は、中国の青島(チンタオ)市街を、海軍機3機で爆撃しました。1937年、日中戦争における日本陸海軍の空爆は、さらに激化し、上海、蘇州、杭州、南京など中国全土の都市に大空襲が敢行されました。 特に、1939年5月の重慶市街地への爆撃では、2日間で死者3991人、負傷者2287人といわれています。その後も重慶への空爆は、1943年8月まで200回以上を数え、その被害は甚大なものでした。
 
 四日市空襲の苦難を思うとき、私たちはまた、重慶の、そしてイラクの、ガザの苦難を思うことができるのではないでしょうか。

(2005年9月記)


 2013年6月18日
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【参考】
『伊勢の海は燃えて 海軍燃料廠と四日市空襲』 第三文明社1978
『四日市にも戦争があった 四日市空襲の記録』 四日市革新懇話会1991
図録『四日市空襲』 四日市市立博物館1995

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山口誓子”星恋”の海

2013-07-21 | 四日市 空と海のものがたり

四日市 空と海のものがたり ② 山口誓子 ”星恋” の海

野尻 抱影との共著『星恋』には、誓子が四日市(富田・天須賀)と鈴鹿(白子)の海辺で作った句が多く収められている。

   露更けし星座ぎっしり死すべからず  1941・9・20 (『星恋』)

肺の病で療養中であった山口誓子が、四日市の柳生夜来に勧められて富田の海に面した別荘地にやってきたのは、1941年9月のことだった。夜来は、「東より太陽を享ける地は健康に最もいい」(『句による自伝』)と富田海岸をすすめたという。

1939年、初航海の“あるぜんちな丸”で神戸・横浜間を往還、途中、四日市で土地の人びとと交流した誓子だったが、翌1940年4月、血痰を見るほど病状が悪化、1941年9月、富田に居を構えた時には安静状態が続いていた。この時の心境を「露の夜更けの星座は一粒一粒磨いたように美しく、それを見てゐると、早く死んでしまつてはならないと思った。」(『句による自伝』)と述べている。それから12年、誓子は伊勢湾の海辺で療養を続けた。

自らの病、戦争、自然災害と生活は平穏なものではなかったが、「昼は伊勢の自然を見て歩き、夜は伊勢湾の天にかがやく星を仰いで、星の俳句を作ってゐた」(『星恋』定本・あとがき)という。

富田へ移ってまもなく1941年12月、太平洋戦争がはじまった。

1942年4月18日、海岸の松林を散策していた誓子は、空に響いた激しい炸裂音を聞く。この時、名古屋、神戸など日本各地が攻撃を受けたが、19日の新聞は「誓つて尊き国土を護れ 備えあれば恐るゝに足らず」という小林防衛総参謀長の談話とともに、「けふ帝都に敵機来襲 九機を撃墜、わが損害軽微」「沈着な隣組の大活躍」(朝日新聞)などと「敵機」を打ち負かしたことを伝えている。

しかし、日本の高射砲によって攻撃され南下する飛行機を目の当たりにした誓子は、戦争への強い不安を感じるようになった。そして、毎日、日が傾くと近くを歩き、句を作った。「戦争の中にあつて孤独で、病気に閉ぢ込められてゐたから、自分が生きてゐることが不確かでならなかった」(『自叙伝』)という誓子は、「自分の生を確かめるため」句を作り続けた。

戦争状態は悪化していった。

    
 戦局は次第に不利になつて在郷軍人の範囲が拡げられた。私は、徴兵検査は近視のため丙種合格で、在郷軍人ではなかったが、丙種合格といへども在郷軍人会に入らねばならぬことになつた。私の病名は、診断書には「陳旧性肋膜炎」と記されてゐた。富田浜病院の安東女医が書いて呉れたのであつたが、その診断書は在郷軍人会に対しては無に等しかつた。私は訓練に参加するように命ぜられた。 (『自叙伝』)

誓子は分会長に病状を訴え、結局は訓練を免除されるのだが、以後、外出は控えるようになった。
この時、誓子のために診断書を書いた安東美沢医師が勤務していた富田浜病院は、1918(大正7)年、緑仙堂石田医院として開業。1923年には、病棟を拡充して富田浜病院と改名、長く結核の治療に力を注いできた。開業当時の新聞折込チラシに見える「サナトリアム」の文字が示すように、自然豊かな沿岸の療養施設であった。夫と共に富田浜病院の開設に携わった医師の石田マサヲは、当時の様子を次のように語っている。


 病院の施設や病室の装備にもまして、療養者にとって最大の関心事は、病院をとりまく周囲の自然環境である。この点もまた富田浜病院は最も恵まれているといえる。東海地方で最も綺麗な海水浴場として知られている富田浜が前面にひろがっているのだから、理想的な療養地である。
 病院の東側一帯は、波打際まで三百メートルもある白い砂浜で、そこに昔からの松林が風に揺られて天然の音楽をかなでている。砂浜は長さ1キロで、海の彼方には遠く知多半島や伊勢の朝熊山が霞んで見える。右手には四日市港の防波堤が延び、左手には天ヶ須賀・川越の松林に覆われてた浜州が見え、海には漁船が浮かんでいる。
昔から別荘地帯として知られているだけに、閑静で、冬は暖かく夏は涼しく、交通も便利であり、周辺が純農村地帯に囲まれている立地条件から見ても、富田浜病院は療養上の理想的な適地にあると言っても過言ではない。(石田マサヲ『医政相通』)

自然豊かな地で長期滞在していた人びとを、土地の人は「潮とり(汐湯治)さん」と呼んだ。

1945年6月18日、誓子は、四日市の市街地と南部の海軍燃料廠を焼き尽くした空襲を、遠くから目撃している。夜、空襲警報が解除され皆が眠りに入った後、激しい発動機の音に驚いて起きた。「暗い上空からは、焼夷弾がしきりに下降して空中でほぐれ、四日市を焼きつゞけた。」(『句による自伝』)という。

   星天(せいてん)を夜干の梅になほ祈る  1945・8・6 伊勢富田 (『星恋』)
   オリオンが出て大いなる晩夏かな 1945・8・10 伊勢富田 

1945年の夏を、誓子は四日市の富田の海で迎えた。

   星一つ焚く火の上に鰯引(いわしびき)  1945・9・6 伊勢富田
   星などの高さに夜の鰯雲  1945・10・13 伊勢富田

1946年6月には富田の北の天ケ須賀に移り、更に1948年10月には鈴鹿市白子鼓ケ浦に転居した。天ケ須賀では「海岸沿ひに別荘が並んでゐて、その内側に漁師の町」があり、季節ごとに、海苔やひしこ鰯を乾燥させる漁師たちの姿をながめて暮らした。(「方言」『天狼』1953年8月)

しかし、穏やかな海の暮らしは続かなかった。

1953年9月25日の台風で、誓子は白子の自宅を捨てて避難せざるを得なくなり、多くの蔵書を失っている。台風が通り過ぎた夜半過ぎ、誓子は自宅に戻った時のことを、次のように記した。

  外はすごい月夜で、潮は遠くまで退いてゐた。直ぐ眼の前に大犬座のシリウスがきらきらかがやき、その上にオリオン星座が勿体ないくらゐ美しく見えた。それ等の美しい星座を見たとき、私は台風に生命を脅かされたことをうち忘れ、自分の家がどんなにひどい被害を受けてゐても、堪へられると思つた。事実、鎖して置いた雨戸が一枚もない自分の家に踏み入つて、高浪の荒らし去つたあとを見たとき、私は自らを失はなかった。星座のひかりはしづかに強く私を励ましたのである。(「序に代えて 二つの星夜」『星恋』新版 1954年)

直後、誓子は白子を離れ西宮へと移った。

戦後、四日市の都市計画に携わった石川榮耀は、1955年、四日市の海について、南は工業地帯、北は現存する砂浜を残した観光地帯とするよう提言している。沿岸部の都市計画について、工業地帯と自然環境とのバランスがとれた開発が重要と考えていた石川は、四日市北部の海辺について次のように語った。


  四日市の水際の美しさは、今日富田浜しかございません。私は名古屋の県庁に14年おつたのでございますが、われわれは常に富田浜というところを高嶺の花のごとく楽しい場所に考えておつたのであります。あれをお埋めになることも、あるいはかまうことはないかと思いますが、しかしこれは今日の計算には入れておきたくない。これは港湾に対して、あるいはその他に対する私の考えに誤りがあるかとも思います。これは皆さんのご批判もありましょう。しかし私は、都市は住むところであるという意味において、桑名に対する、また名古屋に対する対策として富田浜は譲れません。これは白浜青松の場所として御保存になるべき場所でございます。(『四日市市総合都市計画の構想』)

誓子が去った後も、伊勢の海は、しばしば災害に見舞われた。特に、1959年の伊勢湾台風では、四日市の海辺も壊滅的な打撃を受けた。

崩壊した別荘地は再建されることはなかった。

<参考>
「句による自伝」山口誓子全集5巻
「自叙伝」山口誓子全集5巻
「方言」(『天狼』1953年)山口誓子全集9巻
『定本 星恋』野尻抱影 山口誓子1986 深夜叢書社 
『星恋』の初出版は1946年、鎌倉書房。その後1954年に中央公論から新版、1986年には深夜叢書社から『定本 星恋』が出た。
『医政相通』石田マサヲ 1978
『四日市市総合都市計画の構想』 
    早稲田大学大学院 都市計画室 工学博士 石川榮耀氏口述 1955

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玉井清太郎と円谷英二

2013-07-21 | 四日市 空と海のものがたり

四日市 空と海のものがたり① 玉井清太郎と円谷英二


玉井清太郎(1892~1917)は、四日市市浜田に生まれた飛行家である。

家業は木工業であったが、子どもの頃から飛行機に興味を持ち、1910(明治43)年、浜田小学校の校庭で試作飛行機を組み立てた。稲垣足穂(註1)によると、特許局に飛行機の発明の願出が相次いだのは1911年で、清太郎も申請したという。飛行機用のエンジンを入手するため、父常太郎と共に上京し、日野熊蔵を訪ねている。また、弟の藤一郎も各地の飛行家たちと交流していた。

1916(大正5)年8月5日、玉井清太郎が公開飛行の場所に選んだのは、四日市の午起(うまおこし)海岸であった。しかし、この日、玉井の国産水上飛行機「日本号」は、エンジンの不調などで飛行に失敗した。2万人の観衆が集まったという。

四日市の海に、市民のための海水浴場が整備されるようになったのは、明治30年代のことと考えられている。富田浜、天ケ須賀、霞ケ浦、午起などに海水浴場が設けられ夏になると関西鉄道の臨時駅が開設された。市内はもちろん、遠くからも海水浴客が訪れ、小学生の海浜学校も開かれた。四日市の海は、海水浴でにぎわっていたのである。

四日市での飛行に失敗した清太郎は、同年10月、東京・羽田の海岸に飛行学校を開校。訓練生を募り、資金を集めながら、1917年5月には3人乗り飛行機を完成させた。そして5月20日公開飛行の日、東京日日新聞のカメラマンを同乗させて羽田を飛び立った玉井は、快調に東京上空を旋回する。東京新橋の民家の上を遠くに飛ぶ飛行機や、上空から手を振るカメラマンの様子をとらえた写真が残されている。自信作であったであろう玉井3号復葉飛行機は好調だった。写真には「玉井氏、グラハムホワイトを操縦し帝都訪問」とある。

しかし、3回飛行し芝浦に着陸の寸前、主翼の損傷により上空50メートルから墜落、玉井、カメラマン共に亡くなった。玉井は24歳だった。

飛行学校は一時閉鎖されたが、1919(大正8)年、弟の藤一郎が四日市で飛行を成功させた。この時飛んだ飛行機は「青鳥号」と呼ばれ、四日市市立博物館に八分の一の模型が展示されている。

玉井清太郎が飛行学校の講師として活動したのは1年にも満たなかったが、この時羽田の飛行学校に入校したのが、16歳の円谷英二少年であった。

円谷は幼い頃からの飛行機へのあこがれを、そして、飛行学校の思い出をくりかえし語った。


 「趣味は何ですか?」
  と問われた時、私はいつでも、
 「ヒコーキです」と即座に答える。
 たいてい、質問をした相手は、髪うすい、しわの深い私の顔を見て、ためらいがちに問い返す。「乗る方ですか?造る方ですか?」
 「両方です」
 乗る方は、今でも暇さえあれば、操縦桿を握るが、造るというのは云うまでもなく、今流行のプラモデルを孫達を相手に組立てたり、仕事に使うミニチュアのヒコーキを造ることである。しかし、私の答えは、いつも子供じみた印象を相手に与えるらしい。
 模型とか、玩具は、典型的な子供の領分であるが、ふり返ってみると、私の半生はその子供の領分の中で展開し、人生の方向が決定づけられたという気がする。有体にいうなら、私は少年時代に抱いた夢や憧れの世界から遂に一歩も外に出ることの出来なかった人間なのだ。
  
  (中略)

 小学校六年の時、「将来の希望」という作文を書かされて、自分で造ったヒコーキで、世界一周をするという夢物語を書いたら、「お前は山師になるつもりか」と先生からえらく叱られた。

  (中略)

 大正五年に、本物の飛行士を志して上京した。
ところが、その飛行学校にはおんぼろ飛行機一機しかないし、校舎もなく、先生も一人、研究費、実験費と、飛ばない飛行機造りに月謝を投入しているうちに、学校は閉鎖されて、ろくに操縦も出来ないまま、両親からもらって来た金もスッテンテン、寒空に放り出されてしまった。

        (「ゴジラも玩具」『オール読物』1966年2月号) 

 

四日市市立図書館には、玉井清太郎の家族から寄贈された当時の資料が残されている。その中には、1916年、玉井2号機の前で玉井講師と共に9人の練習生たちが並ぶ写真もある。この中に円谷少年がいるのだろうか。どの練習生も、おそらく十代だろうと思わせるあどけなさである。

円谷は、清太郎が墜落死したことで、飛行機を安全に飛ばせるためには物理や数学の知識が必要と痛感(註2)し、東京工科学校に入学した。学びながら玩具会社や活動写真の仕事にも携わった。

戦前の東宝時代には陸軍飛行学校と共に“飛行理論”(1939年)などの教材映画を製作している。そして、軍の強い協力で製作された“ハワイ・マレー沖海戦”(1942年)は、特殊撮影技術が注目された「記念すべき作品」であった。円谷は「それまで冷淡であった邦画各社が、初めて特殊技術の存在をあらためて刮目(かつもく)して来たのである」と述べている(註3)

一方、昭和を迎えた四日市の海も、大きな変貌をとげる。
港が整備され、工場誘致が進められた。1938年国家総動員法の公布後は、臨海工業地帯も急速に戦時体制へと移行し、1939年、四日市南部の塩浜に第二海軍燃料廠の建設が進められた。
午起海岸には、1942(昭和17)年、浦賀船渠株式会社の造船所が建設された。

そして、1945年6月、四日市はB29の攻撃に遭う。6月18日から始まった空襲は、まず市街地を焼き払い、次いで海軍燃料廠も壊滅的な打撃を受けた。玉井清太郎が学び、初めて自作飛行機を組み立てた浜田小学校、そして玉井機のプロペラが寄贈された市立図書館も焼失した。海軍は沿岸部だけでなく、山中にロケット推進戦闘機「秋水」の燃料製造工場を建設していたが、完成することなく敗戦を迎えた。

午起海岸で玉井の「日本号」が話題を集めた1916年から、およそ半世紀後、四日市の海と空は、全国の耳目を集めることとなる。

旧海軍燃料廠跡地は、1955年の閣議決定で、昭和石油に払い下げ、三菱・シェルグループによる石油化学コンビナートと連繋されることとなった。1958年、昭和四日市石油四日市製油所操業開始。1959年、第1コンビナート本格稼動。1960年、四日市海域で獲れる油臭い魚が問題となる。

影響は人間にも及んだ。1961年、ぜんそく患者の集団発生が問題となり、コンビナート周辺で被害が拡大する。地元が反対する中で、午起海岸も埋め立てが完了、1963年には第2コンビナートが稼動を始めた。

そして1964年、四日市の海に“ゴジラ”が現れた(註4)。「建設」は「破壊」であった。破壊と建設を繰り返した四日市の海で、ゴジラが咆哮する。

4月2日朝、コンビナートの従業員であった市民が肺気腫で亡くなった。

3月30日より4月1日にかけて、四日市全域はスモッグに覆われ、市役所に苦情が殺到。3月31日午後のSO2濃度は1ppmを超えた(註5)。激しい大気汚染の中、入院中のぜんそく患者の病状が急激に悪化する。病理解剖もおこなわれ典型的なスモッグ死として報告された。四日市公害との関連が明らかになった最初の犠牲者であった。

<註>
1 稲垣足穂『ヒコーキ野郎たち』)
2 円谷英二「私と数学」『数学セミナー』1969年5月号
3 円谷英二「トリック映画今昔談 特殊撮影技師として歩いた四十年」『中央公論』)1958年10月。
4 『モスラ対ゴジラ』1964年4月29日封切
5 二酸化硫黄(SO2 又は亜硫酸ガスともいう)の環境基準値は、1973年に「1時間値の1日平均値が0.04ppm以下であり、かつ、1時間値が0.1ppm以下であること」と定められた。

<参考>
●市立図書館蔵 玉井清太郎関連資料 
  写真 
明治43年8月 試作飛行機完成(浜田小)
  大正5年8月 午起海岸で玉井式水上飛行機公開
  大正5年10月 羽田飛行場での記念撮影
  大正6年5月20日 3号機前での記念撮影
            東京新橋上空を飛行
            着陸寸前墜落(現場)
  図面
  水上飛行機日本号玉井清太郎(作)50分の1    
   
●『四日市市史 通史編 近代』 四日市市 
●『わたしたちの郷土 のびゆく四日市 小学校3・4年生用』 四日市市教育委員会
●『定本円谷英二随筆評論集成』2010年 ワイズ出版

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いのりむしについて

2013-07-21 | いのりむしについて

■お問い合わせ先

inorimusi♪swan.ocn.ne.jp

 お手数をおかけしますが、♪を、@に代えていただきますようお願いします。


■いのりむし斧舎

http://www9.ocn.ne.jp/~mantodea/6101.html

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電気アレルギー

2013-07-21 | 電気アレルギー

Dennkirogo

 「電気」に反応するアレルギーなんて、あるのかどうかわからないが、こうしてキーボードを打ったりマウスに触れるだけでも刺激を感じている。
 
 最初は、PCで作業を続けると、マウスを握る手がむくむようになった。マウスは何種類も変えたが、効果は無かった。スクロールボタンを動かす指先に、チリチリした刺激を感じて、作業を続けると火傷のようなピリピリした痛みがいつまでも残るようにもなった。

 やがて右手首に捻挫のような痛みを感じ、さらに、手だけではなくあちこちが痛くなり、PCだけではなく電灯のスイッチに触るだけで痛くなった。

 もちろん整形外科は受診した。しかし、手根管症候群など整形外科の症状ではなかった。内科、婦人科、神経科、精神科でも原因はわからなかった。

 電磁波や静電気の影響も考えたが、電気製品に近付いただけでは反応しない、防水加工した電気製品は問題ない、冬、梅雨など季節に関係なく起きるなどの理由から、可能性は低いと考えた。

 最も症状がひどかった1年半、様々なことを試したが、刺激を感じる電気製品には触れないという以外に効果のあった対策は無かった。
 
 症状のピークが、不眠やホットフラッシュという更年期の症状のピークとほぼ一致していたので、おそらくは、自律神経の乱れが要因のひとつではないかと、私は考えている。元々持っていた「電気」に対して不快な反応を感じる体質が、ホルモンバランスの変化など体調が悪化した時に、過剰に反応していたのではないだろうか。

 今のところ症状が無くなったわけではないが、一時期ひどかった「苦痛」から、作業が続けられる程度の「不快」に軽減している。

 また、電気製品の中でも、洗濯機、炊飯器などのタッチパネルには触れても問題なかった。おそらく防水加工されているからではないかと思う。

 周囲の反応は、「ありえない」と一笑する人、「電気にアレルギーなんて聞いたことはないが、そういう人もいるかもしれない」と理解を示してくれる人など、さまざまだったが、少数ながらも「電気」に不快な刺激を感じるという人もいた。

 何にアレルギー反応を示すかは、人によって異なる。花粉症も、最初はごく少数派だった。「電気」でアレルギーなんて、私自身信じたくはないが、もし同じ症状を訴える患者が2人、3人と現れたら、医師や技術者も「これは何かあるのだろうか」と、考えてくれるかもしれない。
 
 だから、自分の体験を伝えたい。

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忠勇義烈之碑  山城 桜神社

2013-07-20 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

忠勇義烈之碑

20p1460834

20p1460832   

第三師団長陸軍中将 従三位勲一等功二級 大久保春野書

(2013年5月14日撮影)

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泊村戦没者碑 泊村公会所横

2013-07-17 | 四日市市内の戦争慰霊碑(データ)

泊村戦没者碑 1954年10月 区民一同

20p1110288

20p1110290 

表には「泊村戦没者碑」とあり、その下に太平洋戦争の戦死者21名の名前が記されています。戦死者の亡くなった年月日、場所などは『日永郷土史』(日永郷土史研究会 平成元年)に掲載されています。

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