不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

2011年 前半

2014-11-23 | 2011年
●3月6日 貨物鉄道博物館を遊ぼう

 貨物鉄道博物館(いなべ市)の月に一度の開館日。3月は「貨物鉄道博物館を遊ぼう」のイベント。
 13:17、 三岐線富田駅出発。四日市案内人協会による周辺解説を聞きながら、30分ほどで丹生川駅着。
貨車クイズラリー 、お子様用ミニ列車運行、貨車と積荷のイラスト展示 、DVD「貨物鉄道輸送と四日市」上映など。低価格設定(200円)で100枚用意されたDVDは早々に完売。子どもたちも多く、貨車の上で記念撮影。









【2011年2月】

●海軍燃料廠の払い下げ

   2月28日「四日市再生」公害市民塾例会
   四日市公害を考える勉強会②「海軍燃料廠について」

 四日市における石油コンビナートのはじまりは、旧海軍燃料廠の広大な跡地を利用して操業された「昭和四日市石油」である。

 四日市公害を考える勉強会の第2回は、海軍燃料廠の建設、空襲、敗戦、跡地利用の経緯。

 1938年、燃料供給の不足を補うための新たな燃料廠の建設地が塩浜に決定されたのは、その海が水深12メートルであったからだという。同年11月の用地買収開始から3ヵ月で買収を完了。当時の住民にとって、「協力」以外の選択はなかったであろう。1年以内の全戸移転となった。
 
 戦後、残されていた使用可能な石油精製施設、広大な敷地、整備された港湾という好条件に、跡地利用をめぐって多くの企業が払い下げを希望。しかし政府の方針決定が遅れたこともあり、交渉は難航。3ヵ所の燃料廠の内、徳山の26万坪、岩国の20万坪と比べて、四日市の65万坪は格段の広さであった。
 
 (*日本の石油化学工業の発展に大きな影響を及ぼした四日市の燃料廠の払い下げについては、平井岳哉「四日市旧海軍燃料廠の払い下げ過程について」がくわしい。)

 結局、1957年に至り、払い下げの許可を得たのは昭和石油であった。昭和石油と三菱グループの合弁で「昭和四日市石油」を設立、1959年5月、操業が開始された。

 さて、今も残る通称「海軍道路」は、沿岸部の海軍燃料廠と泊山の「山の工場」を結ぶ軍用道路であった。戦後開発が進んだ泊山周辺では、「山の工場」貯蔵庫跡など、昔の姿を知ることができる場所がわずかに残されている程度だが、山に向かう途中にある白髭神社周辺の変遷には関心を持ってきた。

 今回の講座で、白髭神社に残されている碑の揮毫が別府良三(海軍第二燃料廠長)であることを知る。戦後、公職追放解除後の別府は昭和石油の常務であったという。
 
 また現在、神社の周囲には県の施設や変電所、中電の社宅や三菱化学の寮があるが、戦後この辺りにCIEがあったとの話も出た。CIE(民間情報教育局)は、1946年、軍国主義教育の一掃と新教育の普及のため三重軍政部内に設置されたというが、そのCIEのことだろうか。しばらく泊山・白髭神社周辺に注目したいと思う。

●マンサク



2月27日 松阪市内

●2月27日 第16回 松浦武四郎まつり
 毎年2月最終日曜日に、松浦武四郎記念館の中庭で開催されている武四郎まつり。今年は静内民族文化保存会がアイヌ古式舞踊を披露。また、地元の中学生の吹奏楽演奏や小学生の群読と寸劇などの発表もあった。
 まつりに合わせて公開されている武四郎の生家まで10分足らず。民家に掲げられた屋号の看板を見ながら歩く。生家前で手づくりのあられを煎り、お茶を振舞ってくださった地元に人びとに、心からありがとうを言う。

   心せよ えみしも同じ 人にして この国民の 数ならぬかは

 これは、1864年に刊行された『西蝦夷日誌 四編』におさめられている武四郎の作。








●2月20日 貨物鉄道博物館ボランティア養成講座 

 貨物鉄道博物館ボランティア養成講座 最終回
   「貨物列車はなぜ姿を消したのか」 
     講師:三岐鉄道会長 日比義也氏
     2月20日(日) 四日市大学
     問い合わせ先 市民社会研究所

 2003年開館の貨物鉄道博物館(いなべ市)をさらに活用させるため、企画を委託された市民社会研究所のボランティア養成講座。最終回は貨物列車の歴史について。

 三岐鉄道の丹生川駅前にある貨物鉄道博物館は、一般からの寄付とボランティアによって運営されており、保存されている貨車も、必ずしも三岐鉄道で走っていたものではない。
 
 では、なぜ丹生川駅構内なのか。日比氏の説明によると、
   ①失われていく貨車の保存に熱心な市民がいた。
   ②丹生川駅は昔の貨物取り扱い駅で、貨物ホームや上屋が残されていた。
   ③三岐鉄道では今も貨物列車が走っている。特にセメント輸送では全国でもここだけとのこと。
 そうした諸条件がそろって、貨物輸送130周年の2003年に、この地に博物館が誕生した。

 しかし、ボランティアの運営では、開館日は月に一度の日曜日のみというのが現状。まずは、子どもの教育施設として、社会見学などでの活用をめざすという。沿線には、太平洋セメントの藤原工場、そして藤原岳。

 帰路、立ち寄った三岐鉄道の暁学園前駅を疾走する貨車。
 そして、切符は昔ながらの紙製。駅員さんが鋏を入れてくれる。






●「なつかしい暮らし」展

 四日市市立博物館 「なつかしい暮らし」   
 1月29日(土)~3月16日(水)

 小学生の学習支援として、このところ毎年開催されている企画展。これまで昭和30年代の生活を中心に館収蔵品などで紹介している。

 昭和30年代といえば「なつかしい」が定番の形容になっているかのようだが、今年のタイトルは、そのものずばり「なつかしい暮らし」。

 しかし、今どきの小学生にとって、昭和30年代が「なつかしい」はずもなく、親や祖父母世代への秋波か? はたまた担当者がそういう年代なのか? などと思いつつ会場へ。
 
 今年は、親だけでなく祖父母へのサービスも行き届き、昭和30年代だけではなく、昭和10年代も対象の展示構成。当然、戦中の暮らしに関するコーナーもある。単に「なつかしい」だけではない歴史の一面への「配慮」かもしれないが、だったら「なつかしい」などとくくらなければいいじゃないかと思う。

 「なつかしい」の連呼に、今では死語のはず(?)の「博物館行き」ということばを思い出した。親しまれる企画を模索する博物館が発する「なつかしい」とは、「博物館行き」のキャッチコピーな言い換えかしらと、ひとりごつ。

●2月5日 黒人映画講座・TOKUZO(名古屋)

「BLACK MOVIES joint」chapter-1
■案内人:小川真一(音楽評論家)森田裕(TOKUZO)
■スペシャルゲスト:柳下毅一郎(映画評論家)

 名古屋黒人映画愛好会の立ち上げとなる第一回の講座。
 概論の前半となる今回は、1910年代から70年代まで。
 黒人映画大好きな森田氏の企画構成力と準備された資料、柳下氏のオスカー・ミショーの興行師的人物解説などで楽しめる入門編でした。

【2011年1月】

●姫路の皮革産業

 第25回人権啓発研究集会のワークショップ「姫路・皮革産業の歴史をたどる」( 1月28日)で、姫路市高木地区・御着地区を行く。

 日本の皮革産業の歴史は、被差別の歴史と重なる部分が非常に大きい。しかしそれでも、どこから眺めるかによって見えるものも違ってくるのは当然のこと。

 作業時の臭い、重労働、賤視、伝統の技術、地場産業、大量生産への転換、後継者不足、付加価値のある製品開発、ブランド力、ファッション、外国人労働者(特にベトナム人)の増加‥

 「産業」というくくりでは語りきれない、只今の皮革産業である。

●コードバン
 馬革専門の新喜皮革で、コードバンの製造を見学する。

 コードバンは、馬の尻の特に繊維密度が高い部分を特別な技法で仕上げた革で、世界でも製造しているのは2社のみといわれる。

 一般に革は、皮の外側を利用するように加工されるが、コードバンの場合は、なめした皮の内側を磨き上げて仕上げる。皮の良質な部分を時間をかけてなめし、加工することで、独特の光沢のある革となり、靴、カバン、ベルト、財布などデザイン性・ファッション性の高い製品に使われている。

 新喜皮革では、原料の馬皮のほとんどが輸入。コードバンを安定的に生産するため、馬肉を食する習慣のあるヨーロッパから馬皮を入手しているという。
 皮革産業は、食用家畜の副産物で成り立っているのだということが強調されていた。





●西御着総合センター皮革資料室
 総合センターのリーフレットによるとセンターの設立は1979年だが、皮革資料室が開設されたのは2005年。隣保館モデル事業として国庫補助を受けている。

 特別対策としての同和対策事業が終了(2002年)し、当該地区での皮革産業も盛況を過ぎた頃に、隣保館モデルとして開設された。だからという訳でもないだろうが、ここに展示されているのは「過去」である。



●猫も大好きなストーブ
 寒い日が続く。
 犬山では、ヤクニホンザルは焚火、ワオキツネザルはストーブに寄ってくるが、巷の猫もストーブは大好きなのである。



●蜜柑とお茶
 昨年から今年にかけて訪れた地域で、こもごもに地場産業の低迷、後継者不足の声を聞いた。
 石油コンビナートで全国的に有名なこの町にも、南には蜜柑農家があり、山麓には茶畑が広がっている。
 けれどもここでも栽培農家のほとんどが高齢化している。しかも、最近お茶(緑茶)を飲む人が少なくなり、お茶が売れないのだそうだ。
 そういえば、出先でペットボトルのお茶を勧められた時に、冗談半分に「お茶にはこだわっているので」とお断りしたら驚かれ、「どこのメーカーがいいんですか?」と聞かれた。いやいや、そうではなくて、と説明しなければならないのは悲しい。
 緑茶は美味しい。寒い季節はぬるめのお湯、暑い季節は水で丁寧に淹れた緑茶は美味しい。

●2011年元旦 名古屋オケラ公園(西柳公園)

 

 今年もオケラ公園に小屋が建った。(2010年12月28日~2011年1月4日)

 名古屋で、野宿する日雇労働者への炊き出し活動が始まったのは、1976年1月。当初は、おにぎりと味噌汁を配って回っていた。開始から今日まで、炊き出しを担ってきたのはキリスト者たちと市民たち。

 仕事がなくなり寒さも厳しい年末年始、オケラ公園に小屋を建てるようになったのは1980年1月。緊急避難所として有志によって建設・運営された。やがて日雇労働者組合が結成され、拠点となる笹島労働者会館も設立された。

 この30年、周辺は大きく変わったが、この公園の年末年始の風景は、そのままだった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2011年 後半

2014-01-02 | 2011年

【2011年7月】

7月9日 虫送り(四日市市富田地区)   2011・7・11
 「害虫」という言葉がまだ無かった時代に、農作物が豊かに実るように、虫たちの退散を願って行われたのが虫送りである。

 かつては農村のあちこちで見られた年中行事のひとつだったが、四日市市内各地では、大正から昭和初期頃、相次いで廃止されたらしい。富田地区でも長らく途絶えていたが、3年前に55年ぶりに地域の行事として復活させた。

 農作物に被害をもたらす「害虫」には、今では農薬の使用が当たり前になっている。江戸時代でも大蔵永常が『除蝗録』を著し、鯨油を用いた駆除法を紹介するなど、虫対策の研究はあった。

 しかし、江戸時代はもちろん明治に入ってからもしばらくの間、技術的にも、意識の上でも、農家の人々にとって、虫の存在は人間の力で解決できるものではなく、天災だった。そして、収穫のためとはいえ、虫など生類の命を奪うことを悲しむ心根をも抱いていた。

 鉦を先頭に、燃える松明を持った人々が畦道を進むと、辺りは打ち鳴らされた鉦の音と火と、煙幕で騒然となった。虫送りは、豊作への祈りの込めた村の大切な行事だったのだろう。

Musisyuppatuimage2_2
地区内の3神社(北村若宮八幡神社・茂福神社・伊賀留我神社)から、
集合場所の霊園に向かって出発。

Musitaimatuimage5_2
重い、熱い。松明を抱えて畦道を行く。辺り一面に煙が広がる。

Musiukonnbiimage6_2
背後に見えるのは、コンビナート。

Musihouyouimage7_2
3ヵ所の参加者が合流し、地区内仏教会の住職による法要が始まった。

藤原岳自然科学館 展示棟の移転   2011・7・9
 県が所有する建物の耐震性が問題となっていた展示棟が、いよいよ、1km以上離れた文化センターに移転する。オープンは来年春頃らしい。

 今年3月にこの科学館を訪れた時、一部の手作り感のある展示に興味がわき、博物館の成り立ちを質問したのだが、個人のコレクションを集めたということ以外に特に情報は得られなかった。
 ところが最近、思いがけないところで、開館当初の関係者の声に接することができた。

 1974年に名古屋で開催された社会教育研究全国大会で、地元の人々の手作りで支えられた藤原岳自然科学館設立の経緯が報告されたという。「お金がなければ展示ができない、業者が地方にはいないなどという泣声はどこにもきこえません。自然保護への主張が人々の心をとらえ、藤原岳へこれから登る人、また下山してきた人たちに実に多くを語りかけます。」(「博物館へどうぞ48 藤原岳自然科学館 手作りの展示」日本モンキーセンター学芸員 広瀬鎮 『モンキー』141号 1975)
 
 藤原岳のビジターセンターであればこその科学館。電車で藤原岳を訪れた人が新たな展示施設まで歩いて行くのは、ちょっと遠い。マイカーの人は寄ってくれるのかなあ。地元の人には便利なのかなあ。

Huziwaraimage4

海から、コンビナートから、1kmちょっと   2011・7・8
 危機管理室のある市役所から、海、そしてコンビナートまでは1kmちょっとである。
 結構近い、と思う。

Siyakusyuimage2

猫もいろいろ  2011・7・7

Naninekoimage1
何?

Surinekoimage3
スリッパ大好き

【2011年6月】

カラー    2011・6・23

Karaimage1
オキーフの好きなカラーリリー  6月の暑い日に

図書館資料は重い  2011・6・12

Tosyokagoimage2
ありそうで無かった図書館風景 あったらいいなと思ってました。

三重県知事 新県立博物館建設の見直し  2011・6・6
 就任後、全ての事業をゼロから見直すとし、現在建設中の県立博物館についても検討していた新知事が、6月3日県議会全員協議会において、新たな条件を示して整備を進めることを明らかにした。6月4日の朝刊地方版で各紙が伝えたが、その書きっぷりに、いかにも各社の嗜好(思考?志向?)が表れていた。

 まず、毎日は、鈴木知事の説明から「県民にとって新博物館が必要」「三重の自然や歴史、文化に関する資産を守る責務が県にある」を引き、建設推進の前提となる条件を7点、詳述している。
 ①年間運営費の県費負担を2割程度削減 
 ②収入増のため広報強化 
 ③外部有識者による委員会で経営評価
 ④民間参画で経営基盤確立
 ⑤現博物館の今後の扱いには県費負担しない
 ⑥自然エネルギーの活用拡大
 ⑦金銭価値では示せない社会への影響や効果を明示し、評価と改善の仕組みを作る

 対して、読売が知事の発言で注目したのは、「新博物館が今後の三重にとって、アイデンティティー(自己認識)の創造と継承、子どもたちの成長、県民が生きていく上での心の支えにとって大きな役割を果たす」「三重の持つすごさ」「県民の誇りの醸成につながる博物館にしたい」である。
 そして、一部展示における協賛企業の獲得、ネーミングライツ(命名権)の売却といった民間資金の活用検討を挙げた。

 一方、朝日が取り上げたのは、「三重の子どもたちの成長に大きな役割を果たす」「新たな豊かさのモデルとなる潜在的可能性がある」という部分。

 三紙をながめると、読売の暑苦しさが際立っているが、それは知事もまた同様か。
 「アイデンティティー」だの、「生きていく上での心の支え」だの、「三重の持つすごさ」だの、「誇りの醸成」だのと並べられては、博物館も息苦しかろう。これだけ言い立てなければならない御時世なのだろうか。

【2011年5月】
広告な動物    2011・5・28
■その1 ウマ
 5月29日は日本ダービーだそうで、28日土曜日の朝刊に全面広告が掲載された。それが驚いたことに、各紙それぞれ内容が異なるという贅沢さ。
 朝日新聞のそれは文学、毎日新聞では絵画、読売新聞では数字をテーマに、競馬の魅力を広告している。

 朝日新聞
 「文豪たちが愛した競馬に また今年も 特別な日がやってくる。」「日本ダービー、いよいよ明日。」
 取り上げられたのは、夏目漱石の日記とアーネスト・ヘミングウェイの小説
 
 毎日新聞は
 「第78回日本ダービー記念特別企画 競馬の魅了された芸術家たち」
 取り上げられたのは、エドゥアール・マネと武者小路実篤
 
 読売新聞
 「明日は日本ダービー」「数字で見る競馬」
 取り上げられたのは、196,517人、1932年、7458頭分の1、2分23秒3

■その2 ワオキツネザル
 そして、同じく28日の朝日新聞によると、6月から、名古屋トヨペットが、今春日本モンキーセンターで生まれたワオキツネザルの命名権が抽選で当たるキャンペーンを始めるとのこと。
 ワオキツネザルといえば、同園で、ぬいぐるみの売り上げが一番人気とか。私も思わず連れてきちゃいました。

Waokituneimage2

虫供養塔    2011・5・26
 人と動物の関係を考える時、対象とする動物の範囲をどう捉えるかは重要なポイントである。
 
 一部で混迷を深める「鯨問題」を引くまでもなく、人以外の生き物を、どのような指標で線引きするかという点に、その人の動物に対する態度があらわれてくる。
 
 虫を見つけると殺虫剤でシュッという行動に躊躇がない現代人(私は、あれは苦手である)には無縁かもしれないが、一昔前まで、農村の生活と共にあったのが虫供養である。
 
 四日市市馳出町の浄土宗円明山金剛寺に残されている虫供養塔は、一部再建された部分も含まれているものの建立は江戸時代と推定され、当時の虫供養の様子を伝えている。

 「南無阿弥陀佛 徳住」「虫供養」「禽獣龍蛇魚貝虫 羽毛鱗甲四類雑」「念仏講中」と刻まれている。

Konngoumusiimage1

【2011年4月】

神宮農業館    2011・4・23

Nougyoukannimage1
 「日本最古の産業博物館」といわれる神宮農業館だが、第1室の入り口には「天皇の農業」と「皇后の養蚕」のコーナー、第2室の最初には田中芳男等編集の『有用植物図説』という展示構成が、この博物館がどういう場所かをよく示している。
 「天照大御神と豊受大御神の御神徳を広め、『自然の産物がいかに役立つか』をテーマにした農業館」(図録『神宮の博物館』)なのである。現在の農業館は、神宮と産業の「博物館」に、創設時に協力した田中芳男コレクションのごく一部が紹介されている。

 1891(明治24)年に神苑会によって外宮前に創設。1905(明治38)年に現在地に移設され、1911(明治44)年に神宮に移管された。老朽化により1989(平成元)年に解体された後、1996(平成8)年に、その一部を縮小し復元された。

 そして言う。 「百年余の推移で時世に適応しない資料が多くなっているといえども、明治時代の殖産興業をめざす『博物館の博物館』という目でご覧いただきたい」と。
 つまり‥今日からみると、いかにも博物館行の古くさい資料ばっかりだけど、これはどれもが歴史的には貴重な伝統ある博物館のコレクションなのだから、心して見てね‥ということですね。

 しかし、たとえば館内の配置がわかる『農業館案内』(明治42年発行)がケースの中に陳列されているのだが、印刷状態がよくない上に字が細かいので、たいそう読みにくい。せっかく日本初の産業館の様子を知ることができる資料なのだから、パネルにするとか、読みやすい高さに置くとか、せめて内容がわかるようにすることは、さほど難しいとは思えない。
 
 また、この明治42年発行の『農業館案内』を「開館当初に作られたパンフレット、昔はこのような展示でした」と説明しているが、それは現在地に移設後の農業館(明治38年落成)のことではないのか。気になって調べてみると、1900(明治33)年発行の神苑会『農業館列品目録』(国立国会図書館近代ライブラリー)で知ることができる農業館とその付属館の姿は、1905(明治38)年落成のそれとは異なる。
 
 現在の農業館からみれば、1909(明治42)年のパンフレットが開館当初というのは誤りということではないかもしれない。けれども「日本最古の産業博物館」として「博物館の博物館」であると自らを語るのであるなら、こういう資料を丁寧に見せる工夫の方が大切なことではないかと思った。

 さて、1909(明治42)年の刷り物が伝える農業館は、館中央の「内園」の四方に展示棟があり、以下の38のコーナーが配されていたようだ。
 穀菽類 菜菓類 香辛類 茶類 砂糖類 醸造類 製造食品 貯蔵食品 烟草類 薬材類 油蝋類 染料類 繊維類 製紙類 綿絮類 各用類* 牧草類 木材類 竹材類 園芸類 種子類 有毒植物 有害植物   飲食物分析 土性地質 肥料類 農業用具 農業製貯具 動物類 動物産物 繭絲類 昆虫類 水産動物 水産漁労具 水産製貯具 神祭具 掛図類 図書類
  〔*「各用類」とは各種の用途ある植物製品のこと〕
 
 ところで現在の農業館だが、展示点数は多くはないが、明治期の剥製、模型の中には、鯨の筋の乾燥品や、中桟に牛の肋骨を貼った算盤製造模型、牛骨製皿秤製造標本が含まれている。
 「ほら、ここには、この骨を使うのがポイントなんです。この骨じゃないとダメなんです」という職人たちの声が聞こえてきそうで楽しかった。

【2011年3月】

IT 亀山市史
 3月28日亀山市は、IT「亀山市史」を製作したと発表、亀山市史ウェブ版公式ページの利用が始まった。開設して間もないためか、まだ検索では上がってこないので、しばらくは亀山市歴史博物館HPのトップからリンクで入る。

 亀山市によると、こうしたITを利用した自治体編纂史は全国でも初めてという。そして、その特徴を、およそ次のように説明する。
 1 いつでも、どこでも、だれでもインターネットの接続環境があれば利用できる。
 2 読むだけでなく、大量の画像や動画も見ることができる。
 3 検索ができる。
 4 史資料の追加ができるので、最新の情報が利用できる。
 5 デジタルデータなので印刷もできる。
 6 書籍と違い保管に場所をとらない。
 7 歴史博物館の活動に活かすことができる。
 
(ただし、デジタルデータが利用できるといっても、接続して可能なのは画面の印刷である。著作権保護のためコピーはできない。)

 亀山市制50周年を期に、2003年編纂がスタート。市の歴史博物館が編纂事務局となった。博物館所蔵資料の一部や動画も公開している。インターネットが利用できない市民には、書籍割付版(2000ページ)も発行しているという。
 
 全体に手づくり感のあるHPである。亀山市の人口は、およそ5万人。このこじんまりとした規模が、頃合いなのだろうか。
 
亀山市史ウェブ版の公式ページ
http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html

芦浜
 いつからなのか、原子力発電が、温暖化防止に有効なクリーンエネルギーとして喧伝されていることを、苦々しく思っていたところ、今年2月、中部電力が、原発の新規立地計画を発表する予定との報道が流れ、警戒していた。

 三重県では、1964年に芦浜原発計画が持ち上がって以降、推進と反対とで地元が激しく対立する事態が37年続いた。原発計画に一応の決着が見られたのは2000年のこと。北川知事は、過去に県が策定した4原則3条件の中の「地域住民の同意と協力」について、地元の合意があるとは言えないとし、この長年の対立をこれ以上続けるわけにはいかないと、芦浜原発計画の白紙を宣言した。

 37年の反対運動の中で、三重の人びとの胸に去来していたのは、芦浜にさえ来なければよいということではなく、原発という存在自体への疑義だったはず。しかし、平和と繁栄を享受する日本社会に必要な電力の供給に、原発はますます存在を高め、世界でも原発建設を進める国が増えた。私たちはもう、原発を手放すことなどできないかのようだった。

 そこに福島原発の事故である。
 暮らしていた場所を追われた人びと、現場で作業を続けている人びとのことを思う。

 原発事故が現実のものとなった今、実は想定内だった津波対策さえ怠った東京電力の瑕疵、国の安全チェック体制の不在といった問題が解決できればよいのか(もちろん、これは喫緊の課題である)、それとも原発そのものが抱えている宿痾を考えて、原発依存からの脱却を指向するのか。その判断材料として、原発の評価に、福島原発事故の、未だに先行きの見えない人的、環境的、経済・産業的リスクが盛り込まれることは言うまでもない。原発もまた、ビジネスなのだから。

*芦浜は、三重県南部の紀勢町(現在は大紀町)と、南島町(現在は南伊勢町)にある。
 *電源立地の4原則3条件(三重県) 
  4原則は、
  ①地域住民の福祉の向上 ②環境との調和 ③地域住民の同意と協力 ④原発の安全性確保。
  3条件は、
  ①立地の初期の段階から国が一貫して責任を持つ体制の整備 
  ②安全確保のための国、自治体、事業者の責任の明確化 
  ③漁業と共存できる体制の究明と産業振興の指導体制の強化。

Asihamaimage1

藤原岳自然科学館

 三岐鉄道終点西藤原駅から歩いて10分ほどで、藤原岳自然科学館へ。セメントの貨物列車が行き交う三岐鉄道丹生川駅の博物館で貨物鉄道の歴史に触れたなら、ここも訪ねたい。

 個人コレクターからの寄贈で、1973年に開館した。こじんまりした展示室だが、標本やジオラマで動物、植物、昆虫、そして化石など藤原岳の自然を紹介している。

 ところが、展示室内に変わった様子はないのに、なぜか長期臨時休館中。不思議に思い理由を尋ねると、最近、設置した県の調査で、展示棟の耐震性に問題があることが判明。建物が使えないため閉鎖されることになり、標本など展示の引越し先が、まだ決まらないのだという。ビジターセンターであるこの場所に建てられた建物のうち、耐震性に問題があったのは、県が所有するこの展示棟のみであったらしい。

 藤原岳を訪れる人のために、ここに建てられた自然科学館。早く近くで再開されますようにと思う。

Huziwarasimage12_2

Huziwaraimage13

Huziwarimage1 

Huziwaraimage11

太平洋セメント
貨物鉄道博物館のある丹生川駅から藤原岳に向かって2つ目は東藤原駅。太平洋セメントを横に見ながら藤原岳登山口のある西藤原駅に向かう。

Taiheiimage5

Taiheiimage6 

Taiheiimage7

Taiheiimage9

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする