いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

海とともに 磯津

2014-01-05 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

海とともに
     磯津

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(撮影 2013年)

四日市の海では、漁や養殖がおこなわれてきましたが、沿岸部に工場が建設されるようになると工場排水による汚染が問題となりました

1958(昭和33)年頃から、伊勢湾の魚は石油臭いと言われるようになり、1959(昭和34)年、第一コンビナートが本格稼動しはじめると、その年の暮れから「臭い魚」の漁獲が増えます。1960年頃には、異臭魚のとれる範囲が四日市の沖合4キロまで達するようになりました。東京築地の卸売市場で「厳重な検査が必要」といわれ、返品や買いたたきによって大きな被害を受けました。

三重県は、異臭魚の原因を究明するために、伊勢湾汚水調査対策推進協議会専門調査委員団を設置します。コンビナートの各工場から油分のふくまれた排水や遊離硫酸、水溶性硫化曹達などが湾内に排出されたことで、硫化物、水酸化物、硫酸塩、硫酸水素が発生しているとし、「油脂分が異臭の少なくとも原因である」と指摘しました。汚染物質が魚に与えた影響は、単に表面への付着だけではなく、魚の体内にまで吸収されたものと考えられました。

磯津では、バッチ網漁(船びき網漁)がさかんで、マイワシ、カタクチイワシ、イカナゴ(コウナゴ)などが獲れます。また、海産物の加工場もたくさんありました。

伊勢湾の汚染を解決するために、法律による規制と水質汚濁状況の監視がすすめられました。1966(昭和41)年、四日市と鈴鹿は、水質保全法による規制水域となり、その後、水質汚濁防止法、三重県公害防止条例により工場等に対する排水規制を強化する一方、県・市・四日市港管理組合が協力して水質汚濁状況を監視しています。

Gyokaku
四日市市 市政概要 平成24年度版より

1971(昭和46)年
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Isozusetumei 
 

1974(昭和49)年
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(1970年代写真 提供 澤井余志郎さん)


2013年2月記



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三重北勢健康増進センター  (三重県立大学医学部附属塩浜病院 跡地)

2014-01-05 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

三重北勢健康増進センター  
(三重県立大学医学部附属塩浜病院 跡地)


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(写真提供 澤井余志郎さん)

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大気汚染が激しかった時代に、空気清浄病室を設置していた塩浜病院があったのが、現在の健康増進センター(ヘルスプラザ)です。道を隔てた隣は、第1コンビナートです。

1964(昭和39)年、SO2(二酸化硫黄)濃度が1ppmを越えるほどの激しいスモッグ状態にあった3月31日、塩浜病院に気管支喘息で入院していた60歳代の男性の症状が急激に悪化し、4月2日、亡くなりました。遺言により病理解剖され、大気汚染が原因の初めての死亡例として、大気汚染研究全国協議会で報告されました。
同年5月、 四日市市と三重郡楠町が、ばい煙規制法の規制地域に指定されます。四日市市では、翌1965(昭和40)年5月、公害患者の治療費を負担する制度がはじまる(18人を認定、うち14人が入院患者)など、医療体制が強化される中、 同年6月には、塩浜病院に空気清浄病室(24床)が設置されました。

ぜんそくの発作は、特に夜から明け方にひどくなるため、日中は漁に出たり、家族の世話をし、夕方になると空気清浄病室に駆け込むという生活を送る人もいました。

1967(昭和42)年、塩浜病院に入院していた磯津地区の9人が、公害問題の解決を願いコンビナート6社に損害賠償を求めて提訴しました。5年後の判決までに、塩浜病院に入院していた原告2人が亡くなりました。

1972(昭和47)年7月24日判決の日、NHKの実況中継は、病状の悪化で裁判所に行くことができなかった原告の声を、塩浜病院の病室から全国に伝えました。

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(写真提供 澤井余志郎さん)

塩浜病院は、1948(昭和23)年に旧海軍燃料廠共済病院を継承し、三重県立医学専門学校・三重県立医科大学附属塩浜病院(後に三重県立大学医学部附属塩浜病院、三重県立総合塩浜病院など数回名称変更)となりました。その後、1994(平成6)年に四日市市日永の丘陵地帯に移転し、三重県立総合医療センターと名称を改めました。塩浜の跡地利用の計画策定は、次の2つの観点から検討されました。
① 塩浜病院は、塩浜地区を中心とする公害患者をはじめとする地域医療に長年にわたって貢献してきたこと。
② 高齢社会を迎え、一人ひとりがより積極的な健康づくりのライフスタイルを確立することが求められていること。
こうして跡地には、運動実践を重点とする健康づくり支援施設が整備されることになり、1999(平成11)年4月、三重北勢健康増進センターがオープンしました。車イスで利用できるプールなど全館バリアフリーで、当時のハートビル法(高齢者、身体障害者等が円滑に利用できる特定建築物の建築の促進に関する法律)の認定を受けています。


(2013年2月記)

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移設された鈴鹿海軍航空隊基地の格納庫 (塩浜駅)

2014-01-04 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

移設された鈴鹿海軍航空隊基地の格納庫
 塩浜駅の車両工場

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(撮影 2013年12月)

塩浜駅の横にある車両工場の中に、かつて日本軍が使用した飛行機の格納庫があります。

これは、河芸郡白子町玉垣(現在は鈴鹿市)に建設された第一鈴鹿海軍航空基地(鈴鹿海軍航空隊)の格納庫として使われていました。

建設にあたった名古屋の北川組によると、1938 (昭和13) 年、日中戦争遂行のため、横須賀海軍の発注により第一鈴鹿海軍航空隊工事を開始し、10月に開隊されました。主な任務は通信偵察飛行の教育・訓練と試験飛行で常時3,000名の実習生や教官がいたということです。格納庫は第五まで建設され、その中の第二格納庫が、戦後まもなく近鉄塩浜駅の横に移築されました。

塩浜の地元の方のお話によると、この時、列車の長さに合わせて、庇を長くするなどの改修がされたということです。移設された格納庫は、現在も近鉄の車両工場(塩浜検修車庫)で使用されています。

一方基地があった場所は、電信電話公社(現NTT西日本)に払い下げられ、格納庫など施設の一部は戦後も長く使われていましたが、2011年3月取り壊されました。

鈴鹿市に残された格納庫(2010年3月撮影)
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(2014年1月記)

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2013年(39句)

2014-01-04 | いのりむし俳句

手足口動かし心は冬ごもり

しぐるるや花の紅きに見入る夜

寒空に何処へ向かうや人権の日

落葉さえ踏めばかさごそざわめけり

大根も茹だり私も暖まり

木の葉雨赤黄赤と地に注ぐ

着ぶくれて世間いよいよ狭くなり

長き夜や寝覚めて思うこと多し

きんとんの至福小さき栗の粒

台風よ地震よ原子力の日よ

木犀の匂いも菜の夕餉かな

抜け道を急ぎて不意に実むらさき

木犀の香り離れてまた香る

避ける人拾う人いて銀杏の実

曼珠沙華秘密の名つけ呼びにけり

主なき庭の枸杞の実もう朱し

新聞の休刊静けき星月夜

女郎花揺れるにまかせ手折られず

かまきりや碑文の階段登りゆく

緊張も少しゆるめてとろろ汁

ここよりもそこで鳴きたいちちろかな

定時過ぎ思わせぶりにあきつ飛ぶ

日々草またも律儀に咲きにけり

躊躇なく草むしる手で今日を生く

つるりとはいかぬ白玉粘りたる

炎天と詭弁食言要注意

燕の子ここに生まれてここを発つ

蓮咲くや迷い入りたる路地の奥

悩ましきことの多き世喜雨に濡れ

ねじ花や天に向かいて身をよじる
 
猫の目に捕らえられたり夜の蜘蛛

サイダーのしゅわしゅわ煩悩はじくかな

揚羽追う視線の先に今日の空

たそかれの行方を照らす月見草
 
十薬の花咲き毒舌意気高し 
 
同じ道行きつ戻りつ薫風忌(1977年5月10日 東山薫 享年28)
 
空港の喧騒遠し風薫る
 
いくばくの未練放つや春疾風
 
葱坊主はじけて後は丸くなり

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鈴木壽壽子 『星のふるさと』のこと

2014-01-03 | 鈴木壽壽子 『星のふるさと』のこと


四日市人権センターが作成した『星のふるさと』を紹介する冊子
 『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』のPDFは以下です。

 「hosinohurusatonokokoro.PDF」をダウンロード


現在入手困難な『星のふるさと』の復刊をめざす復刊ドットコムは、こちらです。
 

2009年5月

 ご縁に恵まれ1975年に発行された『星のふるさと』を知る。
 1970年代初めの四日市。
   コンビナートの夜のきらめき それが星でないのが悲しい 
 著者は、見上げた空を想い、その空の下で暮らす人々を想った。
 そして、この町にも青空と星空が戻ってくると信じて待てる明日のあることを祈り、星が好きな観望者から、「流れ去って帰らぬ一瞬一瞬の自然の姿をできるだけ確かに」記録する観測者となった。『星のふるさと』は、星への愛情とともに語られたあの時代の夜空の記録である。
 40年近く経った今、この町の空を見上げながら、この町の人々に『星のふるさと』が大切に読み継がれますようにと願う。

 『星のふるさと』の詳細は、霞ヶ浦天体観測隊
 
http://kasuten.blog81.fc2.com/blog-category-15.html

2009年8月

 現在入手困難になっている『星のふるさと』(1975年刊行)を紹介する小冊子(A4、8頁)を、地元で作製中。9月後半には配布開始予定。
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 『星のふるさと』と私たちの素敵な出会いのきっかけをつくってくださったore nestさん、ありがとうございます。

2009年10月

 思いがけない出会いで、最近夜空を見上げることが多くなったが、実のところ、天文はとてもとても苦手である。幼い頃、百科事典で初めて銀河の写真を見た時、なんとも言えない不安にかられて本を閉じてしまった。
 その後、私たちが今見ている宇宙は、遠い遠い過去の姿であることをを知り、あの不安の理由を思う。
 そして、足元をそっと確かめたくなるような気持ちを抱いたまま、今ここから見る空の意味を考える。
 『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』では、『星のふるさと』から、「小さな発見」「一字の橋」「結びにかえて」を読むことができる。

2009年10月 帯

 新刊本に掛けられている帯には、人目を引くための「煽り」のことばが躍っているものだが、それはそれで、楽しめる。帯は捨てずに本に挟んでおくのが習慣だが、図書館の蔵書には、帯は無く、カバーも外されていることが多い。新刊で購入するとは限らないし、保存の手間を考えると仕方ないとは思うものの、ちょっと残念。
 なので『星のふるさと』の帯も諦めていたのだが、本に帯を付けたまま保存されている方がいらっしゃって、当時の空気に触れることができた。
  
   遠い昔から、人が星と語り合ってきた心豊かなならわしは、失われてしまうのだろうかー。
   煙霧に消え、光の海に沈む星を惜しみつつ、「星よ帰れ!」とうたう


2009年11月20日 四日市市民大学 
 意外と知らない四日市 空
   
  
  6回講座の最終回は「四日市に受け継がれてきた星空」
  講師は市立博物館天文係の稲垣好孝さん 

 市立博物館では、プラネタリウムで、『おじいさん おばあさんが伝えた ふるさとの星』『俳句と星 山口誓子が見た星空』という自主制作番組も上映してきた。残念ながら今はもう見られないが、この講座で、その内容が紹介された。
 『ふるさとの星』は、富田の漁師さんが海で見る七つ星や、90代の女性が子どもの頃に聞かされた「ほうきぼし」のお話。昔は今とはちがったかたちで、空が教えてくれるものと人々の暮らしが結びついていた。そんな話を自分の体験として語れる人は、もうほとんどいない。ほうき星が見えると「戦争がくる」と言われていたことを語るおばあさんの様子に、きっと怖かったんだろうなあと思う。
 『俳句と星』は、療養のため、1941年9月から1948年まで四日市(富田・天ケ須賀)で暮らしていた山口誓子の足跡をたどる。1946年に野尻抱影との共著で出版された『星恋』の中から、「露更けし星座ぎつしり死すべからず」(1941年)が取り上げられた。同書には、四日市の空が、たくさん詠まれている。
 そして、最後に鈴木壽壽子『星のふるさと』も。
 
 空、星、暮らし、ことば、それらに心を寄せ表現してきた人と人がつながっている。

2009年11月
 
鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ 夜空のスケッチ又は写真とメッセージ募集

 四日市市人権センターが、夜空のスケッチ又は写真とメッセージ募集を始めた。

 『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』を読んだ人を対象に、年齢、市内市外を問わず全国誰でもOK。自宅付近を肉眼で見た夜空のスケッチなど形式自由。締め切りは来年2月末。天文に関心のある人はもちろん、日頃、空をながめることがあまり無い方人も、『星のふるさと』に触れ、今までとは少しちがった気持ちで、見慣れた夜空を、そして、その下で暮らす私たちのことを思うことができたら嬉しい。
                             
10月27日の空スケッチ
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 2009・10・27・19:00

2009年12月 世界天文年と鈴木壽壽子『星のふるさと』
 
 「世界中の人々が夜空を見上げ、宇宙の中の地球や人間の存在に思いを馳せ、自分なりの発見」をしようという世界天文年の取り組みの中には、「アジアの星」や、光害を考える「美しい夜空への想い」という企画もある。「アジアの星」は、ギリシャ・ローマ神話に偏りがちな星の話を、それだけではない自分たちが暮らす場所の話としてアジア各地の星文化を紹介、共有しようというもの。

 2009年の天文年の関心は、1975年に刊行された『星のふるさと』のふたつのパート「炎の上の火星」と「星のふるさと」に織り込められた願いでもある。
 「炎の上の火星」は、1971年と73年地球に接近した火星の観察記録であるが、そこには石油工場の炎(フレアスタック)、煙霧(スモッグ)も記された。丹念な観察は、火星の観測記録となり、そして1970年代の四日市公害の苦しみ悲しみを伝えた。その両方に惹かれるのだが、そうしたメッセージの根底にあるのは、火星や月や夜空が見せてくれる星たちの姿と共にある私たちの★のこと。
 たとえば「姉弟の星」の章では、「太陽に育てられ、太陽のまわりで暮らしている星の姉弟」が15年ぶりに出会った時に交わすであろう会話のかたちで、地球と火星の来し方を描いている。姉(地球)の暮らしの豊かさに目をみはる弟(火星)。けれどもそんな弟の目に映るのは、姉の星の戦火や「街にただよう死の煙霧」。姉は答えるしかない「月に旅するほどの力も、戦いの火を消し去ることはできない」のだと。
 一方「星のふるさと」は、身近な人びとの星語りや、 中国、アイヌなどの昔語りからイメージを膨らませた12編。 

 ふたつのパートを収めた本のタイトルとなった『星のふるさと』には、幾重もの意味を読み取ることができる。星の降る里、かつて夜空を見上げた、あるいは今見上げているここ「故郷」。
 星降る里の故郷の星、そして、私たちと地球と、夜空の星々が誕生したふるさと。星のふるさとは、私たちのふるさとでもある。

 『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』夜空のスケッチ又は写真とメッセージ募集は、世界天文年2009の公認イベント。

2010年1月 今年最大の満月           

 1月30日、仕事帰りに何気に空を見たら、前方にあまりに明るく大きな月。「何事?」と思い、調べてみると「今年最大の満月」。知ってしまえば、どうってことはないが、昔々遮るもののないところで、毎日、夜空を見て暮らしていた人は、こんな風に月が近付く夜をどう感じたのでしょう。写真の腕は一向に上達しないが、『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』夜空のスケッチ又は写真とメッセージ募集の2月末締め切りに向かって、毎日空を眺めている。

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障害・障碍・障がい  表記論を越えて

2014-01-03 | 障害・障碍・障がい  表記論を越えて

2010年11月 混迷続く「障害(者)」表記という問題                       
 
 「障害」の表記について検討していた「障がい者制度改革推進会議」が、11月22日の会議で「障碍」などへの変更は当面行わないことを結論とする検討結果を提出した。

 報告では、関係者からのヒアリングと、一般意見募集の結果を検討した上で、「障害」の表記については様々な考え方があることを指摘、「現時点において新たに特定のものに決定することは困難」であり、「当面、現状の『障害』を用いる」としている。

 2010年9月に実施された意見募集には、637件の意見が寄せられ、その内訳は、「障害」を支持する意見が4割、「障碍」を支持する意見が4割、「障がい」「しょうがい」を支持する意見が1割、その他が1割であったという。

 この意見募集には、私も意見を送ったが、一つではない理由を400字でまとめなければならず苦労した。長いと読む方も大変なことは理解できるが、意見が拮抗し、情緒的な主張も見受けられるこの問題について、自分とは異なる意見を主張する人にも理解してもらえる程度に説明するには、400字というのは短い。しかし、意見集約をする人は、おそらく詳述しなくても論点は心得ていらっしゃるであろうと考え、理由を箇条書きにして提出した。

1.望ましい表記

障害 障害が(の)ある人

2.1の理由や意見など

①表記変更で解決できる問題ではない。

②「障害」とは何かについては、個人・医療・社会・文化など多角的な考察が必要。単なる個人の問題ではなく社会のあり方も問われている。

③置き換える場合、「障がい」「障害」又は「障碍」のどれを、どの場合に使用するか判断基準が不明確・困難で、混乱をもたらす。たとえば「交通」「移動」「健康」「通信」「肝機能」「脳機能」「身体」「知的」「認知」「記憶」「視覚」「摂食」「言語」「行動」「歩行」「嚥下」「呼吸」のうち「障害」ではなく「障がい」を使用すべきものはどれかを、どのような基準で判断するのか。

④表記の変更は問題解決に有効ではなく、混乱と多大な負担を生む。むしろ課題の本質的な解決に傾注すべき。

⑤大切なことは「障害」がある人の権利や尊厳をいかに考えるか。「障害者(手帳)」といった表現について新たな方向性を示すべき。権利への理解が、当事者はもちろん広く共有されることを望む。

 漢字を変更すれば解決できる問題ではないということを、「そんなことやっても、どーせ無駄」みたいな投げやりで主張しているのではないことくらいは、少なくとも理解して欲しい。というのも、マスコミの論調(投稿者ではなく、記者の書いた記事)でさえ、「どーせ無駄」などとあきらめないで、表現を変えることで意識を変えようというような主張が一部で見受けられるからである。
 今回出された結果を、「障害者」に対する無理解や、「やさしさ」の欠如、現状維持の硬直した思考などといった紋きりで非難せず、なぜこの表記問題がこんなにも膠着し出口が見えないのかを考えて欲しい。「障害」か「障碍」か「障がい」か問題に矮小化せず、合意形成できる方向を見出したいと思う。
 
 「障害」の表記は現状の「障害」が良い。「障害者」という表記は、もっと議論を尽くしてよい表現を考えましょうと、私は思うのである。

 つまり問題があるとしたら、それは「障害」ではなく、「障害者」の方である。「障害」を負った、あるいは、こうむった人を「障害者」と表現することは妥当だろうか。とりあえず「障害の(が)ある人」などと言い換えているが、「障害者」の代替としては、文字数が多く、話すにしても書くにしても使いにくい。

 被害(者)、被災、罹災、罹患、罹病、負債、負担、負傷、受傷、あるいは、被差別、被保険といった用例を考えると、「障害者」には違和感を感じる。
 「被障者」「罹障者」「負障者」ではなく「障害者」というのは、障害の人を意味する。
 つまり、ある人に降りかかった災害や病気という困難は、一時的なものと考えられるのに対して、ひとたび「障害」を負えば、そこから一生逃れることはできず、障害者という特別な人生を行くしかないという障害観に基づいているのだと思う。

 しかし、たとえば「まず、人間として」を掲げたピープル・ファースト運動が、障害者である前に、同じ人間であるという当たり前のことを訴えたように、「障害」という言葉をめぐる試行錯誤は、障害観・障害者観を大きく変えようとしてきた。
 だからこそ、「障害者」でも「障碍者」でも「障がい者」でもない新しい人間観を、どう表現すればよいのかを考えたいと思う。

2009年4月  「障害」「障がい」表記問題の波紋                            

 三重県は、2007年に「障害」「障害者」を「障がい」「障がい者」に改めると発表。その波紋から、3月23日「県民啓発講座」~障がい表記と障がい者の人権~ というシンポジウムが開催されるということで注目していた。

 この問題は、たとえば同様の決定をした岐阜県と岐阜市に対して、東海聴覚障害者連盟相談役後藤勝美が、「私は、障がい者にあらず、障害者である」(朝日新聞 私の視点 2009. 1. 23)と主張するなど、関係者の間でも批判が強いのである。が、結局、シンポでは多様な意見があることは示したものの、県は「障がい」路線を見直すことはない模様。

 今回の県の決定が問題となるのは「障害」と「障がい」のどちらが良いかだけではなく、「障がい」が正しいかのように結論付けるメッセージを、一定の強制力をもって発することにある。
 「障害者」という表現の妥当性については、40年にもなろうとする議論の歴史があり、そこで尽くされてきた指摘は「障害」の「害」だけをひらがなにすれば解決するようなことではないのである。

 しかし、いずれにしても「障害」か「障がい」かではなく、ぼちぼち問題の本質に迫るような具体的な提起で、こうした議論を越えていきたいものである。


障害・「障害」・障碍・障がい ー表記論を越えてー 2008年2月記

 三重県は2007年、「障害」「障害者」を「障がい」「障がい者」の表記に改めることを決定した。

 決定を伝える県のHPによると、その背景として、「『障害者』の表記における『害』という漢字のひらがな表記については、さまざまな意見がありますが、『害』という漢字のイメージの悪さから、『障がい者』と表す自治体などが増加しています。」と述べ、「もとより、障がい者施策の推進にあたっては、障がいのある人も、ない人も、ともにくらすことができる社会を築くため、当事者の思いを大切にして取り組んでいくことが重要です。」と続けている。
 
 また更に「『害』という漢字の使用を不快に思うとの主張がある一方で、漢字かひらがなかという議論自体を無意味あるいは不快に思うといった意見など、県民、県内外の団体などにもさまざまな議論があります。」とも指摘している。

 これらの三重県の説明を一読して、私がまず感じたことは、では、この「障がい」表記問題を決定するにあたり、「当時者の思い」をどのようにくみ取ったのかということであった。

 そこで、具体的にどのような方法で「当時者の思い」を聞き取り、どのような意見があったのかをお尋ねしたところ、そのような調査は全くしていないとのご返答であった。これは甚だ面妖なことではないか。たとえばアンケートの実施、関係団体に意見を求めるなど、県民、特に「当時者」の意見を聞くことは欠くことのできない必須事項ではあるまいか。
 
 しかも、三重県も「県民、県内外の団体などにもさまざまな議論があります。」と自ら指摘している通り、「障がい」という表現をめぐっては様々な意見があるにも関わらず、このような手続きを経ることなく、決定を急がなければならない如何なる理由があるのであろうか。

 また、「障がい」に置き換える必要のある事例と、「障害」で差し支えない事例として、次のように述べている。
  
  なお、次のような場合は、漢字表記で差し支えないと考えられます。
  ・過重労働による健康障害についての基礎知識を習得する。
  ・交通事故の後遺症による高次脳機能障害の話題が出た。
  ・Aさんは、飲酒に起因するアルコール性肝機能障害の疑いがある。
 
 同じく人間を対象とした「障害」の状態について「害」と表記しても「差し支えない」ものと「差し支える」ものがあるという認識は、いったい何を根拠にしているのか私には理解し難い。たとえば「身体障害」「知的障害」(私は「知的障害」ではなく、できるだけ「知的機能障害」と表現するようにしているが)と「脳機能障害」「肝機能障害」とは違うというのは、いったい如何なる価値観に基づくものだろうか。

 具体例をあげる。「認知障害」「記憶障害」「視覚障害」「摂食障害」「言語障害」「行動障害」「歩行障害」「嚥下障害」「身体障害」。これらのうち「害」と書くと差し支えるものと、差し支えないものの判断基準は何か。
 
                        ●

 いわゆる「障害者」問題を語る前提として、それは本当に「障害」と表現されるものなのか。つまりどのような意味において「障害」なのかという問いかけは長年の課題であった。
 
 すでに1971年10月には、『コロニー解体』創刊号に掲載された関西「障害者」解放委員会綱領「障害者解放のために」の冒頭「一、「障害者」の定義」において、「この綱領案を提起するにあたって、まず我々はこれまで何の疑問もなく使用されてきた「障害者」という言葉を改めてとらえかえすことから始める必要がある。」と指摘されている。(楠敏夫『「障害者」解放とは何か -「障害者」として生きることと解放運動』1982)

 それは単にことばの問題ではなく、当時の「障害者」をとりまく社会への異議申し立てであった。「善意」であるかどうかはともかく、結果的には「コロニー」という巨大施設に閉じ込められ、時には生きる価値のない存在であるかのように見なされ、一人の人間としてあたりまえの人生を生きることが今以上に困難な時代だったのである。

 こうした時代に「障害」「障害者」を語る時には、問題提起を込めて「」を使用する人も少なくなかった。私自身、「障害」「障害者」というように「」を厳格に使用していた時期もあるし、今でも文脈によっては「」を使用している。
 
 その後、国際障害者年の取り組みを経て、どのような「障害」があっても(なくても)人間として等しく尊く、同じように人生を生きる権利があるという当たり前のことを確認すると共に、「障害」観の見直しもすすめられてきた。

 昨今の「障害学」においては、個人モデル・医療モデル・社会モデル・文化モデルにおける検証がすすんでいる。ヘレン・ケラーのことばとされる「障害は不便だ、しかし不幸ではない」が紹介されたり、「障害は個性(のひとつにすぎない)」という主張も生まれた。

 又一方で「障害者」に関わる用語の見直しも試みられてきた。たとえば1990年代から「精神薄弱」に代替する用語の検討がすすみ「知的障害」に置き換えられた(私は、できるだけ「知的機能障害」を使うようにしているが)。また、同じ頃から「障碍」「エンジェル」「チャレンジド」などが使用されるようにもなった。
 
 このように「障害」観の見直しや、用語の使用について多くの議論が蓄積されてきた経緯を踏まえる時、「障害」とはいかなる意味で「障害」なのか、それは「障害」で良いのかという問いは、今でも大きな課題を投げかけているといえる。では、その解決にとって「障がい」という表記はいかなる意味を持つのだろうか。

 只今の状況下において、私は次のように考える。

 ① 「障害」という表現が適切なものであるかどうかは、「障がい」という置き換えによって解決できるような問 題ではないと理解している。

 ② 「障害者」をどのように表現するかの判断において、最も優先されるべき要素のひとつは、「当事者がどのように考えているか」であると考える。

 ③ 現今の状況において、「障害者」団体の多くが「障害」を使用しているという現実を尊重する。すでに述べたように、この現実は、「障害者」団体等の当事者が、「障害」という表現の持つ問題に無自覚、無批判に使用してきたということを意味するものではないことを強調しておきたい。また、今後、多くの「障害者」団体や個人が「障がい」の使用を主張することがあるならば、その時点において、その主張を尊重する。

 ④ 固有名詞をのぞき、「障害」をどのように表現するかは、基本的にそれぞれが判断することである。障害、「障害」、障碍、障がいのいずれを使用するかについては、個々の判断に委ねられるべきであり、たとえば「障がい」という表現が、他に比べて優れているかのように強制力をもって主張することは、現段階では適切ではない。県の決定は、県の文書のみならず、県の関わる助成や委託事業などにまで広く強制力を発揮しており、「障がい」以外の用語を使用することが事実上困難な状況が広がっている。これは、豊かな議論の前提である「表現の自由」の保障と、「障害者」の自己決定の尊重という二つの意味において看過できない。。

 私のまわりには、何らかの身体的な「障害」を持つ人、重い「知的機能障害」を持つ人、軽い「知的機能障害」がある人、重度の心臓疾患で日常生活にも制限がある人など、たくさんの友人がいる。その「障害」の内容も程度もあまりにさまざまである。

 こうした友人との私的な関係においては、かの人々を総括して表現できるような便利なことばなどは無いし、そのようなくくり方をする必要もないと思っている。

 現代の医療・技術や社会のあり方の中で、一定の「援助」や「配慮」が必要と考えられる状況にある人々に対して、対策を講じることが必要である場面において、便宜的・限定的に「障害者」という概念が必要なのである。

 決して「障害者」という特別な存在として生きているわけではないというのが、私の理解である。私にとっては、どのような「障害」があっても(なくても)友人・知人の一人であり、大切なことは、それぞれが抱えている具体的な「問題」を理解し共有することだと考えている。
 
 そのために「障害」という表現が必要であれば、その必要の範囲で使用している。「障害」という言葉の持っている限界を感じ、「障害」という言葉を使うことの居心地の悪さと向き合いながら、「障害」を持つ友人たちと共に生きていく道をさがしたいと思う。

 その上でもし福祉の分野などにおいて、「障害」を持っていることで支援を必要とする人びとを総称する何らかの用語が必要であるならば、 援助を受けることを、権利として有しているということが明確になるような表現(たとえば一例として、「受援権者」又は、「身体的受援権者」など)が、求められているのではないか。

 この「障害」表記問題が実りあるものとなることを願っている。

[参考]
三重県の見解

http://www.pref.mie.jp/KENKIKA/SOGOH/hyouki.htm

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2011年 後半

2014-01-02 | 2011年

【2011年7月】

7月9日 虫送り(四日市市富田地区)   2011・7・11
 「害虫」という言葉がまだ無かった時代に、農作物が豊かに実るように、虫たちの退散を願って行われたのが虫送りである。

 かつては農村のあちこちで見られた年中行事のひとつだったが、四日市市内各地では、大正から昭和初期頃、相次いで廃止されたらしい。富田地区でも長らく途絶えていたが、3年前に55年ぶりに地域の行事として復活させた。

 農作物に被害をもたらす「害虫」には、今では農薬の使用が当たり前になっている。江戸時代でも大蔵永常が『除蝗録』を著し、鯨油を用いた駆除法を紹介するなど、虫対策の研究はあった。

 しかし、江戸時代はもちろん明治に入ってからもしばらくの間、技術的にも、意識の上でも、農家の人々にとって、虫の存在は人間の力で解決できるものではなく、天災だった。そして、収穫のためとはいえ、虫など生類の命を奪うことを悲しむ心根をも抱いていた。

 鉦を先頭に、燃える松明を持った人々が畦道を進むと、辺りは打ち鳴らされた鉦の音と火と、煙幕で騒然となった。虫送りは、豊作への祈りの込めた村の大切な行事だったのだろう。

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地区内の3神社(北村若宮八幡神社・茂福神社・伊賀留我神社)から、
集合場所の霊園に向かって出発。

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重い、熱い。松明を抱えて畦道を行く。辺り一面に煙が広がる。

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背後に見えるのは、コンビナート。

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3ヵ所の参加者が合流し、地区内仏教会の住職による法要が始まった。

藤原岳自然科学館 展示棟の移転   2011・7・9
 県が所有する建物の耐震性が問題となっていた展示棟が、いよいよ、1km以上離れた文化センターに移転する。オープンは来年春頃らしい。

 今年3月にこの科学館を訪れた時、一部の手作り感のある展示に興味がわき、博物館の成り立ちを質問したのだが、個人のコレクションを集めたということ以外に特に情報は得られなかった。
 ところが最近、思いがけないところで、開館当初の関係者の声に接することができた。

 1974年に名古屋で開催された社会教育研究全国大会で、地元の人々の手作りで支えられた藤原岳自然科学館設立の経緯が報告されたという。「お金がなければ展示ができない、業者が地方にはいないなどという泣声はどこにもきこえません。自然保護への主張が人々の心をとらえ、藤原岳へこれから登る人、また下山してきた人たちに実に多くを語りかけます。」(「博物館へどうぞ48 藤原岳自然科学館 手作りの展示」日本モンキーセンター学芸員 広瀬鎮 『モンキー』141号 1975)
 
 藤原岳のビジターセンターであればこその科学館。電車で藤原岳を訪れた人が新たな展示施設まで歩いて行くのは、ちょっと遠い。マイカーの人は寄ってくれるのかなあ。地元の人には便利なのかなあ。

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海から、コンビナートから、1kmちょっと   2011・7・8
 危機管理室のある市役所から、海、そしてコンビナートまでは1kmちょっとである。
 結構近い、と思う。

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猫もいろいろ  2011・7・7

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何?

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スリッパ大好き

【2011年6月】

カラー    2011・6・23

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オキーフの好きなカラーリリー  6月の暑い日に

図書館資料は重い  2011・6・12

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ありそうで無かった図書館風景 あったらいいなと思ってました。

三重県知事 新県立博物館建設の見直し  2011・6・6
 就任後、全ての事業をゼロから見直すとし、現在建設中の県立博物館についても検討していた新知事が、6月3日県議会全員協議会において、新たな条件を示して整備を進めることを明らかにした。6月4日の朝刊地方版で各紙が伝えたが、その書きっぷりに、いかにも各社の嗜好(思考?志向?)が表れていた。

 まず、毎日は、鈴木知事の説明から「県民にとって新博物館が必要」「三重の自然や歴史、文化に関する資産を守る責務が県にある」を引き、建設推進の前提となる条件を7点、詳述している。
 ①年間運営費の県費負担を2割程度削減 
 ②収入増のため広報強化 
 ③外部有識者による委員会で経営評価
 ④民間参画で経営基盤確立
 ⑤現博物館の今後の扱いには県費負担しない
 ⑥自然エネルギーの活用拡大
 ⑦金銭価値では示せない社会への影響や効果を明示し、評価と改善の仕組みを作る

 対して、読売が知事の発言で注目したのは、「新博物館が今後の三重にとって、アイデンティティー(自己認識)の創造と継承、子どもたちの成長、県民が生きていく上での心の支えにとって大きな役割を果たす」「三重の持つすごさ」「県民の誇りの醸成につながる博物館にしたい」である。
 そして、一部展示における協賛企業の獲得、ネーミングライツ(命名権)の売却といった民間資金の活用検討を挙げた。

 一方、朝日が取り上げたのは、「三重の子どもたちの成長に大きな役割を果たす」「新たな豊かさのモデルとなる潜在的可能性がある」という部分。

 三紙をながめると、読売の暑苦しさが際立っているが、それは知事もまた同様か。
 「アイデンティティー」だの、「生きていく上での心の支え」だの、「三重の持つすごさ」だの、「誇りの醸成」だのと並べられては、博物館も息苦しかろう。これだけ言い立てなければならない御時世なのだろうか。

【2011年5月】
広告な動物    2011・5・28
■その1 ウマ
 5月29日は日本ダービーだそうで、28日土曜日の朝刊に全面広告が掲載された。それが驚いたことに、各紙それぞれ内容が異なるという贅沢さ。
 朝日新聞のそれは文学、毎日新聞では絵画、読売新聞では数字をテーマに、競馬の魅力を広告している。

 朝日新聞
 「文豪たちが愛した競馬に また今年も 特別な日がやってくる。」「日本ダービー、いよいよ明日。」
 取り上げられたのは、夏目漱石の日記とアーネスト・ヘミングウェイの小説
 
 毎日新聞は
 「第78回日本ダービー記念特別企画 競馬の魅了された芸術家たち」
 取り上げられたのは、エドゥアール・マネと武者小路実篤
 
 読売新聞
 「明日は日本ダービー」「数字で見る競馬」
 取り上げられたのは、196,517人、1932年、7458頭分の1、2分23秒3

■その2 ワオキツネザル
 そして、同じく28日の朝日新聞によると、6月から、名古屋トヨペットが、今春日本モンキーセンターで生まれたワオキツネザルの命名権が抽選で当たるキャンペーンを始めるとのこと。
 ワオキツネザルといえば、同園で、ぬいぐるみの売り上げが一番人気とか。私も思わず連れてきちゃいました。

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虫供養塔    2011・5・26
 人と動物の関係を考える時、対象とする動物の範囲をどう捉えるかは重要なポイントである。
 
 一部で混迷を深める「鯨問題」を引くまでもなく、人以外の生き物を、どのような指標で線引きするかという点に、その人の動物に対する態度があらわれてくる。
 
 虫を見つけると殺虫剤でシュッという行動に躊躇がない現代人(私は、あれは苦手である)には無縁かもしれないが、一昔前まで、農村の生活と共にあったのが虫供養である。
 
 四日市市馳出町の浄土宗円明山金剛寺に残されている虫供養塔は、一部再建された部分も含まれているものの建立は江戸時代と推定され、当時の虫供養の様子を伝えている。

 「南無阿弥陀佛 徳住」「虫供養」「禽獣龍蛇魚貝虫 羽毛鱗甲四類雑」「念仏講中」と刻まれている。

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【2011年4月】

神宮農業館    2011・4・23

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 「日本最古の産業博物館」といわれる神宮農業館だが、第1室の入り口には「天皇の農業」と「皇后の養蚕」のコーナー、第2室の最初には田中芳男等編集の『有用植物図説』という展示構成が、この博物館がどういう場所かをよく示している。
 「天照大御神と豊受大御神の御神徳を広め、『自然の産物がいかに役立つか』をテーマにした農業館」(図録『神宮の博物館』)なのである。現在の農業館は、神宮と産業の「博物館」に、創設時に協力した田中芳男コレクションのごく一部が紹介されている。

 1891(明治24)年に神苑会によって外宮前に創設。1905(明治38)年に現在地に移設され、1911(明治44)年に神宮に移管された。老朽化により1989(平成元)年に解体された後、1996(平成8)年に、その一部を縮小し復元された。

 そして言う。 「百年余の推移で時世に適応しない資料が多くなっているといえども、明治時代の殖産興業をめざす『博物館の博物館』という目でご覧いただきたい」と。
 つまり‥今日からみると、いかにも博物館行の古くさい資料ばっかりだけど、これはどれもが歴史的には貴重な伝統ある博物館のコレクションなのだから、心して見てね‥ということですね。

 しかし、たとえば館内の配置がわかる『農業館案内』(明治42年発行)がケースの中に陳列されているのだが、印刷状態がよくない上に字が細かいので、たいそう読みにくい。せっかく日本初の産業館の様子を知ることができる資料なのだから、パネルにするとか、読みやすい高さに置くとか、せめて内容がわかるようにすることは、さほど難しいとは思えない。
 
 また、この明治42年発行の『農業館案内』を「開館当初に作られたパンフレット、昔はこのような展示でした」と説明しているが、それは現在地に移設後の農業館(明治38年落成)のことではないのか。気になって調べてみると、1900(明治33)年発行の神苑会『農業館列品目録』(国立国会図書館近代ライブラリー)で知ることができる農業館とその付属館の姿は、1905(明治38)年落成のそれとは異なる。
 
 現在の農業館からみれば、1909(明治42)年のパンフレットが開館当初というのは誤りということではないかもしれない。けれども「日本最古の産業博物館」として「博物館の博物館」であると自らを語るのであるなら、こういう資料を丁寧に見せる工夫の方が大切なことではないかと思った。

 さて、1909(明治42)年の刷り物が伝える農業館は、館中央の「内園」の四方に展示棟があり、以下の38のコーナーが配されていたようだ。
 穀菽類 菜菓類 香辛類 茶類 砂糖類 醸造類 製造食品 貯蔵食品 烟草類 薬材類 油蝋類 染料類 繊維類 製紙類 綿絮類 各用類* 牧草類 木材類 竹材類 園芸類 種子類 有毒植物 有害植物   飲食物分析 土性地質 肥料類 農業用具 農業製貯具 動物類 動物産物 繭絲類 昆虫類 水産動物 水産漁労具 水産製貯具 神祭具 掛図類 図書類
  〔*「各用類」とは各種の用途ある植物製品のこと〕
 
 ところで現在の農業館だが、展示点数は多くはないが、明治期の剥製、模型の中には、鯨の筋の乾燥品や、中桟に牛の肋骨を貼った算盤製造模型、牛骨製皿秤製造標本が含まれている。
 「ほら、ここには、この骨を使うのがポイントなんです。この骨じゃないとダメなんです」という職人たちの声が聞こえてきそうで楽しかった。

【2011年3月】

IT 亀山市史
 3月28日亀山市は、IT「亀山市史」を製作したと発表、亀山市史ウェブ版公式ページの利用が始まった。開設して間もないためか、まだ検索では上がってこないので、しばらくは亀山市歴史博物館HPのトップからリンクで入る。

 亀山市によると、こうしたITを利用した自治体編纂史は全国でも初めてという。そして、その特徴を、およそ次のように説明する。
 1 いつでも、どこでも、だれでもインターネットの接続環境があれば利用できる。
 2 読むだけでなく、大量の画像や動画も見ることができる。
 3 検索ができる。
 4 史資料の追加ができるので、最新の情報が利用できる。
 5 デジタルデータなので印刷もできる。
 6 書籍と違い保管に場所をとらない。
 7 歴史博物館の活動に活かすことができる。
 
(ただし、デジタルデータが利用できるといっても、接続して可能なのは画面の印刷である。著作権保護のためコピーはできない。)

 亀山市制50周年を期に、2003年編纂がスタート。市の歴史博物館が編纂事務局となった。博物館所蔵資料の一部や動画も公開している。インターネットが利用できない市民には、書籍割付版(2000ページ)も発行しているという。
 
 全体に手づくり感のあるHPである。亀山市の人口は、およそ5万人。このこじんまりとした規模が、頃合いなのだろうか。
 
亀山市史ウェブ版の公式ページ
http://kameyamarekihaku.jp/sisi/index.html

芦浜
 いつからなのか、原子力発電が、温暖化防止に有効なクリーンエネルギーとして喧伝されていることを、苦々しく思っていたところ、今年2月、中部電力が、原発の新規立地計画を発表する予定との報道が流れ、警戒していた。

 三重県では、1964年に芦浜原発計画が持ち上がって以降、推進と反対とで地元が激しく対立する事態が37年続いた。原発計画に一応の決着が見られたのは2000年のこと。北川知事は、過去に県が策定した4原則3条件の中の「地域住民の同意と協力」について、地元の合意があるとは言えないとし、この長年の対立をこれ以上続けるわけにはいかないと、芦浜原発計画の白紙を宣言した。

 37年の反対運動の中で、三重の人びとの胸に去来していたのは、芦浜にさえ来なければよいということではなく、原発という存在自体への疑義だったはず。しかし、平和と繁栄を享受する日本社会に必要な電力の供給に、原発はますます存在を高め、世界でも原発建設を進める国が増えた。私たちはもう、原発を手放すことなどできないかのようだった。

 そこに福島原発の事故である。
 暮らしていた場所を追われた人びと、現場で作業を続けている人びとのことを思う。

 原発事故が現実のものとなった今、実は想定内だった津波対策さえ怠った東京電力の瑕疵、国の安全チェック体制の不在といった問題が解決できればよいのか(もちろん、これは喫緊の課題である)、それとも原発そのものが抱えている宿痾を考えて、原発依存からの脱却を指向するのか。その判断材料として、原発の評価に、福島原発事故の、未だに先行きの見えない人的、環境的、経済・産業的リスクが盛り込まれることは言うまでもない。原発もまた、ビジネスなのだから。

*芦浜は、三重県南部の紀勢町(現在は大紀町)と、南島町(現在は南伊勢町)にある。
 *電源立地の4原則3条件(三重県) 
  4原則は、
  ①地域住民の福祉の向上 ②環境との調和 ③地域住民の同意と協力 ④原発の安全性確保。
  3条件は、
  ①立地の初期の段階から国が一貫して責任を持つ体制の整備 
  ②安全確保のための国、自治体、事業者の責任の明確化 
  ③漁業と共存できる体制の究明と産業振興の指導体制の強化。

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藤原岳自然科学館

 三岐鉄道終点西藤原駅から歩いて10分ほどで、藤原岳自然科学館へ。セメントの貨物列車が行き交う三岐鉄道丹生川駅の博物館で貨物鉄道の歴史に触れたなら、ここも訪ねたい。

 個人コレクターからの寄贈で、1973年に開館した。こじんまりした展示室だが、標本やジオラマで動物、植物、昆虫、そして化石など藤原岳の自然を紹介している。

 ところが、展示室内に変わった様子はないのに、なぜか長期臨時休館中。不思議に思い理由を尋ねると、最近、設置した県の調査で、展示棟の耐震性に問題があることが判明。建物が使えないため閉鎖されることになり、標本など展示の引越し先が、まだ決まらないのだという。ビジターセンターであるこの場所に建てられた建物のうち、耐震性に問題があったのは、県が所有するこの展示棟のみであったらしい。

 藤原岳を訪れる人のために、ここに建てられた自然科学館。早く近くで再開されますようにと思う。

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太平洋セメント
貨物鉄道博物館のある丹生川駅から藤原岳に向かって2つ目は東藤原駅。太平洋セメントを横に見ながら藤原岳登山口のある西藤原駅に向かう。

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