いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

2010年 前半

2014-11-23 | 2010年
◆萬古焼のまち





四日市市立博物館
   「江戸の文様 萬古の色」 うつわに込められた美と心
    4月24日(土)~6月13日(日)
 「四日市市の地場産業として有名な萬古焼。古萬古を中心に、その器に描かれた文様を手がかりに、萬古焼に込められた願いや祈りを探ります。」

四日市文化会館美術展示棟
   「古萬古展」 弄山・有節より永遠に
    4月17日~7月4日

 萬古の町の“市立博物館”では、これまでも度々企画展が開催されており、常設展にも技法の解説と作品を紹介する萬古のコーナーがある。

 博物館から歩いて3分の“文化会館の美術展示棟”では、まちづくり振興事業団が、年3回の常設展示と年1回の企画展示を開催。博物館の隣の“じばさん三重”1Fは、地元の名産品の販売コーナーがあり、萬古焼は、その主力商品である。

 萬古焼は木型を利用した珍しい陶法で知られ、18世紀桑名の豪商であった弄山(ろうざん)の「萬古不易」が創始。四日市で生産が開始されるのは幕末のこと。
 
 明治時代より多くの職人を擁した萬古業界では、1895(明治28)年の賃上げを要求する同盟罷業を初め、労働争議が頻発。1910年以降増加する朝鮮人の職工も多く、この地に定住した朝鮮人熟練工の中には、労働運動に中心的役割を果たした者もいたと伝えられる。1926年に設置された県の工業試験場四日市分場は、地元の要望もあり、1934年、“県立窯業試験場”として独立した。
 
 外国からの観光客も含め、120万人以上が訪れたと言われる国産振興四日市大博覧会(1936年)では、萬古焼陶磁器館も出現。
 
 『四日市市史』では、萬古焼に関わる歴史を多角的に取り上げている。

 1979年には伝統的工芸品産業に指定され、名称を「四日市萬古焼」と統一。
 1998年竣工“ばんこの里会館”の展示室で、技法と沿革を伝える展示パネルは陶製。萬古焼の販売はもちろん陶芸教室も開催され、地域交流の拠点でもある。
 
 日本の伝統的工芸品館が作成したデータで、萬古焼の「催事」に、「萬古まつり」と共に「萬古神社」が取り上げられているのには少々驚くが、毎年5月第2土日は、“萬古神社”(1935年建)を中心に陶器市(萬古まつり)が開催されている。

 この町にとって萬古焼は産業であり、そして美術、技術研究、宗教、祭、まちづくりである。

【4月】
◆小杉未醒のスケッチ「鮮人」
愛知県美術館「小川芋銭と珊瑚会の画家たち」展に行く。
 芋銭といえば河童、牛久。牛久といえば住井すえ‥など連想しながら会場へ。芋銭の「水魅戯」「狐隊行」「農村春の行事絵巻」『平民新聞』の挿絵や、平福百穂、森田恒友などの作品が紹介されている。
 
 そのひとつ小杉未醒のスケッチ「鮮人」について、「鮮人」とは差別ではないかとの指摘を受け、美術館が対応を検討中と報じられた。蔑称であり差別と指摘した詩人の主張と、美術館側の対応を報じた毎日新聞と中日新聞の内容が異なるため、事実関係がはっきりしないが、中日は、画題の変更も検討されていると伝えている。はたして「鮮人」とは、「差別語」なのかも含め、少し考えてみたい。(記事はこちら)
 
 まず、スケッチの画題が、いつ、誰によって付けられたのか不明らしいものの、小杉本人が了解していたとの指摘もあるようだ。いずれにしても、画題を勝手に変更するなどということが許されるはずもない。(画題の変更を検討中とする中日新聞の報道には疑問が湧く)
 ここで必要なのは、画題の変更や作品の撤去ではなく、今では使われることのなくなった「鮮人」という言葉について、どう説明するのかということだろう。そして、それは、この作品と描かれた時代を、さらに理解することにつながると思う。

 朝鮮人の略語として長く使われてきた「鮮人」の歴史的背景については、『朝鮮人差別とことば』(明石書店 1986年)の「『鮮人』ということば」(内海愛子)がくわしい。同書では、およそ次のように説明されている。

 1910年の「日韓併合」以前は「朝鮮人」又は「韓人」が用いられていた。「併合条約」(8月29日公布)の記述は「韓国」「韓人」であった。しかし「併合条約」公布の日に、勅命により「韓国ノ国号ハ之ヲ改メ爾今朝鮮ト称ス」とされた。その後まもなく(9月19日)東京朝日新聞に「鮮人」が登場、朝鮮人の略称として定着していった。

 そして、内海は「朝鮮人」の略語に「朝」ではなく「鮮」が使われたことをもって、単なる略称でない蔑視と差別意識があったと主張する。しかし、そうした理由で「鮮人」を差別語とする主張は有効だろうか。
 「華人」「米人」など、略称に一番目以外の語を用いることは珍しくない。一番目の語が他にも使われることが多く他の用例と紛らわしい場合は、その使用を避けるだろう。当時「朝」は「朝廷」に関して多用されており、日本に来ることを「来朝」と表現していたことは内海も指摘しているが、そうした事情の影響を退け、「鮮」は差別としている。しかし、あざやかを意味する「鮮」自体に蔑視感があろうはずもなく、差別語と断じるのは無理がある。

 では、「差別語」でなければ問題はないのだろうか。

 ここで大切なのは、差別語だから使ってはいけない、差別語ではないから良いということではなく、「鮮人」ということばが使われた背景を理解することだと思う。日本が韓国を殖民地化していく過程の中で広まり、蔑視と差別にまみれて使用されてきた「鮮人」に、不快感を抱く人々がいることを、今、わたしたちは受け止めることができるはずだ。そして、こうした丁寧な作業を重ねることで、小杉が描いた時代を理解し、未来へと向かうことができるようになるのだと、わたしは思いたい。

◆ベルガモット
ちょっとだけ香が欲しいときのために、好みのアロマスプレーをつくった。ベルガモット5滴、ペパーミント3滴、ティートゥリー2滴。純度の高い精油を少量ブレンドした。このスプレーが気に入っているのは、香が持続しないこと。ひととき気分を変えると、すぐに消える。

 以前からコロン類を使う習慣はなかったが、最近、多様な匂いの過剰さが気になることが多くなり、ますます特定の匂いに支配されることを好まないようになった。
 
 日々の暮らしの中で、時折、楽しませてくれる香は多い。季節の花、椎茸や南瓜の焼ける匂い、珈琲豆の袋を開けた幸せな一日。そんな場所に、特別につくられた匂いは馴染みにくい。数メートル先から存在を知らせるほどの過剰な匂いを身にまとった人は、沈丁花や梔子、一杯の煎茶の香を、どのように受け取っているのだろうかと思う。
 
 わたしがベルガモットを好きでいられるのは、それが、ひかえめな存在でいてくれたから。
 ひかえめな香を楽しむためには、それが許される穏やかさが必要なのだと思う。

◆電気アレルギー②
先月、電気アレルギーについて書いたところ、さっそく「電流に対して平均より敏感なため、電気器具からリークしている微弱電流に反応しているのではないか」とのご指摘をいただいた。ありがとうございます。
 腰痛・肩こりなどに使われる低周波治療は、馬の治療にも使われるそうで、低周波治療が好きになる馬が多いものの、嫌がる馬もいるとのこと。わたしはもちろん全く苦手である。電気を嫌がる馬って、親近感が湧く。友だちができたみたいで嬉しい‥
 とは言え、電気に反応して身体に不調が表れるなんて容易には信じてもらえないと思うので、この電気アレルギーな日々の体験を、どんな風に書いていこうかと思案しているところ。

◆埴沙萌『植物記』
この数年、年間を通して最もたびたび手に取る本が、埴沙萌の『植物記』。
 魅力的な写真と簡潔な説明で伝えてくれる植物の季節の表情には、何度開いても発見がある。身近な自然に関心をもったときに発せられる「あれ?」を刺激する入り口が満載。

◆「慰霊」のかたち②
 戦争慰霊碑を数ヵ所訪ねる。
 遺族会作成のリストによると「英霊碑」があるという神社の急な階段を上って行くが、慰霊碑らしきものは見当たらず、あきらめかけた時、傾斜の一番下の端に小さな碑があることに気づく。
 「おもいでのしるべ」と記された碑は、1959年建立。亡くなった58名の名前だけが刻まれていた。有縁の人等によって、ひっそりと建てられた碑は、「死」が賛美されることを望んではいないのだ。

「よっかいち人権の礎を訪ねて 四日市市内の戦争慰霊碑」のデータを追加しました。
泊村戦没者碑(泊村公会所)、平和之礎・忠魂碑(小古曽神社東)、釋堅忠勇送信士の碑(波木町了信寺)、倶會一處(貝家町上品寺)、おもいでのしるべ(采女町八幡神社)

【3月】
◆戦闘機の居場所





戦争時、多数の陸海軍の施設があった鈴鹿市には、今も当時を伝える場所がある。
 現在はNTTの施設となっている第一鈴鹿海軍航空基地の格納庫や、海軍工廠があった地域では住宅地の中に、ぽつりと軍の倉庫が残されていたりする。鈴鹿市の面積の1割近くを軍の施設が占めていた。そのひとつであった北伊勢陸軍飛行場の周囲には、多くの掩体(えんたい)がつくられた。
 
 掩体は、激しさを増す空襲から航空機を分散して避難させるための格納施設で、コンクリート製、土製がある。土製が多い掩体は、戦後次々と取り壊され畑などに使用されたが、鈴鹿市三畑町に現存するコンクリート製の掩体は、当時の姿を伝える貴重なもの。戦争直後、内部は天井近くまで土が詰まっていたらしく、実際に使われることはなかったと言われている。私有地に残されており、登録有形文化財となっている。
   
 掩体のほとんどは鈴鹿市内につくられたが、鈴鹿と接する四日市市水沢野田町にも当時の姿を残している場所がある。共同墓地の奥の林の中の土製掩体は、今では地元でもほとんど知る人はいない。案内されなければ気づくこともないだろう。戦争は過去のものであると思える平和な時代を、わたしたちは長く享受してきた。

 しかし1945年、地上戦で米軍に占領された沖縄に、米陸軍工兵隊が本土攻撃の基地として滑走路を建設したのが普天間だった。それから65年、沖縄は県の面積の1割以上を占める米軍基地とともにある。それがなぜなのかを忘れないようにしたい。

◆本の敵
この町の図書館は、書庫で防虫剤を使っている。
 一時期、図書館中が防虫剤のにおいに包まれていたのは、開架スペースにまで漏れるほど大量に使用していたからだろう。古い本を借り出すと、ページを開いただけで臭う。先日、調べもののため書庫に入ったら、本棚のあちこちに防虫剤があり、しばらく居るとクラクラしてきた。それにしても、毎日この環境で本を扱う司書さんたちは平気なんだろうかと思う。これまで図書館の本で防虫剤という経験は無かったので、驚き、とても困り、しばらく他の図書館を利用していた。

 酸性紙など本の素材も図書館を悩ます。15年ほど前、昭和初期から30年代にかけて刊行された重厚な装丁の化学総覧を手にした時、背表紙は一部ポロポロと剥がれ始め、変色したページはゴーフルのようにパリパリと折れそうだった。そんな本を読み複写するなんて、まるで破壊者になった気分だった。けれども本は読むためのもの。これまで誰かが開いた形跡のないこの本を、このまま眠らせておくよりはと言い訳しながら捲ったあの総覧、その後、誰かが手にすることがあっただろうか。

 本の歴史に登場する敵は多い。ずばり『書物の敵(The Enemies of Books)』(ウィリアム ブレイズ 1880年初版)なる本もある。この本で、輝かしき「敵」とされたのは、火、水、ガスと熱気の悪行、埃と粗略の結果、無知と偏狭の罪、紙魚の襲撃、害獣と害虫の饗宴、製本屋の暴虐、蒐集家の身勝手、召使と子供の狼藉であった。

 現在、国立国会図書館は、蔵書の電子化を急ぐ。1948年から実施されている納本制度に、電子データを含めることも検討されている。電子化の作業は、古いものから進められている。
 
 蔵書の劣化問題について、国立国会図書館が2005年から06年にかけて実施した調査で、本文紙と製本の状態を報告している。物理的強度・酸性度・変色・劣化によって発生するにおい(ギ酸、シュウ酸、酢酸、バニリン酸など揮発性有機酸)などの本文紙の状態と、表紙の形態、綴じ、本文紙の束ね方、本文と表紙の接合、見開き度などである。
 古い本には独特の臭いを感じることがあるが、やっぱりそうだったんだ。

 それにしても、こんな風に敵との格闘が取りざたされるのは、少なくとも本が、戦い続ける力を失ってはいないということでもある。デジタル化は、本を物理的な劣化から救い出し、これまで以上に多くの読者を獲得する可能性を与えるだろう。が、「でも‥」と考えたくなるのは、心配性の本好きの習慣である。さて、10年後、本とその敵たちはどうなっているだろうか。

◆電気アレルギー
今年も花粉アレルギーの季節がやってきた。
 花粉も苦手だが、もっと苦手なのが「電気」である。こちらは季節に関係なく一年中。
 
 電気にアレルギーというと、電化製品の操作が苦手な人や、乾燥する冬に起きやすい静電気、最近時々話題になる「電磁波」が思い浮かぶが、そうではなくて「電気」に触れると身体上に不快な反応を起こす。たとえば、こうやってPCのキーボードを叩いたり、マウスを操作したりすると、しびれる、むくむ、湿疹ができる、皮膚がピクピク痙攣する、指先にチリチリとした刺激、身体に一部に冷やっこい刺激、捻挫のような痛みなどを感じるのである。
 
 今はずいぶん軽減したのでPCで作業ができているが、痛みがひどかった1年半は、ほんとうに何もできなかった。仕方がないので、どうしても操作しなければならない案件以外は、PC入力を全て手書きに代えた。ピーク時には、掃除機や電灯のスイッチにも反応していた。
 
 しかも困ったことに、本人は深刻に悩んでいるのに、周囲のほとんどの人から、好意的な反応でも「信じられないけど、あるのかも?」という怪訝な顔、時には「ありえない」と即断され、笑い話にされる。

 おそらく、ほとんどの人にとって、「電気」に反応なんて信じられないのだと思う。
 けれども、あの花粉症だって、花粉でアレルギーが起きるなど、とても信じられないと考えられていた時代もあった。医療現場でも理解されなかった。

 でも、花粉はもちろん、そば粉や卵、太陽だってアレルギーに苦しむ人がいるのである。
 ほんとうに困っていた一年半、会う人会う人に話をしてみた結果、少数ではあったけれど、この「電気」の刺激に体験的に共感してくれる人がいた。

 ある人はリモコンやパソコンで時々何か感じると言い、ある人は自宅のパソコンのタッチパッドを操作すると指先にチリチリとした刺激を感じるという。彼女はみんな同じように感じていると思っていたので、家族に聞いたら「そんなことはない」と言われ驚いていた。

 いったい何に反応しているのかはよくわからないが、「電気」が発する何かに刺激を感じる人が少数ながらもいるのだと思う。(私の感触では4%くらい)
 それは通常は「不快」程度にすぎないが、体調不良など他の要因と重なると、不快が「苦痛」になることもあるのではないか。だから、少数派でも存在するかもしれない「電気」アレルギーについて、自分の経験をご紹介したいと思う。

◆内藤ルネ
内藤ルネ ロマンティックよ永遠に
四日市市立博物館 2010年2月13日~3月22日

 1953年『それいゆジュニア号』のイラストレーターとしてデビューした内藤ルネ(1932~2007)は、『ジュニアそれいゆ』『洋装』『私の部屋』などで、女の子が大好きな「かわいい」イラストを描き、ファッションや生活スタイルを提案、ファンシーグッズも生み出した。

 「かわいい」「なつかしい」がダブルで踊る内藤ルネ展へのわたしの関心は、この展覧会が何を伝えようとしているのかだった。

 1960~70年代当時の思い出話をしながらゆく女性の二人連れ、あちらこちらで「これ、カワイー」などと言いながら足早にまわる女の子のグループ。予想通りの会場の雰囲気の中を通っていくと、最後のコーナーで紹介されていたのが雑誌『薔薇族』だった。
 『薔薇族』は、1971年に創刊されたゲイのための雑誌である。内藤ルネが男性であることは知っていたので驚きはしなかったが、ペンネームを使い分けて『薔薇族』の挿絵や表紙を描いていたことは知らなかった。
 
 女の子の求めるロマンチックやカワイイで彩られた世界とは一見異なるが、夢見る内藤ルネが『薔薇族』で描いたのは、明るく健康的な男の子だった。ゲイの世界でも、内藤ルネ色を発揮したのだ。それは、内藤ルネの一部としてあるべくしてそこにあった。

【2月】
◆博物館外部システム論
犬塚康博『博物館外部システム論』を読む。読後、報道で、最近国立動物園設立を求める声があることを知る。

 『博物館外部システム論』は、博物館の配置に関する理論のこと。1928年、博物館事業促進会の「本邦ニ建設スヘキ博物館ノ種類及配置案」から始まり、その後しばらく博物館理論の中心を占めた。それは、博物館を一定の構造にもとにあるべきものと定義し、法の力による援助(取り締り)をなす中央集権的なものであった。しかし、戦後日本の博物館は、そうした外部システム論を採らず、内に向かうことで発展してきたのである。ところが昨今注目される動きとして、大阪府にみられる博物館見直しを、外部システム論から読み解いている。

 さて、国立動物園だが、『博物館外部システム論』によると、「本邦博物館、動物園及び水族館施設に関する方針」(『博物館研究』 博物館協会 1946年)と、「観光外客と博物館並に同種施設の整備充実」(日本博物館協会編 1947年)において言及がある。

 「本邦博物館、動物園及び水族館施設に関する方針」では、東京に配置される国営の「中央動物園」がみられ、「観光外客と博物館並に同種施設の整備充実」では、「国立中央動植物園」として、小石川の植物園、恩賜上野動物園、三崎の東大理学部附属の水族館があげられている。

 そして、その後今日に至るまで、国立の博物館はいろいろあるが、動物園は、まだ無い。日本の動物園の中核的存在である上野動物園も、農商務省博物局(1882年)、宮内庁(1886年)を経て、1924年に東京市に渡った。現在は東京都立で、指定管理者制度により東京動物園協会に管理委託されている。

 国立動物園の設立を求める動物園関係者の一人である岩野俊郎(到津の森公園)によると、国は専門性が必要で飼育に予算が必要な動物を、地方ではもっと身近な動物をということであるらしい。(朝日新聞 ひと 2010・1・9)
 珍しい動物を見せようとすることで、「客」の要望に応えることを優先にしてきた動物園が少なくないことは、かねてより動物園の内からも外からも批判がある。改善しようとしてきた動物園の努力もある。そうした中で、今この時期に国立動物園を求める動きが、動物園の関係者の中から起きてきたということが気になる。
 
 なぜ、戦後、国立動物園は無かったのか。それは日本の「動物園」がどのようにみなされて、実際どのように在ったのかということでもある。
 
 そんなことを考えていて思い出したのが、日本モンキーセンターと京大霊長類研究所、そして日本カモシカセンターのこと。ライオンもゾウも、パンダもコアラもいない動物園。動物園というイメージとは隔たっているかもしれないが、動物園のこれまでとこれからを考えるには、こんな動物園に注目してみたいと思う。

◆日本モンキーセンター
久しぶりに、日本モンキーセンター(犬山市)へ。







 2月のモンキーセンターでは、お馴染みヤクニホンザルの「たき火にあたるサル」たちが見られる。このたき火は、もう50年を迎えるということで、園内には50年を振り返るコーナーも。
 ジェフロイクモザルとシャマン(フクロテナガザル)は頭上を行き交い、ボリビアリスザルやワオキツネザルは、運がよければすぐそこ間近にやってくる。(触れるくらいの距離だが、もちろん触らないでね)この日の学芸員によるミュージアムガイドは、尻尾のお話。

 サルについてのあれやこれやが解る学習施設「ビジターハウス」の設置も古い。骨格標本、生態からサルと人の交流史、民俗までサルに関わる守備範囲は広い。隣に位置する霊長類研究所と混同されやすいが、両者の関わりは深い。
 
 1956年に設立された日本モンキーセンターは、1962年には生態学、心理学、実験動物学、飼育管理学などの専門研究員を抱える研究施設であった。1966年に京大霊長類研究所が設立されたことで研究の中心が移るまで、日本の霊長類研究の重要な部分を担ってきたといえる。研究の拠点が移行したことで、モンキーセンターでは、研究そのものよりも、研究の成果を発信する博物館としての役割が大きくなった。
 モンキーセンターについて、もうひとつ注目しておきたいのは、設立当時重要視されていた医学研究などにおける、実験動物の研究及び供給という点でも成果を上げていたこと。
 1957年、モンキーセンターは、日本動物園水族館協会、日本博物館協会、実験動物研究会に加盟している。
 
 登録博物館 財団法人日本モンキーセンター 附属博物館世界サル類動物園への興味は尽きない。

◆日本かもしかセンター
2006年閉園した日本カモシカセンター(三重県菰野町)の剥製5体を含む資料が、菰野町図書館で紹介された。

   「カモシカセンター再び」展 2010年1月30日~2月14日
   主催 NPO法人・県自然環境保全センター
 
 1960年に発足した「鈴鹿山系かもしか保存学術研究会」から発展した財団法人「日本カモシカセンター」は、カモシカの生態研究や飼育・繁殖を目的に、御在所岳山頂に開設されたカモシカ専門の動物園。鈴鹿山系を生息地とするニホンカモシカはもちろん、タイワンカモシカ、シーロー、シャモア、ゴーラル、シロイワヤギ、ジャコウウシ、サイガを飼育していた。世界のカモシカ類10種類のうち8種類の飼育は世界最多。
 1962年ニホンカモシカの飼育のためにカモシカ園を開設し、1965年には世界で初めてニホンカモシカの飼育下での繁殖に成功。1973年、日本カモシカセンター自然博物館開設、財団法人日本カモシカセンター設立。以降、世界各地のカモシカの飼育・繁殖に取り組み、サイガを除く7種の繁殖に成功している。1986年には菰野で「国際かもしか学術シンポジウム」を開催するなど、カモシカの研究では注目されてきた。

 ニホンカモシカは、国の特別天然記念物に指定されており、「三重県民獣」でもある。

 ところで、戦後まもなく、日本の動物園ではニホンカモシカの飼育が望まれており、上野動物園でも積極的に収集・飼育を試みている。ニホンカモシカは欧米の動物園からの入手希望が強く、外国産の動物との交換において有力と期待されていたのである。しかし、上野動物園では、移送後、数日から一年以内に死亡するニホンカモシカが続出。早々に飼育は断念され、生息地付近での飼育という方針が固まった。

 山上に建設された日本カモシカセンターは、御在所ロープウェイの観光ポイントとしても、生息地に設置された飼育施設としても注目されるものであった。しかし、そのことで逆に、行きにくい、観光客の動向に左右されやすい、老朽化した施設の改修・改築が困難という問題に突き当たる。

 2006年11月に閉園。飼育されていたカモシカたちは、各地の動物園に引き取られ、剥製や骨格標本類214点が県立博物館に寄贈された。また、その他の研究資料類は、菰野のNPO法人・県自然環境保全センターが引き継いだ。







◆広瀬鎮『サルの学校』(中公新書 1981)
朝日新聞夕刊の連載ニッポン人脈記。1月末の「差別を越えて」第7回(1月26日)は、猿まわし師の村崎太郎。記事によると「村崎太郎が被差別部落の出身であることをカミングアウトしてから、1年余りたつ」という。「カミング・アウト」という表現に困惑する。このことば、最近、あちこちの媒体で村崎太郎のカミング・アウトが紹介されているので、おそらく本人の弁であろう。
 
 1970年代後半、すでに昭和30年代にはほとんど姿を消していたといわれる猿まわしの「復活」に関わった人々にとって、猿まわしと「部落差別」は、まっすぐつながっていた。それは「部落差別」を、いかに超えるのかを抜きには考えられないことだった。30年という歳月は、そうした経験が忘れ去られるには充分な長さだったのだろうか。

 広瀬鎮『サルの学校』は、「部落差別」とも、動物と共に生きる人に向けられた蔑みとも向き合って、猿まわしの復活をめざす人とサルのお話。朝日新聞の記事に関心を持たれた方には、是非おすすめしたい。

◆うぐいす
2月24日、うぐいすが鳴いている。寒い間、出勤時、行く先にあって眩しかった太陽が、ようやく高さを増す。

【1月】
◆三重県立博物館
老朽化で外壁が崩れ落ち、現在休館中の県立博物館だが、ようやく新博物館の開館をめざして動きが活発化してきた。1月30日には津で新博物館についての意見交換会「みんなでつくる博物館会議2009」が開催されたとのこと。

 すでに公表されている「新県立博物館基本構想」の中で気になったのは、「まちかど博物館」と「公文書館」

 博物館ネットワークの中に位置づけられている「まちかど博物館」。たとえば四日市地域まちかど博物館推進委員会によると、2009年末で72館が認定されている。個人コレクションあり、ものづくりの現場ありの多彩さは、「コレクション」への思いとか、市民参加、まちづくりという点でも注目といったところであろう。けれどもコレクションの多様さ自由さを楽しみつつも、それらが「まちかど博物館」という枠の中で語られることに、違和感を感じてしまうのはなぜだろうかと思う。

 そして、このたびの新博物館に一体的に整備されるという公文書館。市史などの編纂事業で収集した資料の保存と活用については、編纂時に公文書館の整備も合わせて検討しておきたいところだが、実際には刊行終了と共に編纂室が閉鎖され、収集資料の行き先は博物館か図書館かに落ち着くことも少なくない。この場合、保存はともかく、利用まで環境を整備するのは容易ではない。三重県の構想は、公文書館を単独で建設するよりも博物館と一体化させることで得られる財政的なメリットも意識しているが、資料の保存と利用が、博物館ネットワークの中で、どのような効果を生むことができるのか、しばし注目したい。

◆今年最大の満月
1月30日、仕事帰りに何気に空を見たら、前方にあまりに明るく大きな月。「何事?」と思い、調べてみると「今年最大の満月」。知ってしまえば、どうってことはないが、昔々遮るもののないところで、毎日、夜空を見て暮らしていた人は、こんな風に月が近付く夜をどう感じたのでしょう。写真の腕は一向に上達しないが、『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』夜空のスケッチ又は写真とメッセージ募集の2月末締め切りに向かって、毎日空を眺めている。
 
◆割り箸とマイ箸
「マイ箸」などという言葉が使われるようになったのは、20年以上前のことと記憶する。
 当時は「変わり者」扱いだったが、この数年、一種のファッションのようにも感じられる。実際、マイ箸を持参し続けている人が、どれくらいいるのかはよくわからない。現場でお目にかかることは、ほとんどない。ただ、「エコ」を冠した正しい行為として奨励されている風なのがなんとも複雑である。持ち帰りなどで、必要以上に割り箸が付いてくるシステムは当然改善の余地ありだし、自宅や職場などいつもの場所では、食器と同様、箸も洗って使えばよろしかろう。しかし、それをあえて「マイ箸」と称して、箸の持ち歩きを提唱する人びとの脳裏には、「割り箸」=使い捨て=悪という図式があるのだろう。

 かつては箱膳というのがあって、日々の食事で使う食器類一式が、それぞれ個人の箱の中に納められ、箸も食器も毎回洗うものではなく、食後のお茶か白湯で、ちゃぷちゃぷ濯いでOKだった。昭和30年代になると、ライポンなどの台所用洗剤が発売され、やがて台所の必需品となっていたので、昭和40年頃、田舎の親戚宅で箱膳が出、食後、祖父が食器をそのまま箱に仕舞ったのを見た時は驚いた。それは、今とは違って食事に肉類など脂肪が少なく、それで汚れが落ちる程度であった時代の話。見習いたいほどの「エコ」だが、これを今そのまま真似したい考える人は少ないだろう。むしろ油脂を多用した食生活を見直す方が、よほど「エコ」ではないかと思える。
 
 さて、マイ箸・割り箸問題だが、すでにあちこちで指摘されているように、こうした一見わかりやすそうな話は、実はそんなに単純ではない。マイ箸推奨の一方で、森林づくりのためにマイ箸、割り箸に限らず国産材(間伐材)の使用を呼びかける動きもある。割り箸だけではないが国産材製品の衰退が、国内の森林の衰退を招いている。また安さを求めた輸入割り箸の増加が、中国の自然環境にも悪影響を及ぼす。マイ箸か割り箸かではない問題が見えてくる。
 が、なにしろ現在日本国内で流通している割り箸のほとんどが輸入品なので、国産割り箸には滅多にお目にかからない。コンビニのミニストップが、国産割り箸「木づかい箸」を5円で販売しているのを見たことがある程度だった。見ただけで判別できるものでもないが、今月京都に行ったときに新幹線構内のうどん店で、注文したゆば・とうふうどんと共に出てきたのが、国産桧間伐材使用の割り箸だった。


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2010年 後半

2013-12-14 | 2010年

【12月】
鈴木壽壽子『星のふるさと』復刊リクエス
 
 遅ればせながら、復刊ドットコムのリクエストで『星のふるさと』に投票する。

 鈴木壽壽子さんの地元のここでは、市立図書館はもちろん学校の図書室などでも所蔵されているものの、新たな読者を得るためには、やはり復刊されることが望まれる。
 次々と大きな話題に事欠かない天文だが、この小さな本の中に瞬く星に心惹かれる人もいらっしゃるはず。

12月の市立博物館

 1012myuziamu
 12月の四日市市立博物館は、サンデーの南ちゃん、マガジンの星飛雄馬とハヤブサである。

 ハヤブサの展示でにぎわう博物館のプラネタリウムに、冊子『鈴木壽壽子 星のふるさとのこころ』の追加を届ける。新たな出会いがありますように。

若者の自立支援講座始まる
 
 15歳から39歳くらいまでの無業状態の若者と家族・関係者を対象に、情報やコミュニケーションスキル習得の場を提供する講座が始まった。
 
 また、支援活動と平行して実態調査もおこなわれる。主催は三重県(若者自立支援センター)で、受託しているのはNPO法人市民社会研究所である。若者向けと家族向けの講座がある。
 
 若者向けの第一回は、社会復帰自立支援活動に、アニマルヒーリングを採用している「大地の会」が進行した。状況把握と支援活動、どちらも遅いくらいだと感じる人も少なくないだろう。
 
 それにしても他に適切な表現が見つからない「若者自立支援」ということば、「自立」を支援しなければならない状態を生んだ原因はどこにあるのだろうか。

【11月】
ブックショップマイタウン(名古屋)
 『名古屋叢書続編』9~11巻(鸚鵡籠中記)を、インターネットの古書店スーパー源氏の検索で見つけたブックショップマイタウンから購入した。

 本と出合える書店、古書店、貸本屋、図書館は、子どもの頃からお楽しみの場所だった。自宅から歩いて5分の手軽な貸本屋はとっくに無くなり、代わって出かけるようになったのが図書館と古本屋。古書店めぐりは楽しみのひとつだったが、新しいタイプの古書店が盛衰を繰り返す中で、時間が止まったかのような店も、まだぽつり、ぽつりと残されている。
 私が暮らす町でも、古い商店街の一角に、最後に窓を開けて新しい風を入れたのは、いったいいつだったのだろうかと思うほど、年季の入った空気の閉じ込められた店がある。軋みそうな高い本棚、本と本にまとわりつく埃、冬場の暖房、何年もの間に訪れたであろう人々の持ち込んだ臭いが濃密な空間。おそらく店主の体力が続く限りは、この空気がこのまま濃縮されていくのだろう。
 
 さて、ブックショップマイタウンだが、名古屋を中心に東海地方の歴史や文化に関する本を扱うこの店は、次々と果敢に本を出し続けている出版社である。いやいや本だけでない、「名古屋弁てぬぐい」などという「印刷物」もある。近年は、古書に力を入れているそうだ。『鸚鵡籠中記』の全巻セットをしばらく探していて、行き当たったのがブックショップマイタウンであったというのも、なるほどと思える。本が大好きな店長は、「古本屋やろうよ」セミナーも開催している。

 購入古書の代金を「前払いしましょうか」とお伺いしたところ、「いやいや、本好きの人に悪い人はいないから、後払いでいいです」とのご返事。
 ほんとにね、そうですね、そう思いましょう。

混迷続く「障害(者)」表記という問題
 「障害」の表記について検討していた「障がい者制度改革推進会議」が、11月22日の会議で「障碍」などへの変更は当面行わないことを結論とする検討結果を提出した。

 報告では、関係者からのヒアリングと、一般意見募集の結果を検討した上で、「障害」の表記については様々な考え方があることを指摘、「現時点において新たに特定のものに決定することは困難」であり、「当面、現状の『障害』を用いる」としている。

 2010年9月に実施された意見募集には、637件の意見が寄せられ、その内訳は、「障害」を支持する意見が4割、「障碍」を支持する意見が4割、「障がい」「しょうがい」を支持する意見が1割、その他が1割であったという。

 この意見募集には、私も意見を送ったが、一つではない理由を400字でまとめなければならず苦労した。長いと読む方も大変なことは理解できるが、意見が拮抗し、情緒的な主張も見受けられるこの問題について、自分とは異なる意見を主張する人にも理解してもらえる程度に説明するには、400字というのは短い。しかし、意見集約をする人は、おそらく詳述しなくても論点は心得ていらっしゃるであろうと考え、理由を箇条書きにして提出した。

1.望ましい表記

障害 障害が(の)ある人

2.1の理由や意見など

①表記変更で解決できる問題ではない。

②「障害」とは何かについては、個人・医療・社会・文化など多角的な考察が必要。単なる個人の問題ではなく社会のあり方も問われている。

③置き換える場合、「障がい」「障害」又は「障碍」のどれを、どの場合に使用するか判断基準が不明確・困難で、混乱をもたらす。たとえば「交通」「移動」「健康」「通信」「肝機能」「脳機能」「身体」「知的」「認知」「記憶」「視覚」「摂食」「言語」「行動」「歩行」「嚥下」「呼吸」のうち「障害」ではなく「障がい」を使用すべきものはどれかを、どのような基準で判断するのか。

④表記の変更は問題解決に有効ではなく、混乱と多大な負担を生む。むしろ課題の本質的な解決に傾注すべき。

⑤大切なことは「障害」がある人の権利や尊厳をいかに考えるか。「障害者(手帳)」といった表現について新たな方向性を示すべき。権利への理解が、当事者はもちろん広く共有されることを望む。

 漢字を変更すれば解決できる問題ではないということを、「そんなことやっても、どーせ無駄」みたいな投げやりで主張しているのではないことくらいは、少なくとも理解して欲しい。というのも、マスコミの論調(投稿者ではなく、記者の書いた記事)でさえ、「どーせ無駄」などとあきらめないで、表現を変えることで意識を変えようというような主張が一部で見受けられるからである。
 今回出された結果を、「障害者」に対する無理解や、「やさしさ」の欠如、現状維持の硬直した思考などといった紋きりで非難せず、なぜこの表記問題がこんなにも膠着し出口が見えないのかを考えて欲しい。「障害」か「障碍」か「障がい」か問題に矮小化せず、合意形成できる方向を見出したいと思う。
 
 「障害」の表記は現状の「障害」が良い。「障害者」という表記は、もっと議論を尽くしてよい表現を考えましょうと、私は思うのである。

 つまり問題があるとしたら、それは「障害」ではなく、「障害者」の方である。「障害」を負った、あるいは、こうむった人を「障害者」と表現することは妥当だろうか。とりあえず「障害の(が)ある人」などと言い換えているが、「障害者」の代替としては、文字数が多く、話すにしても書くにしても使いにくい。

 被害(者)、被災、罹災、罹患、罹病、負債、負担、負傷、受傷、あるいは、被差別、被保険といった用例を考えると、「障害者」には違和感を感じる。
 「被障者」「罹障者」「負障者」ではなく「障害者」というのは、障害の人を意味する。
 つまり、ある人に降りかかった災害や病気という困難は、一時的なものと考えられるのに対して、ひとたび「障害」を負えば、そこから一生逃れることはできず、障害者という特別な人生を行くしかないという障害観に基づいているのだと思う。

 しかし、たとえば「まず、人間として」を掲げたピープル・ファースト運動が、障害者である前に、同じ人間であるという当たり前のことを訴えたように、「障害」という言葉をめぐる試行錯誤は、障害観・障害者観を大きく変えようとしてきた。
 だからこそ、「障害者」でも「障碍者」でも「障がい者」でもない新しい人間観を、どう表現すればよいのかを考えたいと思う。

【10月】
認知症 予防と治療
 10月最終日曜日のNHKスペシャルは「認知症を治せ」だった。

 番組では、認知症の治療と予防の最前線を取材している。待ちわびている人も多いであろう認知症の治療と予防の情報である。認知症の研究動向は、商業新聞でもしばしば記事が掲載されるほど、世界中で注目されている。

 長い間、認知症は治療方法がなく、なんとも仕方が無いとされてきた。
 診断・治療に打つ手がない中で、まずは起きている症状を理解し、できるだけ悪化させない接し方の工夫に注意が向けられるようになったのは、ごく最近のことだ。さらに、数年前からは病状の進行を遅らせるアルツハイマー病の薬アリセプトが使用されるようになってきた。
 そして、今、認知症の原因の解明、タイプ別診断、治療、さらには予防の可能性も出てきた。
 
 さて番組では、認知症のタイプ別に症状や治療方法を紹介している。
正常圧水頭症のように、治療が可能な認知症もあるという。正常圧水頭症は、脳脊髄液が通常より多く脳室に溜まることで脳を圧迫した結果、歩行・思考障害などがあらわれる。そのため脳脊髄液を抜く手術により、機能を回復させることができるのである。しかし、認知症の原因は専門医でなければ見つけられない。今、手術例は1200件程度だが、全国で31万人ほどの患者が診断されずに放置されているのではないかと推定されていた。

 認知症の中で最も多いのは、およそ半数を占めるアルツハイマー病だが、この他に、レビー小体型(幻視・運動障害)正常圧水頭症(歩行障害・尿失禁)前頭側頭葉変性症(同じ行動や動作を繰り返す・自己抑制がきかない)の特色が具体的に解説されていた。これまで徘徊、暴力、妄想など、何だか訳わからない問題行動として一緒くたになって語られていた認知症の症状を観察することで、原因の診断や治療に役立つというのだ。
 
 8年ほど前、まだ「痴呆症」と呼ばれていた頃、私が初めて「痴呆症」を取り上げて話し合ったとき、この病気について伝えられることが、悲しいほど何も見つからなかった。認知症になってしまったら、もう終わり。本人はもちろん家族もいかに悲惨なのかというを嘆くしかないかのようだったが、それでも、それまで恥ずかしいことと思われ、隠し続けてきたことを話し始める人が出てきたことで、事態の深刻さに気づく人が増えたはず。
 
 この頃は、そもそも相談できる医療機関さえ身近には無く、介護の現場も困惑・疲弊していた。
 やがて日本でも紹介されたクリスティーン・ボーデン『私は誰になっていくの? アルツハイマー病者から見た世界』(続編は『私は私になっていく 痴呆とダンス』)は、「痴呆症」と向き合う時に、何が欠けていたのかを考える大きなきっかけとなったと思う。日本でも、特に若年性の認知症患者が語り始めた。この病気をもっと知って欲しいと。
 
 ようやく地域の病院にも「ものわすれ外来」が開設されるようになり、やがて治療薬アリセプトが使われるようになった。認知症をとりまくこの5年の変化は大きい。そしておそらくこの先5年の変化は、もっと大きいだろう。

 しかし、NHKが伝えたのは、文字通り認知症治療の「最前線」の報告である。たとえば、人口30万人程度のこの町で、認知症の専門医として登録されている医師は一人である。実際、医療や介護の現場で「認知症」とおぼしき患者がどのように過ごしているかを見聞きすると、(個人差はあるが)関係者の認知症についての認識は必ずしも高いとは思えない。現場で苦闘されていらっしゃる方は疲弊している。成果が現場まで行き渡るには、それなりの時間を要するとはいえ、希望が具体的に語られるようになった今、待っている人びとに早く届くようにと思う。

殺すか、生かすか  経済動物の命と経済効率
 口蹄疫について、ずっと考えている。4月の発生以降被害が拡大し続けた宮崎で、7月27日、ようやく家畜の移動制限が解除され、8月27日には終息が宣言された。畜産農家も殺処分に関わった関係者も、食べるために生かす場所で多くの命を奪わなければならないのは、やり切れない気持ちだったろう。しかも人間より大きな牛の殺処分を、これほど大量に手作業ですすめなければならない事態は、想像するだけでも苦しくなる。

 雑誌『WILL(月刊ウイル)』の11月号に、東国原英夫宮崎県知事の投稿「『口蹄疫』とのわが百日戦争」が掲載された。宮崎での過酷な経験は、これから検証がすすめられるだろうが、論点のひとつが「殺処分」の是非だろう。東国原は、世界の動きは「殺処分」回避に向かっており、国の「殺処分」を絶対視する方針に疑問を投げかけている。

 致死率が高いとは言えない口蹄疫に対して、「殺処分」を基本とした根絶対策をとらざるを得なかったのは、貿易に加われないという経済的な理由であると農水省は説明している。口蹄疫自体の脅威だけが問題なのではなく、OIE(国際獣疫事務局)の基準に従って清浄国と認められことが優先されているのである。牛は産業動物、つまり商品であり、日本の経済が他国との貿易で成り立っている以上、「殺処分」は止むを得ないということだろう。結果的に多大きな犠牲を払うことになってしまった訳だが、それでも腑に落ちないのは、「清浄国」という条件を満たすためには「殺処分」しかなかったのかという疑問である。  

 今回、宮崎県では、あまりに大量の殺処分作業が時間的に追いつかないという理由で、感染を抑えるためのワクチン接種をおこなった。ワクチンを接種された家畜は、発病した家畜との区別ができなくなるため「清浄国」になるためには全て処分することが原則であると言われている。あくまで殺すことを前提としたワクチンの接種だったのである。

 しかし、これに対して、生かすことを前提としたワクチン「マーカーワクチン」の有効性を指摘する関係者もいる。東国原の投稿でも言及されているが、「殺処分」を最小限におさえるため、ワクチン接種と自然感染を区別できるように、蛋白遺伝子など追加して特別な印(マーカー)を付けたワクチンである。マーカーワクチンを使用すれば、本当に口蹄疫に感染した家畜だけを殺処分し、発病を免れた家畜を生かすことができるという。

 すでに2001年イギリスでの口蹄疫発生時に使用され、同時期に山内一也によって紹介されていたことを、日本獣医学会のサイトから知ることができる。

 山内によれば、現在使われているワクチンはマーカーワクチンであるといい、東国原によると、今年2010年に宮崎で使われたのは「ワーカーワクチンではない」という。

 いったい今回接種されたワクチンは何だったのか?
 もし、マーカーワクチンでなかったのであれば、なぜマーカーワクチンは選択されなかったのか。
 もし、マーカーワクチンであったのならば、なぜ抗体を検出して処分しなければならない家畜を選択するという作業をせず全頭処分したのか?

 この答えを、今後いつ起きるかどうかわからない(もちろん起きないことを願うが)次の口蹄疫の発生の前に知りたいと思う。

【9月】
龍涎香―大哺乳類展①
 国立科学博物館『大哺乳類展 海のなかまたち』に行く。目的は龍涎香体験。長い間同館に所蔵されていた「龍涎香」が、調査の結果良質な本物であることが判り、龍涎香(直径約30cm、およそ3kg)と、その一部を削って抽出した精油であるアンバーグリス・チンキも展示されている。今回の展覧会では、その匂いを体験できるとあって、この機会は逃したくない。
 
 香料の専門家によるとウッディとかマリン調といわれ、香水用などに合成されたものもあるけれど、この匂いを言葉で表すのはむずかしい。しっかり記憶に残しておこうと3回コーナーを訪れて匂いを嗅いでいたら、さすがに頭痛がしてきた。高級っぽい「お香」、高級っぽい扇子を優雅に開いた時などにありそうなちょっと化学薬品的な匂い‥ 
 
 匂いの記憶をどの程度とどめておくことができるか自信ないなあと思いながら歩いていた帰り道、ああ、この匂いに似ていたと思い起こすこと2度。多分、行き違った女性のコロンなのでしょう。合成アンバーグリスもあるのだから当たり前だけど。さすがに東京は人が多い。東京では、一日数時間で2人出会ったアンバーグリス系。こんな風に強い香を振り撒く人が身近にいたら、かなり嫌だとも思う。
 
 その後、私の住む町の辺りでは、まだ出会っていない。

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シャチの食生活―大哺乳類展②
  国立科学博物館『大哺乳類展 海のなかまたち』で、とりわけ興味深かったのが、シャチの食の嗜好についてである。
 
 北海道羅臼の海岸に漂着したシャチの胃の未消化物から、このシャチはアザラシとイカを好んで食していたことが判明。生息地域には、魚類など他にも食べられる生物は多種類に上るため、シャチの食生活では各々の嗜好性の影響が強いと注目されている。ハクジラ亜目ゴンドウクジラ科のシャチが、同じく鯨類のクジラやイルカをはじめ、アザラシ、サメ、ペンギンなど多くの生物を捕食していることはよく知られている。
 
 同じ頃、名古屋港水族館のシャチ「ナミちゃん」公開訓練を伝える毎日新聞の特集で、水族館飼育のシャチの食生活を知る。和歌山県太地町立くじら博物館で長く飼育され人気ものであったナミは、今年6月に名古屋港水族館にやってきた。ナミの一日の食事は魚50キロとか。毎日新聞掲載の写真は、シャチのナミがバンドウイルカと仲良く並んで、餌をおねだりする表情をとらえている。
 
 それはとても愛らしく、何やら不思議なものを見た気持ちになった。

神社・小学校・駅 ― 猫の鳴く場所
 これ以上はダメってわかっているのに、ついまた連れてきてしまった子猫。
 今度は駅前百貨店の駐輪場で鳴いていた。いつからここで鳴いているのか、泥まみれ。一匹で野外生活ができるような月齢ではない。生後2ヶ月くらい。この人懐こさは、少し前まで誰かに大事に飼われていたはず。しかし、周囲をビルで囲まれたこの辺りに民家はない。隣の店の人の話では、駐輪場には猫がいつもたくさん居るとか。子猫も多いらしいが、野良猫が増殖できるような環境ではないから、時折誰かが子猫を持ち込むのだろうか。ここなら人通りも多いから、猫好きと遭遇するチャンスは少なくないはず。
 
 我が家の猫3匹。1匹目は友人宅で生まれた。2匹目は、生後数日目で神社に置かれた箱の中で鳴いていた。3匹目は、小学校の建物の陰で鳴いていた。そして、4匹目は駅前駐輪場。神社というのは古典的な猫の置き去り場だけれど、今では人がやってくる機会は少ない。小学校なら確かに人は多いだろう。そして駅前駐輪場。迷い込んだのか、置き去りにされたのか。
 
 安住の場所を見つけられなかった猫も多いのが現実だが、今は街中で「野良風」猫を見かけることが少なくなった。野良猫に限らず飼い猫の室外飼育も減少しているのだろう。交通事故、猫同士の喧嘩、繁殖、近所迷惑など室外飼育の問題は多く、我が家の3匹も完全室内飼育である。一定のルールを設けて共同で飼育する「地域猫」の取り組みもあるが、実施例は多くはなさそうだ。

 猫の室内飼育はこれからますます増えると考えられるが、一方でちょっと気になることがある。室内飼育で動物との濃厚で私的な接触が増えると、いつかは訪れるであろう「死」にどのように対処するのかという問題がある。動物の「死」がもたらすペットロスという感情、そして、高齢となった飼い主の病気や死である。かつては、半室内・半室外で、複数の人が飼育に関わることも少なくなかったが、室内飼育の猫にとっては飼い主の病気や死は生存に関わる。飼い主も高齢、特に一人暮らしの場合、家族同様の猫の行く末が心配だろう。高齢の一人暮らしであれば尚更、猫の存在は暮らしにリズムや潤いをもたらす。にもかかわらず。猫との暮らすことを諦める人は少なくない。
 我が家にやってきた4匹目の子猫、私はこの子をいつまで飼い続けることができるだろうか。

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フォアグラという食べ物
 ある夜、ちょっと注目していた個性派俳優さんがテレビ出演していたのでしばらく見ていると、お気に入りのお店紹介コーナーとなり、新鮮でお値打ち価格というフランス産のフォアグラのサラダが登場。
 おお、美食家が好むという「フォアグラ」とは鳥の脂肪肝ではないか。「グルメ」番組で、ゲストが薦めるフォアグラを非難することもできないのだろうが、出演者が、なべて絶賛する様子を見続ける気持ちにはなれずテレビを消した。
 
 食べ物の習慣や好みは様々で、およそ食べられると考えられるものであれば、何を食べようと、あるいは食べたくないと考えようと、個人(又はその社会)の選択を私は尊重している。が、「食べ物」として認めたくない数少ない不快な食べ物の筆頭が、フォアグラである。ガチョウや鴨に、無理やり餌を食べさせて太らせる飼育方法が「動物虐待」であるという批判が強く、欧米では一部、生産・販売が禁止されている。しかし一方で、伝統的な食文化として根強い人気があるらしく(要するに「美味しい」ってこと)、フランスなどでは生産が認められているため、日本でも食べることができるのだろう。
 
 私は食品を生産する行為を「動物虐待」という表現を用いて語りたくはないし、何であれ「食べるべきではない」と主張する気持ちはない。ただ、私にとって「フォアグラ」は食べ物ではない。食べたいと思わないし(実際食べたことはない)、フォアグラを使った料理がメニューに挙がっている店で食事をしたいとは思わない。
 
 私はそれを善悪ではなく、好悪として選択している。

【8月】
雲の端に輝く光の帯、
この雲にはどんな名前があるのだろうかと、思いながら眺めていた。
 8月26日 17:58
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書くこと
暑さの続くこの2ヶ月ほど、文章らしいものをほとんど書いていないことに気づく。7月8月と続いた猛暑に、すっかりバテていたのだが、それでも本はいつもと変わらず読み、展覧会や映画会など、注目の企画にも出かけた。にもかかわらず、書けなかったのはなぜか。

 そこで気づいたのは、この暑さでほとんど歩くことがなかったこと。昼間はもちろん、日が落ちてからも暑い毎日で、できるだけ出かけることは減らし、移動は最短で済ませるようにしていた。季節がよければ30分以上歩く道も、急いで目的地をめざした。慣れた道を30分以上歩くと、いろいろなことを考える。とりとめのない思いも、それなりにまとまってくる。それを何度か繰り返して、書きたいことの骨格が出来上がっていった。そして、部屋の中で書くために考え始めると、今度は無意識のうちにあられや豆などの固いものが食べたくなる。ボリボリ、バリバリしたくなる。とにかく歯ごたえのある食べ物は必需品なのである。
 
 考えることや書くことを刺激する身体習慣‥ そんなことを思い始めたころ、ニコラス・G・カーの『ネット・バカ ―インターネットがわたしたちの脳にしていること―』を読み、改めて自分のPC生活を思う。
 
 パソコンを使い始めた当初、しょせん道具であるはずの「機械」に、どうしてこうも悩まされるのか苛立った。この忌々しい奴を、いかにして手なずけようかと思ったものである(笑)ネット依存などもっての外だったのだが、次々と高機能化する電子環境の刺激に加えて「電子書籍」も喧しい昨今。どう贔屓目に見ても、電子書籍の利便性の前に、「本」の未来を明るく語ることは難しいと思われた。

 「しかし‥」と思うのである。

 「ワープロ」が普及し始めた頃、少なくない人びとはワープロ専用機を清書機と考えた。つまり和文タイプライターの代替と受け止めたのだろう。実際、ワープロの普及で、和文タイプライターは急速に姿を消した。けれども、今から思うと機能が限られていたとはいえ (保存できる文章量が小さい、ドット数が小さく字が美しくない)、 ワープロ専用機のわたしにとっての大きな利点は、文章を作りやすいことにあった。ワープロとは、文章を作る(書く)道具なのである。特に字数の指定された文章を仕上げるのには感動的なほど便利だった。枡を埋めながら文章をあっちこっちへと動かして、ぐちゃぐちゃになった原稿用紙から「解放された」と思ったものである。その上、ネット検索まで追加されたら、これ以上いったい何を望むことがあるだろうかとさえ思えた。

 今や作文の主要な道具は筆記用具ではなくパソコンだけど、文章の構成を考えるときは手書きのメモをつくることも多い。仕上がりを画面で確認してOKの文章もあれば、じっくり推敲したい時は、紙に印刷したものを読みながら手を入れていく。
 ネット検索は便利で手放せないが、その一方で、利用の按配に戸惑ってもいる。

 ニコラス・G・カーの『ネット・バカ』は、もはや手放すことのできなくなった(と多くの人が思っている)ネットや電子書籍などの知的テクノロジーがわたしたちの脳や社会にもたらすもの、たとえばウェブ閲覧が脳にもたらすジャグリング状態や、記憶をコンピューターに預ける「アウトソーシング」の陥穽などを、仔細に論じている。「われわれは道具を作る。そしてそののち、道具がわれわれを作る」ということに思い至れば、得ることができることと、失うものの両方に、少しは静かに向き合うことができるだろうか。 

かぶせ茶
東はコンビナートが広がるこの町で、西の鈴鹿山麓では、お茶の生産がさかん。なかでも「かぶせ茶」は、とても美味しい。太陽の光を遮って新芽を育てるかぶせ茶は、緑が美しい。特に暑かったこの夏、水を注いで数時間でいただく冷茶は、殊の外おいしい。
 
 そんな普通にありふれたことを、わざわざ記したくなったのは、キリンのペットボトル飲料「生茶」に香料が追加されたことを知ったから。ペットボトルのお茶は滅多に飲まないが、外出時、弁当と共に購入した「生茶」を一口飲んで驚いた。ボトルのデザインは似たようなものなのに、以前飲んだ時の記憶とは全く異なる味。表示を見ると「香料」が追加されていた。新製法でより美味しくなったと謳う緑茶風飲料に、いつの間にか追加されていた「香料」
 
 缶紅茶では老舗のキリンが、紅茶に香料を加えるようになったのはもっと古いから、緑茶に香料も抵抗感が少なかったのだろうか。確かに紅茶にはフレーバーティも多い。が、「小岩井 無添加野菜32種」の野菜ジュースというこだわりの商品もあるキリンさん、香料を加えた緑茶風飲料は悲しい。

 このような飲み物が増えないことを望む。 

【7月】
十六ささげ
7月は、十六ささげが美味しく、しかも安い。瑞々しい十六ささげは、さっと茹でて生姜醤油でいただく夏の定番。季節の到来早々、山積みされた愛知産の十六ささげは安く、かために茹でてそのままでも充分美味しいほど、甘く、歯ざわりよくやわらかい。暑さに強いらしいので天候の影響か、品種改良か、産地の選択がよかったのか、どういう按配か判らないが、今年は殊のほか美味しく、毎日いただいている。 

梅雨明け
梅雨明けの日曜日、台所の横で、昼前から何やらガリガリと不思議な音が響く。町内清掃の川浚えは、梅雨前に済ませたはず?まぶしい空の下で、隣町の水路の掃除をしていた若い人は、建設会社のトラックに乗っていた。お隣の町に頼まれたのだろうか。
 かつて(戦後しばらく)この辺りが農村であった頃、仕事、季節の行事や余暇、防災と、町の人びとの繋がりは深かった。しかし、田畑は宅地となり人口は急増したものの、今では参加者の高齢化がすすむ。モノをつくって売るばかりではないサービスの提供は、どんなビジネスモデルとなるのだろうか。 

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【6月】

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おそらく、どこでも同じであろうが、私の暮らすまちでも、5月末から6月の季節になると、蛍が話題となる。川の周囲でゲンジボタルが乱舞するさまを見ることができるのは、市内でも元から自然が残っていた場所だが、公害のまちを払拭するためのイメージキャラクターとして、イメージ作戦に動員されてきた。ところが最近の注目は、「工場萌え」。眠らないコンビナートの夜景が産業観光となっている。妖しく飛ぶ蛍と、コンビナートの目もくらむばかりの夜景。どちらも光り物ではあるけれど‥

6月12日名古屋。夕方、景雲橋を出て東に向かう。外堀通りを東へ。通りの南には古い街並み、頭上には高速都心環状線。私は北側を行く。放置されたかのような深い緑の横を歩きながら、いっそこのままにしておいて欲しいなどと思いながら、大津橋に出る。と、「ホタル観察コーナー」の看板。
 ここでも出るんだ、蛍が。こちらの蛍は、森に生息するというヒメボタル。生息環境を守るため、頭上の高速道路の照明は、埋め込み式で人工光が漏れないようになっているらしい。現地の観察情報によると、5月20日頃より数百匹のヒメホタルが確認され、ピークには一晩で1000匹、6月12日は観察期の終盤となり6匹とのこと。
 市政資料館南を通り、片端へ。ボンボンを横目で見ながら南下。雲竜ビルの前を通って車道を南下、飯田街道へ出る。およそ1時間。

 飯田街道沿いの店で、犬塚康博 すぎの暢 ライブ“腐草為蛍(ふそうほたるとなる)”
 七十二候の蛍(腐草為蛍)は、いのりむし(螳螂生)に比べて、なんてドラマチック。犬塚は、「志段味(天気予報はあしたの晴れをふるさとに告げる)」「月桂樹の家」などの新曲も披露。そして「秋雨」。かなえられないでいる多くのことを考えながら、こういう曲を自分でも歌ってみたいと思う。


ピーター・スピアーの絵本『雨』は楽しい。
 いつだったか思い出せないほど若かった頃、雨が苦になるなんて考えもしなかった。雨が降った日の集まりで、司会者に「お足元の、お悪い中を」などと言われても解せなかった。

 それがいつの間にか、雨の日の外出が億劫となっていた。降り始めの匂いや音に敏感になったのも、雨に対する警戒心からだった気がする。洗濯物を取り込んで、窓閉めて‥と。実際雨の日はストレスも多い。湿気、雷、大雨‥ そして雨歩きの難問は車。疾走する車の水しぶきは、狭い歩道を歩く気持ちを萎えさせる。こんな風に日々の小さなささくれが、澱となっていく。

 一日一日を大切に過ごしたいなどと思うような年頃となり、今年の初めに自分に言い聞かせたのは、「適度な空腹と仲良しになる」「無駄に笑う」であったが、梅雨入りを前に、もうひとつ追加したのは「雨と仲良しになる」 昨年は、風と仲良しになりたいと思ったが果たせなかった。雨も風も、適度に楽しめますように。
【5月】
空空‥
毎日通る道に、そこが見えてくると、気持ちがキュッとなる場所がある。
 建物がひしめく街の一画、昔はめずらしくもなかったであろう空が広がっている。

 ある朝、何やら足場が組まれていたかと思うと、夕方には白く大きな壁が出来上がっていた。
 特別ではない日常の場所で、目の高さで遠くまで見通せるここが好きだったのだけれど、視界の隅に現れた白い壁。早晩、この見通しの悪さにも慣れていくのだろう。

          空空‥

     空が大きな道に出ると あなたのことを思い出す
     あの青の向こうに 見たかったもの
     私たちが見ている先は 今も同じだろうか
     それだけでいいと 言いきかせている

     空に近づく丘に着いたら 荷物はみんな置いていく
     何もないことが 心地よい場所で
     見えるもの聞こえるもの 触れるものを感じて
     大切なこと そっと確かめる

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