忠魂碑について説明しなければならないことになり、市内の慰霊碑を調べ始めた。予想以上に多種類の碑が残されていることを知る。
忠魂碑は、戦時下、戦意高揚に利用されたことが知られているが、戦後は1953年以降、各地で「忠魂碑」などの慰霊碑の建設が盛んになる。市内で建立された多くの忠魂碑に混じって「平和之礎」碑が散見できる。「平和之礎」という表現は共通するものの、字体や揮毫者、建立時期はまちまちで、組織立った動きでは無さそうだ。戦争の記憶が未だ生々しかった時代、人びとは、慰霊に、どのような心を重ねたのだろうか。まずは、どのような碑が残っているのかを知るため各地をまわる。
大型台風が去った後、晴れた日が続いたので、この機会にと市内を北へ南へと自転車で走る。国土地理院2万5千分の1地図と住宅地図を組み合わせて、碑が在りそうな場所に当たりをつける。エリア内のできるだけ多くの碑を調べようと予定を組んだが、だんだん滅入ってきた。
どうしてこんなに勇ましく大きいのだろう。忠魂、英霊、殉国といった言葉で飾られた碑を見上げると、晴れた空は眩しく、刻まれた名前は遠くて読めない。
1976年になって立てられたコミュニティセンター横の大きな忠魂碑を眺めながら、気持ちが萎え始めた頃、別の地域の寺で、「太平洋戦争における戦死者のため 真実之利」と刻まれた小さな慰霊碑を知る。1964年仲秋、有志の手で立てられた碑には、「すきな生ふ小さき塚かも鋤きのこす」(杉菜生ふ小さき塚かも鋤のこす 田中七草)の句が添えられていた。碑の下には、虫鬼灯がやわらかな光を受けて美しい。
ああ、こういう慰霊のかたちもあったのだと気づき、碑の調査計画を変更する。
もっと時間をかけて、ゆっくり丁寧に回ろう。古い集落や共同墓地が、まだ昔日の姿を残しているうちに。