●2010年11月 混迷続く「障害(者)」表記という問題
「障害」の表記について検討していた「障がい者制度改革推進会議」が、11月22日の会議で「障碍」などへの変更は当面行わないことを結論とする検討結果を提出した。
報告では、関係者からのヒアリングと、一般意見募集の結果を検討した上で、「障害」の表記については様々な考え方があることを指摘、「現時点において新たに特定のものに決定することは困難」であり、「当面、現状の『障害』を用いる」としている。
2010年9月に実施された意見募集には、637件の意見が寄せられ、その内訳は、「障害」を支持する意見が4割、「障碍」を支持する意見が4割、「障がい」「しょうがい」を支持する意見が1割、その他が1割であったという。
この意見募集には、私も意見を送ったが、一つではない理由を400字でまとめなければならず苦労した。長いと読む方も大変なことは理解できるが、意見が拮抗し、情緒的な主張も見受けられるこの問題について、自分とは異なる意見を主張する人にも理解してもらえる程度に説明するには、400字というのは短い。しかし、意見集約をする人は、おそらく詳述しなくても論点は心得ていらっしゃるであろうと考え、理由を箇条書きにして提出した。
1.望ましい表記
障害 障害が(の)ある人2.1の理由や意見など
①表記変更で解決できる問題ではない。
②「障害」とは何かについては、個人・医療・社会・文化など多角的な考察が必要。単なる個人の問題ではなく社会のあり方も問われている。
③置き換える場合、「障がい」「障害」又は「障碍」のどれを、どの場合に使用するか判断基準が不明確・困難で、混乱をもたらす。たとえば「交通」「移動」「健康」「通信」「肝機能」「脳機能」「身体」「知的」「認知」「記憶」「視覚」「摂食」「言語」「行動」「歩行」「嚥下」「呼吸」のうち「障害」ではなく「障がい」を使用すべきものはどれかを、どのような基準で判断するのか。
④表記の変更は問題解決に有効ではなく、混乱と多大な負担を生む。むしろ課題の本質的な解決に傾注すべき。
⑤大切なことは「障害」がある人の権利や尊厳をいかに考えるか。「障害者(手帳)」といった表現について新たな方向性を示すべき。権利への理解が、当事者はもちろん広く共有されることを望む。
漢字を変更すれば解決できる問題ではないということを、「そんなことやっても、どーせ無駄」みたいな投げやりで主張しているのではないことくらいは、少なくとも理解して欲しい。というのも、マスコミの論調(投稿者ではなく、記者の書いた記事)でさえ、「どーせ無駄」などとあきらめないで、表現を変えることで意識を変えようというような主張が一部で見受けられるからである。
今回出された結果を、「障害者」に対する無理解や、「やさしさ」の欠如、現状維持の硬直した思考などといった紋きりで非難せず、なぜこの表記問題がこんなにも膠着し出口が見えないのかを考えて欲しい。「障害」か「障碍」か「障がい」か問題に矮小化せず、合意形成できる方向を見出したいと思う。
「障害」の表記は現状の「障害」が良い。「障害者」という表記は、もっと議論を尽くしてよい表現を考えましょうと、私は思うのである。
つまり問題があるとしたら、それは「障害」ではなく、「障害者」の方である。「障害」を負った、あるいは、こうむった人を「障害者」と表現することは妥当だろうか。とりあえず「障害の(が)ある人」などと言い換えているが、「障害者」の代替としては、文字数が多く、話すにしても書くにしても使いにくい。
被害(者)、被災、罹災、罹患、罹病、負債、負担、負傷、受傷、あるいは、被差別、被保険といった用例を考えると、「障害者」には違和感を感じる。
「被障者」「罹障者」「負障者」ではなく「障害者」というのは、障害の人を意味する。
つまり、ある人に降りかかった災害や病気という困難は、一時的なものと考えられるのに対して、ひとたび「障害」を負えば、そこから一生逃れることはできず、障害者という特別な人生を行くしかないという障害観に基づいているのだと思う。
しかし、たとえば「まず、人間として」を掲げたピープル・ファースト運動が、障害者である前に、同じ人間であるという当たり前のことを訴えたように、「障害」という言葉をめぐる試行錯誤は、障害観・障害者観を大きく変えようとしてきた。
だからこそ、「障害者」でも「障碍者」でも「障がい者」でもない新しい人間観を、どう表現すればよいのかを考えたいと思う。
●2009年4月 「障害」「障がい」表記問題の波紋
三重県は、2007年に「障害」「障害者」を「障がい」「障がい者」に改めると発表。その波紋から、3月23日「県民啓発講座」~障がい表記と障がい者の人権~ というシンポジウムが開催されるということで注目していた。
この問題は、たとえば同様の決定をした岐阜県と岐阜市に対して、東海聴覚障害者連盟相談役後藤勝美が、「私は、障がい者にあらず、障害者である」(朝日新聞 私の視点 2009. 1. 23)と主張するなど、関係者の間でも批判が強いのである。が、結局、シンポでは多様な意見があることは示したものの、県は「障がい」路線を見直すことはない模様。
今回の県の決定が問題となるのは「障害」と「障がい」のどちらが良いかだけではなく、「障がい」が正しいかのように結論付けるメッセージを、一定の強制力をもって発することにある。
「障害者」という表現の妥当性については、40年にもなろうとする議論の歴史があり、そこで尽くされてきた指摘は「障害」の「害」だけをひらがなにすれば解決するようなことではないのである。
しかし、いずれにしても「障害」か「障がい」かではなく、ぼちぼち問題の本質に迫るような具体的な提起で、こうした議論を越えていきたいものである。
●障害・「障害」・障碍・障がい ー表記論を越えてー 2008年2月記
三重県は2007年、「障害」「障害者」を「障がい」「障がい者」の表記に改めることを決定した。
決定を伝える県のHPによると、その背景として、「『障害者』の表記における『害』という漢字のひらがな表記については、さまざまな意見がありますが、『害』という漢字のイメージの悪さから、『障がい者』と表す自治体などが増加しています。」と述べ、「もとより、障がい者施策の推進にあたっては、障がいのある人も、ない人も、ともにくらすことができる社会を築くため、当事者の思いを大切にして取り組んでいくことが重要です。」と続けている。
また更に「『害』という漢字の使用を不快に思うとの主張がある一方で、漢字かひらがなかという議論自体を無意味あるいは不快に思うといった意見など、県民、県内外の団体などにもさまざまな議論があります。」とも指摘している。
これらの三重県の説明を一読して、私がまず感じたことは、では、この「障がい」表記問題を決定するにあたり、「当時者の思い」をどのようにくみ取ったのかということであった。
そこで、具体的にどのような方法で「当時者の思い」を聞き取り、どのような意見があったのかをお尋ねしたところ、そのような調査は全くしていないとのご返答であった。これは甚だ面妖なことではないか。たとえばアンケートの実施、関係団体に意見を求めるなど、県民、特に「当時者」の意見を聞くことは欠くことのできない必須事項ではあるまいか。
しかも、三重県も「県民、県内外の団体などにもさまざまな議論があります。」と自ら指摘している通り、「障がい」という表現をめぐっては様々な意見があるにも関わらず、このような手続きを経ることなく、決定を急がなければならない如何なる理由があるのであろうか。
また、「障がい」に置き換える必要のある事例と、「障害」で差し支えない事例として、次のように述べている。
なお、次のような場合は、漢字表記で差し支えないと考えられます。
・過重労働による健康障害についての基礎知識を習得する。
・交通事故の後遺症による高次脳機能障害の話題が出た。
・Aさんは、飲酒に起因するアルコール性肝機能障害の疑いがある。
同じく人間を対象とした「障害」の状態について「害」と表記しても「差し支えない」ものと「差し支える」ものがあるという認識は、いったい何を根拠にしているのか私には理解し難い。たとえば「身体障害」「知的障害」(私は「知的障害」ではなく、できるだけ「知的機能障害」と表現するようにしているが)と「脳機能障害」「肝機能障害」とは違うというのは、いったい如何なる価値観に基づくものだろうか。
具体例をあげる。「認知障害」「記憶障害」「視覚障害」「摂食障害」「言語障害」「行動障害」「歩行障害」「嚥下障害」「身体障害」。これらのうち「害」と書くと差し支えるものと、差し支えないものの判断基準は何か。
●
いわゆる「障害者」問題を語る前提として、それは本当に「障害」と表現されるものなのか。つまりどのような意味において「障害」なのかという問いかけは長年の課題であった。
すでに1971年10月には、『コロニー解体』創刊号に掲載された関西「障害者」解放委員会綱領「障害者解放のために」の冒頭「一、「障害者」の定義」において、「この綱領案を提起するにあたって、まず我々はこれまで何の疑問もなく使用されてきた「障害者」という言葉を改めてとらえかえすことから始める必要がある。」と指摘されている。(楠敏夫『「障害者」解放とは何か -「障害者」として生きることと解放運動』1982)
それは単にことばの問題ではなく、当時の「障害者」をとりまく社会への異議申し立てであった。「善意」であるかどうかはともかく、結果的には「コロニー」という巨大施設に閉じ込められ、時には生きる価値のない存在であるかのように見なされ、一人の人間としてあたりまえの人生を生きることが今以上に困難な時代だったのである。
こうした時代に「障害」「障害者」を語る時には、問題提起を込めて「」を使用する人も少なくなかった。私自身、「障害」「障害者」というように「」を厳格に使用していた時期もあるし、今でも文脈によっては「」を使用している。
その後、国際障害者年の取り組みを経て、どのような「障害」があっても(なくても)人間として等しく尊く、同じように人生を生きる権利があるという当たり前のことを確認すると共に、「障害」観の見直しもすすめられてきた。
昨今の「障害学」においては、個人モデル・医療モデル・社会モデル・文化モデルにおける検証がすすんでいる。ヘレン・ケラーのことばとされる「障害は不便だ、しかし不幸ではない」が紹介されたり、「障害は個性(のひとつにすぎない)」という主張も生まれた。
又一方で「障害者」に関わる用語の見直しも試みられてきた。たとえば1990年代から「精神薄弱」に代替する用語の検討がすすみ「知的障害」に置き換えられた(私は、できるだけ「知的機能障害」を使うようにしているが)。また、同じ頃から「障碍」「エンジェル」「チャレンジド」などが使用されるようにもなった。
このように「障害」観の見直しや、用語の使用について多くの議論が蓄積されてきた経緯を踏まえる時、「障害」とはいかなる意味で「障害」なのか、それは「障害」で良いのかという問いは、今でも大きな課題を投げかけているといえる。では、その解決にとって「障がい」という表記はいかなる意味を持つのだろうか。
只今の状況下において、私は次のように考える。
① 「障害」という表現が適切なものであるかどうかは、「障がい」という置き換えによって解決できるような問 題ではないと理解している。
② 「障害者」をどのように表現するかの判断において、最も優先されるべき要素のひとつは、「当事者がどのように考えているか」であると考える。
③ 現今の状況において、「障害者」団体の多くが「障害」を使用しているという現実を尊重する。すでに述べたように、この現実は、「障害者」団体等の当事者が、「障害」という表現の持つ問題に無自覚、無批判に使用してきたということを意味するものではないことを強調しておきたい。また、今後、多くの「障害者」団体や個人が「障がい」の使用を主張することがあるならば、その時点において、その主張を尊重する。
④ 固有名詞をのぞき、「障害」をどのように表現するかは、基本的にそれぞれが判断することである。障害、「障害」、障碍、障がいのいずれを使用するかについては、個々の判断に委ねられるべきであり、たとえば「障がい」という表現が、他に比べて優れているかのように強制力をもって主張することは、現段階では適切ではない。県の決定は、県の文書のみならず、県の関わる助成や委託事業などにまで広く強制力を発揮しており、「障がい」以外の用語を使用することが事実上困難な状況が広がっている。これは、豊かな議論の前提である「表現の自由」の保障と、「障害者」の自己決定の尊重という二つの意味において看過できない。。
私のまわりには、何らかの身体的な「障害」を持つ人、重い「知的機能障害」を持つ人、軽い「知的機能障害」がある人、重度の心臓疾患で日常生活にも制限がある人など、たくさんの友人がいる。その「障害」の内容も程度もあまりにさまざまである。
こうした友人との私的な関係においては、かの人々を総括して表現できるような便利なことばなどは無いし、そのようなくくり方をする必要もないと思っている。
現代の医療・技術や社会のあり方の中で、一定の「援助」や「配慮」が必要と考えられる状況にある人々に対して、対策を講じることが必要である場面において、便宜的・限定的に「障害者」という概念が必要なのである。
決して「障害者」という特別な存在として生きているわけではないというのが、私の理解である。私にとっては、どのような「障害」があっても(なくても)友人・知人の一人であり、大切なことは、それぞれが抱えている具体的な「問題」を理解し共有することだと考えている。
そのために「障害」という表現が必要であれば、その必要の範囲で使用している。「障害」という言葉の持っている限界を感じ、「障害」という言葉を使うことの居心地の悪さと向き合いながら、「障害」を持つ友人たちと共に生きていく道をさがしたいと思う。
その上でもし福祉の分野などにおいて、「障害」を持っていることで支援を必要とする人びとを総称する何らかの用語が必要であるならば、 援助を受けることを、権利として有しているということが明確になるような表現(たとえば一例として、「受援権者」又は、「身体的受援権者」など)が、求められているのではないか。
この「障害」表記問題が実りあるものとなることを願っている。