1964(昭和39)年4月2日、塩浜病院(四日市市)に気管支喘息で入院していた60歳代の男性が、症状の急激な悪化で亡くなりました。
四日市は3月31日より激しいスモッグ状態にありました。
4月2日の中部日本新聞は、「四日市で連日のスモッグ騒ぎ」「“黒いボタン雪”も降る」との見出しで、「雨まじりのどんよりとした天候のうえに、海から陸へ向けて風が吹きつけたために、臨海工業地帯のスモッグが市中心部にまで押し寄せた」と伝えています。
男性が亡くなった4日後の4月6日には、平田佐矩四日市市長が、記者会見で具体的な公害対策について言及。「公害問題は一刻も猶予できない。国、県でできないなら市の力のおよぶかぎり具体的な対策を実行に移していく」として、病院への空気清浄機の導入、患者の転地療養、市民病院での専用病室の整備といった対策をすすめると述べたといいます。(中部日本新聞1964年4月7日)
また、亡くなった男性の遺言により病理解剖され、大気汚染が原因の初めての死亡例として、同年5月に、大気汚染研究全国協議会で報告されました。
男性患者の死は、当時大きく報道されることはなかったようですが、関係者の間では深刻に受け止められたことでしょう。7月7日、塩浜中学校校庭で開催された「労働者、市民の生命を守る抗議集会」(四日市公害対策協議会)とデモでは、亡くなった男性に黙祷が捧げられたということです。(朝日新聞 1964年7月8日)
その後、ぜんそく患者の治療のため、塩浜病院に空気清浄室が設置されたのは、翌1965年6月のことでした。
(中島久恵 2014年4月2日 記)
四日市 空と海のものがたり ② 山口誓子 ”星恋” の海
野尻 抱影との共著『星恋』には、誓子が四日市(富田・天須賀)と鈴鹿(白子)の海辺で作った句が多く収められている。
露更けし星座ぎっしり死すべからず 1941・9・20 (『星恋』)
肺の病で療養中であった山口誓子が、四日市の柳生夜来に勧められて富田の海に面した別荘地にやってきたのは、1941年9月のことだった。夜来は、「東より太陽を享ける地は健康に最もいい」(『句による自伝』)と富田海岸をすすめたという。
1939年、初航海の“あるぜんちな丸”で神戸・横浜間を往還、途中、四日市で土地の人びとと交流した誓子だったが、翌1940年4月、血痰を見るほど病状が悪化、1941年9月、富田に居を構えた時には安静状態が続いていた。この時の心境を「露の夜更けの星座は一粒一粒磨いたように美しく、それを見てゐると、早く死んでしまつてはならないと思った。」(『句による自伝』)と述べている。それから12年、誓子は伊勢湾の海辺で療養を続けた。
自らの病、戦争、自然災害と生活は平穏なものではなかったが、「昼は伊勢の自然を見て歩き、夜は伊勢湾の天にかがやく星を仰いで、星の俳句を作ってゐた」(『星恋』定本・あとがき)という。
富田へ移ってまもなく1941年12月、太平洋戦争がはじまった。
1942年4月18日、海岸の松林を散策していた誓子は、空に響いた激しい炸裂音を聞く。この時、名古屋、神戸など日本各地が攻撃を受けたが、19日の新聞は「誓つて尊き国土を護れ 備えあれば恐るゝに足らず」という小林防衛総参謀長の談話とともに、「けふ帝都に敵機来襲 九機を撃墜、わが損害軽微」「沈着な隣組の大活躍」(朝日新聞)などと「敵機」を打ち負かしたことを伝えている。
しかし、日本の高射砲によって攻撃され南下する飛行機を目の当たりにした誓子は、戦争への強い不安を感じるようになった。そして、毎日、日が傾くと近くを歩き、句を作った。「戦争の中にあつて孤独で、病気に閉ぢ込められてゐたから、自分が生きてゐることが不確かでならなかった」(『自叙伝』)という誓子は、「自分の生を確かめるため」句を作り続けた。
戦争状態は悪化していった。
戦局は次第に不利になつて在郷軍人の範囲が拡げられた。私は、徴兵検査は近視のため丙種合格で、在郷軍人ではなかったが、丙種合格といへども在郷軍人会に入らねばならぬことになつた。私の病名は、診断書には「陳旧性肋膜炎」と記されてゐた。富田浜病院の安東女医が書いて呉れたのであつたが、その診断書は在郷軍人会に対しては無に等しかつた。私は訓練に参加するように命ぜられた。 (『自叙伝』)
誓子は分会長に病状を訴え、結局は訓練を免除されるのだが、以後、外出は控えるようになった。
この時、誓子のために診断書を書いた安東美沢医師が勤務していた富田浜病院は、1918(大正7)年、緑仙堂石田医院として開業。1923年には、病棟を拡充して富田浜病院と改名、長く結核の治療に力を注いできた。開業当時の新聞折込チラシに見える「サナトリアム」の文字が示すように、自然豊かな沿岸の療養施設であった。夫と共に富田浜病院の開設に携わった医師の石田マサヲは、当時の様子を次のように語っている。
病院の施設や病室の装備にもまして、療養者にとって最大の関心事は、病院をとりまく周囲の自然環境である。この点もまた富田浜病院は最も恵まれているといえる。東海地方で最も綺麗な海水浴場として知られている富田浜が前面にひろがっているのだから、理想的な療養地である。
病院の東側一帯は、波打際まで三百メートルもある白い砂浜で、そこに昔からの松林が風に揺られて天然の音楽をかなでている。砂浜は長さ1キロで、海の彼方には遠く知多半島や伊勢の朝熊山が霞んで見える。右手には四日市港の防波堤が延び、左手には天ヶ須賀・川越の松林に覆われてた浜州が見え、海には漁船が浮かんでいる。
昔から別荘地帯として知られているだけに、閑静で、冬は暖かく夏は涼しく、交通も便利であり、周辺が純農村地帯に囲まれている立地条件から見ても、富田浜病院は療養上の理想的な適地にあると言っても過言ではない。(石田マサヲ『医政相通』)
自然豊かな地で長期滞在していた人びとを、土地の人は「潮とり(汐湯治)さん」と呼んだ。
1945年6月18日、誓子は、四日市の市街地と南部の海軍燃料廠を焼き尽くした空襲を、遠くから目撃している。夜、空襲警報が解除され皆が眠りに入った後、激しい発動機の音に驚いて起きた。「暗い上空からは、焼夷弾がしきりに下降して空中でほぐれ、四日市を焼きつゞけた。」(『句による自伝』)という。
星天(せいてん)を夜干の梅になほ祈る 1945・8・6 伊勢富田 (『星恋』)
オリオンが出て大いなる晩夏かな 1945・8・10 伊勢富田
1945年の夏を、誓子は四日市の富田の海で迎えた。
星一つ焚く火の上に鰯引(いわしびき) 1945・9・6 伊勢富田
星などの高さに夜の鰯雲 1945・10・13 伊勢富田
1946年6月には富田の北の天ケ須賀に移り、更に1948年10月には鈴鹿市白子鼓ケ浦に転居した。天ケ須賀では「海岸沿ひに別荘が並んでゐて、その内側に漁師の町」があり、季節ごとに、海苔やひしこ鰯を乾燥させる漁師たちの姿をながめて暮らした。(「方言」『天狼』1953年8月)
しかし、穏やかな海の暮らしは続かなかった。
1953年9月25日の台風で、誓子は白子の自宅を捨てて避難せざるを得なくなり、多くの蔵書を失っている。台風が通り過ぎた夜半過ぎ、誓子は自宅に戻った時のことを、次のように記した。
外はすごい月夜で、潮は遠くまで退いてゐた。直ぐ眼の前に大犬座のシリウスがきらきらかがやき、その上にオリオン星座が勿体ないくらゐ美しく見えた。それ等の美しい星座を見たとき、私は台風に生命を脅かされたことをうち忘れ、自分の家がどんなにひどい被害を受けてゐても、堪へられると思つた。事実、鎖して置いた雨戸が一枚もない自分の家に踏み入つて、高浪の荒らし去つたあとを見たとき、私は自らを失はなかった。星座のひかりはしづかに強く私を励ましたのである。(「序に代えて 二つの星夜」『星恋』新版 1954年)
直後、誓子は白子を離れ西宮へと移った。
戦後、四日市の都市計画に携わった石川榮耀は、1955年、四日市の海について、南は工業地帯、北は現存する砂浜を残した観光地帯とするよう提言している。沿岸部の都市計画について、工業地帯と自然環境とのバランスがとれた開発が重要と考えていた石川は、四日市北部の海辺について次のように語った。
四日市の水際の美しさは、今日富田浜しかございません。私は名古屋の県庁に14年おつたのでございますが、われわれは常に富田浜というところを高嶺の花のごとく楽しい場所に考えておつたのであります。あれをお埋めになることも、あるいはかまうことはないかと思いますが、しかしこれは今日の計算には入れておきたくない。これは港湾に対して、あるいはその他に対する私の考えに誤りがあるかとも思います。これは皆さんのご批判もありましょう。しかし私は、都市は住むところであるという意味において、桑名に対する、また名古屋に対する対策として富田浜は譲れません。これは白浜青松の場所として御保存になるべき場所でございます。(『四日市市総合都市計画の構想』)
誓子が去った後も、伊勢の海は、しばしば災害に見舞われた。特に、1959年の伊勢湾台風では、四日市の海辺も壊滅的な打撃を受けた。
崩壊した別荘地は再建されることはなかった。
<参考>
「句による自伝」山口誓子全集5巻
「自叙伝」山口誓子全集5巻
「方言」(『天狼』1953年)山口誓子全集9巻
『定本 星恋』野尻抱影 山口誓子1986 深夜叢書社
『星恋』の初出版は1946年、鎌倉書房。その後1954年に中央公論から新版、1986年には深夜叢書社から『定本 星恋』が出た。
『医政相通』石田マサヲ 1978
『四日市市総合都市計画の構想』
早稲田大学大学院 都市計画室 工学博士 石川榮耀氏口述 1955
四日市 空と海のものがたり① 玉井清太郎と円谷英二
玉井清太郎(1892~1917)は、四日市市浜田に生まれた飛行家である。
家業は木工業であったが、子どもの頃から飛行機に興味を持ち、1910(明治43)年、浜田小学校の校庭で試作飛行機を組み立てた。稲垣足穂(註1)によると、特許局に飛行機の発明の願出が相次いだのは1911年で、清太郎も申請したという。飛行機用のエンジンを入手するため、父常太郎と共に上京し、日野熊蔵を訪ねている。また、弟の藤一郎も各地の飛行家たちと交流していた。
1916(大正5)年8月5日、玉井清太郎が公開飛行の場所に選んだのは、四日市の午起(うまおこし)海岸であった。しかし、この日、玉井の国産水上飛行機「日本号」は、エンジンの不調などで飛行に失敗した。2万人の観衆が集まったという。
四日市の海に、市民のための海水浴場が整備されるようになったのは、明治30年代のことと考えられている。富田浜、天ケ須賀、霞ケ浦、午起などに海水浴場が設けられ夏になると関西鉄道の臨時駅が開設された。市内はもちろん、遠くからも海水浴客が訪れ、小学生の海浜学校も開かれた。四日市の海は、海水浴でにぎわっていたのである。
四日市での飛行に失敗した清太郎は、同年10月、東京・羽田の海岸に飛行学校を開校。訓練生を募り、資金を集めながら、1917年5月には3人乗り飛行機を完成させた。そして5月20日公開飛行の日、東京日日新聞のカメラマンを同乗させて羽田を飛び立った玉井は、快調に東京上空を旋回する。東京新橋の民家の上を遠くに飛ぶ飛行機や、上空から手を振るカメラマンの様子をとらえた写真が残されている。自信作であったであろう玉井3号復葉飛行機は好調だった。写真には「玉井氏、グラハムホワイトを操縦し帝都訪問」とある。
しかし、3回飛行し芝浦に着陸の寸前、主翼の損傷により上空50メートルから墜落、玉井、カメラマン共に亡くなった。玉井は24歳だった。
飛行学校は一時閉鎖されたが、1919(大正8)年、弟の藤一郎が四日市で飛行を成功させた。この時飛んだ飛行機は「青鳥号」と呼ばれ、四日市市立博物館に八分の一の模型が展示されている。
玉井清太郎が飛行学校の講師として活動したのは1年にも満たなかったが、この時羽田の飛行学校に入校したのが、16歳の円谷英二少年であった。
円谷は幼い頃からの飛行機へのあこがれを、そして、飛行学校の思い出をくりかえし語った。
「趣味は何ですか?」
と問われた時、私はいつでも、
「ヒコーキです」と即座に答える。
たいてい、質問をした相手は、髪うすい、しわの深い私の顔を見て、ためらいがちに問い返す。「乗る方ですか?造る方ですか?」
「両方です」
乗る方は、今でも暇さえあれば、操縦桿を握るが、造るというのは云うまでもなく、今流行のプラモデルを孫達を相手に組立てたり、仕事に使うミニチュアのヒコーキを造ることである。しかし、私の答えは、いつも子供じみた印象を相手に与えるらしい。
模型とか、玩具は、典型的な子供の領分であるが、ふり返ってみると、私の半生はその子供の領分の中で展開し、人生の方向が決定づけられたという気がする。有体にいうなら、私は少年時代に抱いた夢や憧れの世界から遂に一歩も外に出ることの出来なかった人間なのだ。
(中略)
小学校六年の時、「将来の希望」という作文を書かされて、自分で造ったヒコーキで、世界一周をするという夢物語を書いたら、「お前は山師になるつもりか」と先生からえらく叱られた。
(中略)
大正五年に、本物の飛行士を志して上京した。
ところが、その飛行学校にはおんぼろ飛行機一機しかないし、校舎もなく、先生も一人、研究費、実験費と、飛ばない飛行機造りに月謝を投入しているうちに、学校は閉鎖されて、ろくに操縦も出来ないまま、両親からもらって来た金もスッテンテン、寒空に放り出されてしまった。
(「ゴジラも玩具」『オール読物』1966年2月号)
四日市市立図書館には、玉井清太郎の家族から寄贈された当時の資料が残されている。その中には、1916年、玉井2号機の前で玉井講師と共に9人の練習生たちが並ぶ写真もある。この中に円谷少年がいるのだろうか。どの練習生も、おそらく十代だろうと思わせるあどけなさである。
円谷は、清太郎が墜落死したことで、飛行機を安全に飛ばせるためには物理や数学の知識が必要と痛感(註2)し、東京工科学校に入学した。学びながら玩具会社や活動写真の仕事にも携わった。
戦前の東宝時代には陸軍飛行学校と共に“飛行理論”(1939年)などの教材映画を製作している。そして、軍の強い協力で製作された“ハワイ・マレー沖海戦”(1942年)は、特殊撮影技術が注目された「記念すべき作品」であった。円谷は「それまで冷淡であった邦画各社が、初めて特殊技術の存在をあらためて刮目(かつもく)して来たのである」と述べている(註3)
一方、昭和を迎えた四日市の海も、大きな変貌をとげる。
港が整備され、工場誘致が進められた。1938年国家総動員法の公布後は、臨海工業地帯も急速に戦時体制へと移行し、1939年、四日市南部の塩浜に第二海軍燃料廠の建設が進められた。
午起海岸には、1942(昭和17)年、浦賀船渠株式会社の造船所が建設された。
そして、1945年6月、四日市はB29の攻撃に遭う。6月18日から始まった空襲は、まず市街地を焼き払い、次いで海軍燃料廠も壊滅的な打撃を受けた。玉井清太郎が学び、初めて自作飛行機を組み立てた浜田小学校、そして玉井機のプロペラが寄贈された市立図書館も焼失した。海軍は沿岸部だけでなく、山中にロケット推進戦闘機「秋水」の燃料製造工場を建設していたが、完成することなく敗戦を迎えた。
午起海岸で玉井の「日本号」が話題を集めた1916年から、およそ半世紀後、四日市の海と空は、全国の耳目を集めることとなる。
旧海軍燃料廠跡地は、1955年の閣議決定で、昭和石油に払い下げ、三菱・シェルグループによる石油化学コンビナートと連繋されることとなった。1958年、昭和四日市石油四日市製油所操業開始。1959年、第1コンビナート本格稼動。1960年、四日市海域で獲れる油臭い魚が問題となる。
影響は人間にも及んだ。1961年、ぜんそく患者の集団発生が問題となり、コンビナート周辺で被害が拡大する。地元が反対する中で、午起海岸も埋め立てが完了、1963年には第2コンビナートが稼動を始めた。
そして1964年、四日市の海に“ゴジラ”が現れた(註4)。「建設」は「破壊」であった。破壊と建設を繰り返した四日市の海で、ゴジラが咆哮する。
4月2日朝、コンビナートの従業員であった市民が肺気腫で亡くなった。
3月30日より4月1日にかけて、四日市全域はスモッグに覆われ、市役所に苦情が殺到。3月31日午後のSO2濃度は1ppmを超えた(註5)。激しい大気汚染の中、入院中のぜんそく患者の病状が急激に悪化する。病理解剖もおこなわれ典型的なスモッグ死として報告された。四日市公害との関連が明らかになった最初の犠牲者であった。
<註>
1 稲垣足穂『ヒコーキ野郎たち』)
2 円谷英二「私と数学」『数学セミナー』1969年5月号
3 円谷英二「トリック映画今昔談 特殊撮影技師として歩いた四十年」『中央公論』)1958年10月。
4 『モスラ対ゴジラ』1964年4月29日封切
5 二酸化硫黄(SO2 又は亜硫酸ガスともいう)の環境基準値は、1973年に「1時間値の1日平均値が0.04ppm以下であり、かつ、1時間値が0.1ppm以下であること」と定められた。
<参考>
●市立図書館蔵 玉井清太郎関連資料
写真
明治43年8月 試作飛行機完成(浜田小)
大正5年8月 午起海岸で玉井式水上飛行機公開
大正5年10月 羽田飛行場での記念撮影
大正6年5月20日 3号機前での記念撮影
東京新橋上空を飛行
着陸寸前墜落(現場)
図面
水上飛行機日本号玉井清太郎(作)50分の1
●『四日市市史 通史編 近代』 四日市市
●『わたしたちの郷土 のびゆく四日市 小学校3・4年生用』 四日市市教育委員会
●『定本円谷英二随筆評論集成』2010年 ワイズ出版